準備は入念に
『崇敬の迷宮』の入り口が大きな口を開けているのは、アウディーレ王国の王都から徒歩十数分程の場所。
小高い丘になっているということもあり、そこからは王都の中心にそびえる荘厳な城もしっかりと目にする事が出来た。
その城から鐘の音が聞こえてきたら。
アウディーレの使いだという少年は言った。
そして、他の質問や拒否の言葉などは一切聞こうともせずに帰っていった、兵士達を連れて。
「鐘が鳴ったら、さっさと逃げてしまえばよい」
「まぁそうだね」
王都の街並みへと足を踏み出しながらも、どうしようと迷ったシエルの目の前で、人ではないムウロとユーリアはあっさりとその不安を解消させる案を口にした。
その隣ではシリウスも深く頷き、何の問題にもならないとシエルを勇気付ける笑みを浮かべていた。
「逃げる?」
此処まで戻ってくればいいのかな、とシエルが見たのは自分達が出てきた『崇敬の迷宮』の入り口。
「それが面倒だったら、こっちがあるからね」
ムウロが指差してみせたのは、上。
青々と晴れ渡り、白い雲が見える、果てなく広がっている空。
「皆、私の背に乗れば簡単なことよ。あの化物も空は飛べまい」
「飛べたとしても、僕も居るしね」
「足場として使わせてもらえるのなら、俺もそれなりには戦えるだろう」
「えっと、私は…」
「大人しく彼女の背の上に座って見ているように」
「いや、シエルだとそれだけじゃあ不安かも。紐で括りつけるくらいしないと…」
ユーリアもムウロも、シリウスも、その時を想定して自分が何をするのか、という話をにこなかに口にしていった。それに一人だけ何もしないのは、と無駄な勇気を奮い立たせてしまったシエル。自分にも何か出来ることは無いのかと口を開こうと試みたが、その言葉はシリウスとムウロという、一人は実のという訳ではないものの、二人の兄達の苦渋に満ちた真剣な眼差しと言葉によって塞き止められてしまう。
あまりの真剣さに、二人の足はぴたりと歩みを止めていた、
「紐で括りつけても、彼女が何か無茶をした場合は…」
「それなら父上の護りがシエルに傷一つさせないと思うから…」
「あぁ、それなら安心出来るな」
「そうだ。紐が切れてしまう危険性もある。シエルがアラクネの糸を持っているから、それを紐代わりに」
「!確かに。アラクネの糸なら…」
ぷくぅー。
とうの張本人であるシエルさえも入っていけない兄二人の、真剣な話し合い。
シエルがどれだけ飛び跳ねて、自分の頭よりも上で真剣な面持ちで交わる二人の視界に、どれだけ映りこもうと試みても、その会話が終わることは無かった。
止まる事なく、段々と内容が過剰となっていく二人の様子に、シエルの頬が少し、そう少しずつ膨らんでいった。
シエルにだって、分かっていることではある。
二人が自分の事を心配して、言ってくれているということも。
自分のこれまでの経験などを考えると、それが強ち過剰な対応策とは言えないということも。
だけど!
だけど、だ。
それでも酷いと思ってしまうのは、赤子や幼子ではなのだから仕方無い、とシエルは無言で叫ぶ。
「あっはっはははは!!」
頬が膨らんでいくシエルに気づくことなく議論が盛り上がりを見せていった中、大きな笑い声が三人の顔を上げさせた。
片腕をお腹に当て、一面に響く笑い声を大口を開いてあげていたのは、ユーリアだった。
目尻には涙まで滲ませ、心底可笑しい、と笑っている。
「ユーリアさん?」
「ユーリア?」
「ユーリア様?」
「あぁ、可笑しい。だが、懐かしくもあるな」
まるで、あの頃のようだ。
涙が滲む目元を片手で覆い隠しながらも、まだまだユーリアの笑い声は続く。
顔に被さる形となった腕の影で、ユーリアの口元が大きく、半月を横倒しにした形に歪んでいた。
「なんだかんだといって、最後には丸く収まっていたものだがな」
彼女の場合は。
手が外れた時のユーリアの黄金の縦長の目には、遠い過去を思い出し懐かしむ光があった。
「その時になったら、なったで考えればよかろうに。禿げるぞ?」
「禿げっ!?」
まさか、そんな言葉をユーリアから、魔界に君臨する一強『桜竜大公』の口から聞くことになろうと思ってもみなかったムウロが、驚愕の声を一言だけあげ、その後は声を失ってしまう。
「考え込み過ぎている人間には、そういう言葉を掛けるものなのだろう」
なぁ、と。ぱくぱくと口を開いたり閉じたりしているムウロを横目に、ユーリアが話しかけたのは、シリウス。
「確かに」
それが自分に対する指摘、そして苦言であると理解したシリウスは、ユーリアの問い掛けに答えながら、溜息を一つ吐き、表情を緩ませた。
「…ムウさんが禿げると、どうなるのかな?」
「えっ?」
「ん?どういうことだ?」
放心状態に近かったムウロも、何時も通り意表を突く、何処か違うシエルの発言に正気を取り戻した。
出会ったばかりでシエルのそういった発言や考えを初めて経験するユーリアも、興味津々に耳を傾ける。
「人の姿をしている時だと、禿げるのは髪がある頭になるんだよね?じゃあ、狼の姿になった時は?頭の上?それとも、体の他のところ?」
それは好奇心に満ちた、無邪気な質問だった。
だが、答えを求められたムウロからすると、どう答えていいのか戸惑うしかない質問。いや、ムウロ自身もそれに対する答えなど知らないのだから、答えようがないという方が正しい。
「…えっ…えぇっと…」
「一度」
見上げてくるシエルに対する答えを出せないムウロに、助け舟を出したのはユーリアだった。
「大分昔にはなるが一度、アルスの奴が姫のせいでハゲたと怒鳴っておったことがあったな。今度あれにあった時にでも、聞いてみればいいのではないか?」
「えっ!?そんな事、あったっけ?」
「『大公』にハゲ…」
「おじさん…」
その何とも言えないという表情はさすがに実の兄妹、性別や年齢さえも越えて、そっくりなものだった。
その横では、話題の的とされたアルスの実の息子であるムウロが、首を傾げて必死に思い出そうと記憶を探っている。
「姫とお前、ディアナが何時も通りの悪さをした後のことだったぞ?」
覚えておらんのか、とクックックと笑いながらユーリアは言うのだが、ムウロはそれでも思い当たる節を掘り出せないようだった。
「さて、これで話は解決したな。行くとしようか?」
「はっ、はい」
長くもないが、それでも短くはない時間を消費することになったシリウスとムウロの真剣な話し合いなどをあっさりと終わらせた事にして、くるりと背を向けたユーリアはさっさと王都の街並みへの足を再び踏み出す。
行くぞ、というだけで着いて来ないなどという事は一切考えていないその背中に、シエルの足も慌てて動き出した。




