お兄ちゃんのせいよ
「 今なんて言った?」
急激に冷やされた頭で恐る恐る彼女に尋ねるが、しゃくりあげて泣いていて返事をしない。
「 ねえ、さっきなんて言った?」
彼女の前にかがんで伏せた顔を覗き込みながらもう一度尋ねると、顔を上げ泣き顔で俺を睨んだ彼女が、俺の肩を両手で力一杯突いて叫んだ。
「 知らん!」
知らんって。自分で言ったんだろ。非力だけどめちゃくちゃ怒ってんな。
「 まさか独身って言った?」
「 関係ないでしょ!」
今すぐに詳しく聞きたいのに、めちゃくちゃ怒らせてしまってるし、酒が入ってるからか会話にならない。
「 ごめん。さっき言ったこと取り消す。ごめん」
とにかく落ち着いて貰おうと急いで謝ると、彼女がすでにさっきの行水でびしょ濡れになっているハンドタオルで顔の下半分を隠しながら眉を寄せて俺を見た。
「 ホント?」
「 ほんと」
「 どれを?」
「 どれ?えと全部。ごめん、ていうかほんとに独身って言った?」
望む答えを期待して、心臓が息苦しいほど強く音を立て始めた。
彼女がタオルの上から目だけを出して俺を見ている。返事を待ってじっと見つめた。
何か腹も痛くなってきた。嘘とか言わないで。お願いします。お願いします。
彼女がまた両目を潤ませ、タオルに顔を伏せる間際に小さく呟いた。
「 言った」
マジで!ああ神様!マジで!超嬉しい!どういうことなんだー!!
訳が分からないような、踊りだしたいような、夢が醒めるのを恐れるような、何とも言えない複雑な気分だった。
かなり混乱して興奮していたが、彼女の泣いている姿を見ていると徐々に落ち着いてきた。
「 別れたの?」
彼女がしゃくりあげながらかぶりを振った。
「 結婚してない」
「 え?太朗は?」
少しためらった後、彼女がタオルを膝におろして答えた。
「 ・・・・婚外子なの」
俺の頭にはてなが浮かんだ。
「 コンガイシ?」
「 知らない?」
「 知らん。カタカナ?英語?漢字?」
彼女がふわっと微笑んだ。怒りが収まったのはいいけど馬鹿にされたんじゃないのか?
「 漢字。結婚してない相手との子のこと。太朗の父親とは結婚しなかったの」
彼女が気まずそうに目を逸らした。
「 なんか隠してたみたいになってごめんね。家族の日に言おうかと思ったんだけど」
「 いや、ええと、どういうこと?結婚しなかったけど太朗生んだってこと?」
「 そう、結婚する約束してたんだけど、妊娠してから振られちゃって」
笑いながら言う彼女がなんだかひどく頼りなく見えた。そして今まで旦那だと思って想像していた太朗の父親像が最悪の形で固まった。
「 はあ?何そいつ、信じられねえ。肩車も虫も駄目なへたれで稼ぎも悪い上に最低男かよ。なんでそんなのと付き合ってた訳?」
彼女が目を見開いた後、面白そうに笑った。なんで?
「 あははー、言ってなかったせいで勘違いが進んでるね。肩車も虫も大丈夫な頑丈な人で、稼ぎもいいけど、私と結婚しなかっただけよ」
俺は考えた。でもちょっとやそっと考えたくらいじゃ整理がつかなかった。
「 頭ぐちゃぐちゃで分からん。後で考える。でも、独身ってこと?」
彼女が思い出したように、俺を睨んだ。泣き顔で睨まれても可愛いだけだけど。
顔を洗って更に泣いたことで、元々濃くもない化粧が落ちてしまったのかいつもより顔が薄い事に今更気付いた。でも可愛いな。
「 そう。だからあたしが男と飲んでたって別に責められることじゃない」
顔は可愛かったが台詞は可愛くなかった。ムカッときて立ち上がった。
「 宮本にやられるような状況を自分で作っといて良く言うよ」
「 それは反省してる。もうしない」
彼女の憎たらしい不貞腐れた顔と口調に含みを感じた。
「 だけど、男はこれからも漁るって言いたいの?」
自分の口から酷く意地の悪い声が出ていた。
「 そういう言い方しないでよ。太朗に父親探したっていいでしょ?独身なんだから」
彼女も完全に俺にムカついている声音だ。喧嘩っぽくなってきたな。なんで俺この人と喧嘩してんだ?
「 こんな探し方したってろくなのいないと思うけど」
彼女がぐっと詰まった。自分でもそう思ったんだろう。
「 そうだけど!でも、やっと頑張る気になったのに・・・。あたしにずっと独りでいろって言いたいの?」
憎たらしかった彼女が一変して、情けない表情を浮かべた。
「 そんなこと言ってない。ごめん」
あわてて謝ると、彼女が驚いたような顔をした。
「 なんで謝るの?」
「 え?だって、ずっと独りでいろなんて思ってないし。こんなことは今日初めてだったんだよな。そう言ってたもんな。ごめん。なんか俺えーっと、結婚してると思ってたから今日色々腹立てて、その整理がまだついてないみたい。だからごめん。いろいろ勘違いでひどい事言ったかも。うわ、ほんとにごめん」
しゃべりながら青くなって頭を下げた。男漁るとか。浮気とか。後始末とか。ただフリーの女の人が男と飲んだだけじゃん。しかも太朗生んで初めて飲んだって言ってたじゃんさっき。まずい。まずいぞ俺。暴言はきすぎだろう!
頭をあげると、彼女が俺を見て困ったような顔をしていた。
「 そうやってお兄ちゃんがさあ、はあ」
彼女が何故かため息をついた。
「 何?」
「 お兄ちゃんがそうやってあたしに優しくするから、今まで大丈夫だったのに駄目になっちゃったんでしょ」
何かを俺のせいにされた気がするが、分からない。
「 太朗にもほんとに優しいし、太朗もすごく楽しそうだし、あんなの見せられたら父親だって欲しくなるわよ」
これは分かった。
「 俺のせいで太朗に父親が欲しくなったのは分かった。飛行機やったからだろ?その前は?俺のせいで何が駄目になったって?」
彼女はじとっと俺を見た。
「 お兄ちゃんのせいで、男が欲しくなったのよ」
え?
「 太朗の父親と別れてから男なしでも全然大丈夫だったのに、駄目になったの!こんな良い身体のイケメンが近くに居て、しかも凄く優しいんだもん、そりゃ男も欲しくなるわよ。あたしのせいじゃない。絶対お兄ちゃんのせいよ」
俺は彼女の前に立ち尽くしたまましばらく固まった。4回くらい彼女の言葉を頭の中でリピートした。真っ赤になってたと思う。でも暗くて見えないはずだ。
「 そして、可愛いしさ。もうなんなの?」 しかし赤面は彼女にばれていたようだ。
「 でもよく考えたら、お兄ちゃんみたいな良い男捜したって余ってるわけないのよね。良い男なんだから。はあ、なんで高校生なのー」
彼女のため息交じりの嘆きが胸に突き刺さった。駄目なんだ俺。高校生だから?
「 俺のせいで男欲しくなったのに、俺じゃ駄目なの?」
思わず、口をついて出てしまっていた。




