ごめんね
「 はー」
彼女がシートの背もたれに寄りかかり、ため息を吐いた。
「 予想を超えた大変さだったな」
俺もふうと息を吐いた。
「 ああそう?あたしは予想通りくらいだった。寝てよかったよー。朝早く起こしといて正解だった」
「 マジで?予想の範囲内なんだあれ。そりゃ一人で連れて出れねえよ。俺も止める」
彼女が向かいの席に座る俺を見て、微笑んだ。
「 なんで笑ってんの?」
「 何でもない。お兄ちゃん重くない?ていうか暑くない?」
寝ている太朗を抱いた俺に彼女が言った。
「 確かに、重くはないけどかなり暑い」
「 ここに置いて良いよ。お兄ちゃん脚長いから落ちそうになっても止められるでしょ?」
2人掛けのシートが向かい合っている席に座っていたので、彼女が肘置きを上げてから俺の隣に移る。
彼女が座っていた向かい側のシートへ太朗を寝かせた。
「 席空いてて良かったな。寝たら寝たで大変なんだな」
重くはないけどずっと抱いてるのは疲れるし、腰が悪いと言う彼女は尚更きついだろう。
「 そうね、あたし電車使わないからその辺考えてなかった。ほんと良かったよ、お兄ちゃん来てくれて」
しみじみと言われて俺も自然に答えられた。
「 どっか行きたいとこあったら取り合えず声かけてみてよ。暇だったらついてくから。こりゃあ当分大人一人で太朗と遠出は無理だろ」
「 ありがとう!ああ、でもお兄ちゃんに頼りっぱなしであたしは大人として自分が情けないわ」
一度目を輝かせた彼女がうな垂れた。
こうやってあからさまに嫌がらずに素直に頼ってくれれば、もっと嬉しいのに。
「 まあ、行きたくなきゃ行かないでも良いんだし。太朗がどっか行きたいって言う時には誘ってみてよ。俺がついてけば太朗が行きたいとこに行けるんなら喜んで行くし。俺じゃなくても親父でもお袋でも大喜びで行くと思うけど」
少し面白くなくて、太朗を眺めながらそう言うと、彼女が静かに呟いた。
「 有り難う、嬉しいです」
ちらりと確認した彼女は、泣きそうにも見える顔で笑っていた。
今なら聞けそうな気がして、さり気なく聞いてみた。
「 じゃあなんで泣きそうなの。本当は迷惑?」
「 違うよ」
彼女は太朗の方を向いたまま続けた。
「 嬉しいからだよ」
「 そう。じゃあ良いや」
俺もまた太朗に視線を戻して答えた。俺を必要としてくれてるのなら、男としてじゃなくても良いや。
「 お兄ちゃん、テストどうだったの?」
しばらく二人とも太朗を見ていたが、彼女が口を開いた。
「 あ?テスト?良かったよ。順位も上がってた」
「 そうなんだー。良かったねえ」
あなたを見るために課外も受けたし、無視されだしてから現実逃避に勉強してたからね。とは勿論言えず、頷き返すに留めた。
「 課外も受けてたもんね」
そうだけど、無視されてたけど。
「 うん」
素っ気なくそれだけ答えると、彼女が困ったように口ごもる気配を感じた。俺が空気悪くしてるぞ、大人になれ俺。忘れた振りだ。
「 ごめんね」
「 え、何?」
彼女を見て聞き返した。また泣きそうな困ったような変な笑顔だった。
「 あたし感じ悪かったでしょ?ごめん」
「 ああ、まあ、いや良いけど」
いや、良くないだろ。理由を聞け俺。彼女はもう一度微笑んだ。変な顔のままだ。笑いたくなきゃ笑わなきゃいいのに。
「 ほんとお兄ちゃんてあれだよねー」
どれなんだよ。
「 何?」
「 ううん、何でもない」
「 ふうん」
ちょっと沈黙があった。聞ける、今の雰囲気なら聞ける。頑張れ俺。
「 何で」
「 え?何?」
「 何で俺、無視されてたの」
彼女の顔は見られなかったけど、何とか言葉にすることができた。答えてくれるんだろうか。
