いや、でも、なんだこれ?
朝から俺に手を振ってくれる彼女を見下ろし、物凄く悲しくなったりしていたが、意外にも虫取りから1週間も経たないうちに彼女からの連絡があった。いや、正確には太朗からだな。
風呂場から部屋に上がる途中、手の中で携帯がふるえた。
彼女の番号を手に入れるまで、鞄の中に放置されバッテリー切れになっているのが常だった携帯を、家中持ち歩く癖がついてしまっていた。
自分の変化が気持ち悪い様だったが、やっぱり風呂にも持って行ってて良かった。
「 はい」
階段の残りを駆けあがって部屋に飛び込み、ばくばくして震える指で電話をとると、彼女のものではない舌足らずの高い声が聞こえてきた。
「 おにーちゃーん、たたぐるまーしゅるー」 太朗か。残念でもあったけど、思わず笑ってしまう。後ろで彼女が「 こら、今晩はでしょ」 と言っているのが聞こえた。
「 こんばんあー。たたぐるまー」
「こんばんは、にいちゃんだろ?」
「にーちゃーん!」
声を上げて笑ってしまっていると、声が彼女のものに入れ替わった。
「 ごめーん、おにいちゃん今晩は」
慌てて笑いを引っ込めた。
「 今晩は」
「 今大丈夫だった?」
落ち着いた優しい声で尋ねられ、太朗との会話で落ち着いていた心臓がまた飛び跳ねだした。
「 はい、大丈夫です」
「 良かった。太朗がお兄ちゃんに電話するって聞かなくて。ごめんねー」
「 いや、いいです。俺が言ったんだし。肩車ですか?」
彼女が声の調子を困ったような申し訳なさそうなものに変えた。
「 そうなの。でも気にしないでー。座ってだったらあたしも出来るし。取り敢えず電話しないと寝そうになかったからかけさせちゃったのよ」
「 いや、座ってでも腰には良くないんじゃないんですか?」
「 ちょっとだったら大丈夫、あこら太朗ひっぱらないでよ」
「 おにーちゃーんひこうきしゅるー!」
きっと二人で携帯を握って、顔をくっつけ合ってるのだろう。想像しただけで二人が可愛くて笑えた。
「 飛行機って言ってますね」
「 ・・・・言ってるね」
頑張れ俺!
「 ・・・・・・・・・・行きましょうか?明日幼稚園」
しばし緊張の沈黙の後、彼女が言った。
「 良いの?」
良かった!嫌がられてはないだろう。どちらかと言うとおねだり口調だ。やった!嬉しいぞ!
「 はい。太朗に言っといて下さい」
「 ありがとー!あたしよりお兄ちゃんが早かったら園に入れてもらえるよう先生にも言っとくから」
彼女の弾んだ声に、俺も一層嬉しくなる。 跳ねる心臓も心地好かった。
「 いや、駐車場で待ってるから良いです」
「 そう?でも一応伝えとくね。帰りは送るからね」
「 え?でも」
「 あ、なんか用事ある?」
彼女が慌てたように言った。用事に飛行機が割り込んだと思ったのかな。
「 いや、何もないけど、送ってもらうのは悪いかなと思って」
「 なんだー。じゃあ送るから、そう言うことで、太朗ー。お兄ちゃん明日飛行機やってくれるって!だから早く寝てー」
後ろではしゃぐ太朗の声が聞こえた。今、旦那はいないんだろうか。旦那は俺がこうやって彼女と連絡とってんのを知ってるんだろうか。
「 じゃあ、また明日ね。お兄ちゃん」
彼女が電話に戻ってきた。
「 はい、じゃまた」
「 うん。おやすみなさい」
彼女の穏やかな声と、日頃他人からは言われ慣れない単語の不意打ちに、今まで強く打っていた心臓が止まりそうになった。耳元に好きな人からのおやすみなさいはきついのだと、初めて知った。
「 ・・・・お、やすみ、なさい」
ぎこちない俺の挨拶に、彼女が笑いながら電話を切った。
次の日、太朗は飛行機と肩車を喜んでくれた。おばちゃん先生も俺を歓迎してくれた。まあ『愛しのお荷物』の貸しがあるからな。俺を邪険には出来ないだろう。
彼女は嬉しそうに、振り回されてきゃーきゃー笑う太朗を見ていた。
「 また今日もありがとうね、お兄ちゃん」
太朗はいつものごとく車が走り出すと寝た。
「 いや、全然良いです。太朗可愛いですから」
彼女がまた嬉しそうに笑った。良かったほんとに太朗が可愛くて。太朗が可愛くないクソガキだったら、根が正直者の俺は今頃彼女に嫌われてたかも。
「 俺もありがとうございます。いつも送ってもらって」
ぺこっと頭を下げた俺を見て彼女が笑った。
「 近いもの。ちょっとうち通り過ぎるだけだし。これが逆方向だったらこうもいかないけどね」
「 ちょっとって。倍ぐらいあるんじゃないですか?」
彼女はにこにこ笑い続けていた。可愛いなあ。
「 いーのいーの。それでも近いもの。太朗も喜ぶし、お兄ちゃんも家に早く着くし、あ、もしかして送るの迷惑?」
ずっと笑顔だった彼女が、心配そうな表情を見せた。
「 いや全然。帰るの楽ですげえ嬉しいです。電車とかだと倍以上時間かかるし、外暑いし」
彼女がほっとした表情に変わった。良かった。
「 良かった。何かしつこすぎて迷惑がられてるのかと思った」
なんだって!しつこいのは俺の方だろ?子持ち人妻をまだ諦められず会いにきてるんだから。
「 そんなことないです」
「 じゃあ、遠慮してるだけなのね?」
「 はあまあ、そうですね」
確認口調だった彼女がふわっと明るく笑んだ。さっきからずっと、彼女の横顔から目が離せない。出来るだけこっちを見ないでくれると嬉しい。
「 じゃあ、今せっかく帰りの時間が合うなら幼稚園おいでよ。送ってあげるよー」
この申し出には驚いた。夏休み中一緒に帰る約束ってこと?
「 え?」
彼女が相変わらず楽しげに笑いながら続けた。
「 用がなくて家に真っ直ぐ帰るんなら送ってあげるよ。夏休み中、部活が夕方までのこと多いって言ってたでしょ?」
「 え、はい」いや、でも、なんだこれ?
「 お兄ちゃんが一緒に帰ってくれるなら、太朗も飛行機やってもらえるし。勿論お兄ちゃんが車で帰りたい日だけで良いから幼稚園来てよ。飛行機やったって、電車待つより早く車乗れるよね」
「 まあ、確かに」 そうですけど、でも。なんかそれって。
「 でしょー。良い事思いついたなああたし」
彼女はご満悦だ。これは、本当に送ってもらいに幼稚園に来ても良いんだろうか。良さそうだよな。
「 えっとじゃあ、明後日部活17時までなんですけど」
「 いーよー。明後日ね」 マジで!やったー!
数日前まではもう終わったと思って諦めていた彼女との逢瀬が、夏休み中と限られた期間であっても続くと分かって、信じられない位嬉しかった。




