後日談 電話(前編)
「電話出ねえの?」
3度目の着信を無視して、携帯の電源を落とす仕草をした彼女に尋ねた。
プールの帰り晩飯に寄った店で、太朗が寝てくれたので珍しくゆっくり二人で過ごせると喜んだところだった。
彼女が1回目の着信を無視した時点でかなり動揺したのだが、誰からだとか、どうして出ないんだとか、聞きたいことを口に出すことは出来なかった。
我ながらどうしてこうもへたれなんだ。
1回目に気にしていない振りをして流してしまったので、2回目の着信の時には尚更聞けなかった。
しかし、不信感は強まって物凄くもやもやイライラしていた。
3度目の着信の後、意を決して声を出した時には、完全に不機嫌丸出しの冷たい声音になってしまっていた。
1回目に軽く聞いておかないからこんなことになるんだ。彼女の怯えているような悲しいような顔を見て後悔した。
「ごめん。気になっただけ。怒ってはない」
彼女が、最近あまり見なくなった困ったような悲しいような顔をした。
「悪かった。その顔させたかったんじゃない。ごめん」
「違う。そうじゃないよ。今のはどう考えてもお兄ちゃんが謝ることじゃないでしょ?」
彼女が慌てた様に言った。
小さい座敷の個室で長方形のテーブルの片側に太朗を寝かせ、その向かいに俺が、太朗の頭と俺から斜め向かいの位置に彼女が座っていた。
太朗を寝かせて彼女が席を移動する際に、隣に来てくれることを期待したのだが、個室で俺の隣は危険と警戒されたのだろう。
自分から距離を取られた事にもきっとイラついていた。人目のない場所で二人きりで過ごせるなんて、あの足湯以来始めてのことだったのに、近付かせてくれない彼女に対して腹を立てていた。
そんなくだらないことも合わせたイライラで彼女に当たったのだから、俺が謝って当然だろう。
「いや、電話のことは普通に聞けば良かっただけだし。嫌な言い方したからそれについて謝っただけ」
彼女が微妙な顔をした。当てがはずれたって感じだ。
「電話の相手追及されないですんだと思った?やっぱりやましい相手なわけだ?男?」
彼女がまた情けない表情になる。
「何よ。謝ったわりに結局怖いじゃん。怒ってるでしょ?」
確かに、謝ったくせにすごく嫌な言い方してるけど、もう仕方ないよな。
「男からの電話隠してんだったら怒って当然だろ。それは謝らないよ。で、誰?俺に返事保留しながらやっぱり男探してんの?」
ああ俺。いらんことまで言ってる。
「そんなこと、してない」
ほら。泣きそうな顔で必死に我慢してる。これじゃもう、今日はしゃべってくれないだろうな。
案の定、彼女は唇を固く結んだまま太朗を抱き起こして席を立った。
いつもなら、寝ている太朗を抱くのは俺の役目だ。相当怒らせたかも。
代わるよと声をかけることが出来ず、代わりに勘定書きを手に取って、靴を履いている彼女を追い越した。
良かった。小遣い出たばっかりで。
彼女は何も言わず車に向った。
置いていかれるかとも思ったが、一応送ってはくれるようだ。
助手席に乗り込むと、硬い顔のままの彼女はすぐにエンジンをかけ車を出した。
後部座席を見ると、目を開けたり閉じたりしていた太朗が再び寝付くのが分かった。
「怒らせたのに送ってもらってごめん」
こっちも気になることはあるので謝りたくはなかったが、送ってもらう手前一応声をかけた。
返事をしない彼女に、やっぱり無視されるのかと不貞腐れた気分でいると、しばらくして小さな声が聞こえた。
「怒ってるんじゃない」
震えているように聞こえ彼女の顔を見ると、やはり前を向いたまま泣くのを堪えているように唇がへの字になっていた。
「泣くの?」
責めるつもりはなく、確認しただけのつもりだったのだが、俺がそう聞いた瞬間彼女の目からぼろぼろと涙がこぼれ始めた。