「 あ、あの、ちょっと勘違いがあったと言うか、ごめんね」
「 どんな?」
彼女が困ったような嫌そうな顔をした。やっぱりあれかな、政木の当たりか。言いたくないのだろう。
「 どんなってええと、お兄ちゃんがあたしに会いたくないんじゃないかなーとかね」
俺が会いたくないと無視されるのか。
「 何で」
「 え?それは、送ってもらいたくなさそうだったから?」
「 ああ確かに、嘘だったんだあれ。部活が昼までだって言うの」
彼女が驚いた顔で俺を見て、ちょっと眉を寄せた。
「 やっぱり。何でそんなこと」
今度は俺が質問された。わざと軽めの口調で答えた。
「 えー。なんか俺がしたことなかった風にされてたから?ちょっとそういうの見たくなかっただけ」
彼女の反応を窺うと、表情の読めない硬い顔をしていた。
「 でも、もういいよ。俺は子供だから無理なんだって分かった。しつこくしたりしないから普通に友達してよ。こうやって誘ってくれたんだし、嫌われてはないんだろ?」
彼女はまだ言葉を発しない。
「 何かしゃべってよ。無理して笑わなくてもいいけど、無視は俺きついよ。凹むし」
彼女が硬い表情を崩した。
「 え?泣くの?ちょ、ちょっと待って。ごめん、こんな話しなきゃ良かったな。ああ、ごめんって。泣かなくて良いって」
彼女の目から一筋こぼれた涙にうろたえた。泣いてる人間の慰め方なんて知らねえぞ、どうしたらいいんだ!
彼女が慌ててバッグからタオルを出して顔を隠した。
「 ごめん。大人気なかった。あたしが悪かったのに、結局心配してくれるんだよね。お兄ちゃんが優しいからって、あたしほんと、どれだけ甘えて」
彼女は震える声で自嘲気味にそう言ったが、後は続かなかった。泣き止もうと努力でもしているのだろう。
俺の隣で俯く彼女の頭に、思わず手を乗せてしまっていた。何やってんだ俺!見た目より柔らかい髪の感触に我に返り慌てて手を引っ込めた。
「 ごめん!つい」
焦った俺の声に彼女が顔を隠したまま笑った。
「 いいよ、頭なでられるのなんて久しぶり。太朗になったみたい」
太朗とは違うんだけどな。まあ、いいか。嫌ではないってことだよな。
意を決して、もう一度彼女の頭に手を伸ばすと、太朗にするように髪をかき回した。
「 止めてよー。頭ぐしゃぐしゃになるじゃん」
彼女がタオルの中でもう一度こもった小さな笑い声を上げた。
無言で彼女の乱れた髪を梳いた。好きな人の髪に触れているということで、痛いほど心臓が鳴って、滅茶苦茶顔も赤かったと思うけど、彼女はタオルに顔を埋めたままだった。
嬉しいことに、彼女は何も言わず、その後も俺の手を嫌がらなかった。
このまま頭を引き寄せて、抱きしめられるような関係になりたかったんだけどな。そういう事を望むと彼女は離れていくんだろう。髪を撫でながら、物理的には近づいている彼女との距離が、実際は遠退いたような気がして切なかった。
目を覚ました太朗の相手をし始めた彼女は、今までのか弱い姿が嘘のように、元気な母親だった。
太朗に泣き顔を悟られるわけにはいかないので無理しているのだろう。
母親って大変だな。辛いときとか哀しいときにも笑わないといけないのかな。
彼女は座席から降りて走り出そうとする太朗を押さえるのに苦労していた。
「 太朗、もうすぐ着くぞ。あれ公園じゃないのか?」
窓から外を指差すと太朗が窓側の席によじ登った。
彼女が慌てて太朗の靴を脱がせている。これで駅に入るまでは外を見ててくれるかな。
太朗の服をがっちり掴んだまま一緒に窓の外を眺めている彼女の後姿が、頼もしい様で、頼りなくも見えて、やるせなくて酷く愛おしかった。




