温泉旅行――5
ホテルに戻ってきた俺は、彩芽の勧めで、部屋に備え付けられている露天風呂に入っていた。
檜造りの浴槽からはホッとする香りが漂い、柵からは絶景を眺められる。極上とは、まさにこのことだ。
浴槽に肩まで浸かり、ふぅ、と一息つく。
「ようやく落ち着けた」
温泉蒸しまんじゅうを食べてからも、彩芽の熱烈なアプローチは続いた。おかげで心臓が休まる暇がなく、いまだにドキドキしている。度重なるアプローチによって、バグってしまったのかもしれない。
「今日の彩芽はいつになく大胆なんだよなあ……どうしちゃったんだろう?」
ぼんやりと宙を眺めながら、呟く。
温泉街でのアプローチに関してもそうだが、ホテルの部屋でも、彩芽は俺の前で浴衣に着替えようとした。彩芽はスキンシップが好きなほうだと思うが、それにしても行き過ぎではないだろうか?
訝しさに眉をひそめた、そのとき。
「哲くん、お風呂はいかがですか?」
不意に問いかけられて、ビックリしてしまった。どうやら、彩芽が脱衣所に来ているみたいだ。
驚いた拍子にビクッと肩が跳ねる。さながらパブロフの犬。ドキドキさせられ続けた結果、条件反射で身構えてしまうようになったらしい。
お、落ち着け、俺。変に慌てたら、不審に思われてしまうじゃないか。
そう自分に言い聞かせて動揺を抑え、俺は答える。
「ああ。湯ざわりがいいし、景色も抜群だし、最高だよ」
「それはよかったです」
彩芽が相槌を打って――
「では、わたしもお邪魔しますね」
「へっ?」
とんでもないことを言ってきた。
発言の内容が衝撃的すぎて、自分の耳がおかしくなったんじゃないかと疑ってしまう。
しかし、聞き間違いではなかったらしい。脱衣所のドアを開けて、彩芽が浴場に入ってきたのだから。
「――――――っ!!」
慌てて顔を背ける。
危ういところだったが、即座に反応できたため、彩芽の姿をほとんど見ずに済んだ。
ただ、無視できない点がひとつある。
チラリとしか見ていないけど、彩芽はたしかにタオルを巻いていなかった。水着なども身につけていなかった。
つまり、俺の背後にいる彩芽は、生まれたままの姿なのだ。
ただでさえうるさかった鼓動が、より激しくなる。温泉で火照っていた体が、さらに熱くなる。
堪らず、叫ぶように彩芽に訊いた。
「ななななに考えてるの!?」
「わたしもお風呂をいただこうと思いまして」
「それなら、俺が上がったあとでもいいでしょ!?」
「いえ。哲くんが一緒じゃないと意味がありませんから」
「……え?」
彩芽の回答に、思考がフリーズした。
俺と一緒じゃないと意味がないって……こ、これもアプローチなのか?
俺の予想が正しいかどうかは定かではない。ただ、ひとつだけ言い切れることがある。
やっぱり、今日の彩芽はいつもと違う!
愕然としているうちに、シャワーの音が聞こえはじめた。俺が固まっている隙を突いて、彩芽は洗い場まで移動したらしい。
洗い場は浴槽と脱衣所のあいだにある。加えて、俺の手元に手ぬぐいなどはない。彩芽が洗い場にいて、体を隠すこともできない現状、浴場から脱出することはできなくなってしまった。
さ、流石に、万事休すかも。
俺は頬をひくつかせる。
そんななか、シャワーの飛沫が肌を叩く音が、髪をブラッシングする音が、ボディーソープを泡立てる音が、背後から聞こえてきた。
その音に想像力をかき立てられて、いけないとわかっていながらも、彩芽が体を洗っている様を思い浮かべてしまう。
緊張が、興奮が、困惑が、羞恥が、怒濤のごとく押し寄せてきた。情報処理に脳の全リソースを持っていかれたのか、俺は身動きひとつとれない。
やがて、シャワーの音が止んだ。
濡れた床石を歩く音が、ヒタヒタと近づいてくる。足音が近づいてくるのに比例して、俺の鼓動が速度を上げていく。
チャプ
ついに、彩芽がお湯に浸かってきた。しかも、俺のすぐ隣に。
幸い、この温泉は濁り湯なので、彩芽の裸体が見えてしまうことはない。だが、仲のいい女の子と――彩芽と混浴しているという事実だけで、興奮も緊張もオーバーリミットだ。アドレナリンの分泌が尋常じゃない。
いまだかつて、こんなにも鼓動が激しかったことはない。まるで、胸の内側から殴られているみたいだ。
湯あたりとは明らかに異なる原因で、目の前がクラクラする。そんな俺の横で、彩芽が吐息した。
「ふぅ。いいお湯ですね」
その呑気な一言で、とある激情が芽生える。
苛立ちだ。
彩芽には健やかに過ごしてほしい。ひどい目に遭わないでほしい。自分を大切にしてほしい。
だからこそ、裸体で男に近づくような真似が――自分を蔑ろにするような真似が、許せなかった。
「……いくらなんでも、冗談が過ぎるよ」
情と憤に突き動かされて、押し殺した声で警告する。
「わかってる? 俺だって男なんだよ? 理性には限界があるんだよ? 彩芽は魅力的すぎるんだから、無防備に近づいてきたらダメなんだ。じゃないと、手を出しちゃうかもしれない。彩芽を傷つけちゃうかもしれないんだよ?」
こんな醜い欲望を抱いているなんて、本当は知られたくなかった。
それでも打ち明ける。たとえ軽蔑されたとしても、彩芽を傷つけたくなかったから。
キュッと唇を引き結んで、波打つ水面を見据えながら、彩芽の反応を待つ。
一呼吸の間を置いて、彩芽が口を開いた。
「冗談なんかじゃありませんよ」
俺は目を剥いた。
彩芽が続ける。
「こんなこと、冗談でするはずがないじゃないですか。覚悟を決めて、明確な目的を持って、わたしはここにいるんです」
「目的、って……?」
「哲くんに、意識してもらうことですよ」
俺は息をのんだ。
発言に驚いたのはもちろんだが、それに加えて、彩芽がお湯のなかで俺の手を握ってきたからだ。
言葉を失う俺の顔を、彩芽がのぞき込んでくる。
彼女の頬が赤らんでいるのは、温泉の影響ではないだろう。なにしろ、小豆色の瞳が熱っぽく潤んでいるのだから。
ローズピンクの唇が言葉を紡ぐ。
「哲くんは、わたしの気持ちに気づいているのではないですか?」
呆然としながら、俺は悟った。
彩芽は俺との関係を変えようとしているのだと。この旅行中に、勝負に出ようと考えているのだと。