「ちょ、待って。泣くなよ。怒ってないって!ごめん!泣かないでよ」
焦る俺をよそに彼女は嗚咽までもらし始めた。
「取り敢えず車停めて。危ないだろ」
自分でも危険を感じたのだろう。彼女はすぐに最寄のコンビニに車を停めた。ほんとコンビニバンザイ。
彼女が袖で顔を隠しながらしゃくりあげているので、何か涙を拭くものはないかと考えたが、俺はプールの後使ってびしょ濡れのタオルしか持っていなかった。
「バッグ取ろうか?」
太朗の横にバッグを転がしていた彼女に聞いた。
「いらない」
速攻拒否された。
「なんで?拭くものいるだろ?」
自然いらついた声になったせいか、彼女が沈黙した。俺は何度も何度も懲りずに何やってんだ。反省していると彼女がやっと声をだした。
「ハンカチ忘れた」
泣きべその情けない声に彼女らしい理由で、不覚にも噴き出してしまった。
「こんな時に笑わすの止めてよ。じゃあ、俺のびしょ濡れタオルでもいい?」
彼女がまたしばらく黙った後、顔を伏せたまま言った。
「いい」
「はい」
俺のタオルを渡すと、彼女が下をむいたまま受け取って顔に当てた。
「ありがと」
まだ泣き声だが、涙も嗚咽も落ち着いたようだ。
「落ち着いた?」
彼女がタオルの上から目だけを出し俺を見た。前も見たことあるなこれ。泣く時目から下隠したくなるのかな。
「うん。結局我慢できなかった」
「何を?泣くのを?」
「・・・うん」
彼女は顔を隠したまま頷いた。
「泣かないように席たったの?俺無視して」
「だって、しゃべったら絶対泣きそうだった」
可愛い顔をしている予感がして、タオルを押さえる手を引っ張るが抵抗する。
「結局泣くんだから我慢する必要ないだろ。顔見せてよ」
手を引く力を強めるが、物凄く抵抗してくる。
「嫌!やめてってば。いーやだって!」
「なんで」
「なんででも!」
「はー、意味不明な我侭だな」
ため息をつきつつ言うと、彼女が勢いよくタオルをおろした。また今にも泣きそうな顔だった。
「ごめん!」
焦って彼女の手ごとタオルを顔に戻させると、彼女が潤んだ目を細めた。
「何?」
「お兄ちゃん」
「何」
「あたし、お兄ちゃんの怒ってる声、結構怖いのよ。他の人に怒られたって、こんなには怖くないと思う」
え?どういうこと?まさか子供っぽく怒りすぎて嫌われた?いや、そんなにしょっちゅう怒ってる訳じゃないよな?でもこれって。
続く台詞が怖くて、体中の血が一気に冷えるような心地を味わっている俺に彼女が続けた。
「たぶん、お兄ちゃんに嫌われるのがすごく怖いんだと思う」
え?
「でもだからって、いい年してすぐ泣く女は嫌われそうだし、我慢、したか、った」
嫌われた訳ではないことにほっとして、再び泣き声になる彼女がどうしようもなく可愛かった。
「ああ、びっくりした。怒りすぎて俺が嫌われたのかと思った」
彼女が顔を隠したまま首を振った。また泣くのを堪えているのだろう。
耐えきれず、彼女の頭を引っ張ってぎゅうと抱き締めた。
「太朗が寝てる時ぐらい我慢しないで良いよ。俺が我慢できないで怒ってるんだから、我慢しないで泣いてよ。たまきさんも。俺泣かれたからって嫌ったりしないよ」
どさくさ紛れで初めて名前を呼んだけど、聞こえたはずだが完全に流された。大人だな。
「うう、そうよ、お兄ちゃんが泣かせてるんだから、泣いたからって嫌われても困るんだからね」
そして泣きべそで憎まれ口を叩いてきた。可愛いなあ。
「だから、嫌わないって言ってるし」
「あと、怖いから、怒った声出さないで」
「それは、努力するけど、約束は出来ないな。取り敢えず、さっきの電話の男の件が解決するまでは約束出来ない」
そう言うと、彼女が沈黙した。




