「また、いつか」
「さぁ!元居た場所にすぐ返してきて!」
木製のバケツを頭に被った女性はビシッと、シエルを指差した。
「そんな、犬猫の子供みたいに」
女性のその言い方はまるで、拾ってきた犬や猫の子供を捨てて来いと言いつける母親のそれで、青年も、そして指差されたシエルも呆れた表情で女性を見上げた。
「本当に信じられないわ。手を出すにも出すで、普通もっと選ぶでしょう。何で、よりにもよって、あぁ本当に信じられない!」
そんな二人の視線を気にも止めず、女性は憤慨を続ける。
「ていうか、どうやって連れ込んだのよ」
「連れ込んだ訳では…」
「自分が隠れん坊中の隠居爺ってこと忘れてるわけ?ばっかじゃないの。あぁそれとも、年甲斐もなく静かにしているより、色んな奴等に追い掛け回される鬼ごっこでもしたくなった?別に、するならするで止めようなんて面倒臭い気は一切ないから。でも、母さんと"わ・た・し”と、ついでに子供んらを巻き込むのだけは止めてよね!」
「…本当にお前は、父親にそっくりだ。少しくらいは母親に似れば…」
「はぁんっ」
巻き込むなという言葉、特に自分を指す言葉を何よりも力強く言ってのけた女性に、青年が虚脱感に溢れる溜息を吐き、そして青年の言葉に女性は肩を竦め、鼻で笑う音をバケツの中から反響させて漏らし出した。
その二人のやりとりを、シエルはただ呆気にとられながら、青年の膝の上で口を挟むことも出来ずに見守るしか出来なかった。
「あんたも!」
そんなシエルに、女性は矛先を向けた。
「こんな所に、こんなのにほいほいついて来るんじゃないわよ!」
そんな簡単な事も習わなかったの、とシエルを叱りつける。
こんなの、と言われた青年は苦笑を浮かべて何か言いたげだったが、「何?」と一言、女性が凄んで見せれば口を閉ざしたままとなった。
その様子は表情が見えなくても、まるで。
ひょいっ
服の襟を掴まれて、シエルの体が宙に浮かんだ。
首の後ろの襟を掴んでいるのは、女性特有の細い手。
どこにそんな力があるのだろうと疑問に思うその腕で、女性はシエルの体を軽々と持ち上げてみせた。
「えっえっ、な…」
「いいこと!見掛けは人が良さそうに見えるかも知れないけどね、これは危険なの。こういう見かけの奴の方が危ないことが多いんだから、もうほいほい騙されるんじゃないわよ!」
持ち上げたシエルの顔に自分の、バケツ越しの顔を近づけて言い聞かせた。
「ほら、さっさと、今すぐに、速やかに、元居た場所に戻りなさい!」
そして、女性は襟を掴んでいた手を離し、シエルを地面の上に立たせた。何処へなりとも帰れ、とシエルに指示をするのだが、それを言われてもシエルにはどうしようもない。困惑することしか出来ないのだ。
「無茶を言うんじゃない、夢魔の仕業だ。この子だけで帰れる訳でもないし、元居た場所に帰る訳にも行かない」
「えっ?」
青年の言葉に、女性は少しだけ口を閉ざす。
「あら、そうなの?ということは、この子はまだ…。でも、よく夢魔程度が道を開けたわね?」
「有り得ないことも起こり得るのが、世界というものだ」
「ふぅん」
今の内にムウロを呼んでみよう、などとシエルは思っていた。
二人の会話は大人しく聞いていても理解出来るものではなく、どうしたらいいのか悩む空気が二人から流れ出てくる。
女性は早く此処から出ていけ、と言っているくらいは分かった。
だから、迎えに来てくれる予定のムウロを呼んでしまおうかと考えたのだ。青年には駄目だと止められたのだが、その理由もシエルには分からない。だから、青年に口を塞がれていない今なら、呼んでしまえると。
女性と話している青年には気づかれないよう注意しながら、シエルは息を吸う。
ムウロの名前を呼ぶ為に大きな声を出そうと、思ってのことだった。
「む」
「それは、駄ぁ目。兄さんにも駄目って言われたでしょう?」
その大声で言おうと試みたそれも、また口を手に塞がれることによって阻止されてしまった。
先程とは違う事といえば、それが背後から伸びてきた手によるものであること、そして先程とは違ってその手が女性のものであることだった。
「むぐむぐ」
「ごめんね。あの子だけなら別に構わないのよ。でも、あの子を呼んじゃうと、アルスや他の人まで来ちゃうでしょう。それはまだ、困るの」
それは先程、青年が言ったものと似た理由。
「お家まで送ってあげる。だから、あの子を呼ぶのはそれからにしてね」
あぁでも、と背後から聞こえてくる女性の、バケツを被っていた女性のそれよりも高めの、声だけを聞く限りだとシエルとそう年の変わらない少女のものだと予想されるその声が、コロコロと喉を鳴らすようにして笑う。
「此処のことは内緒にした方が良かったのよね」
どうしようかしら。困ったわ、と言ってはいるものの、コロコロと笑っている声からは全然困っているようには聞こえない。
背後の少女の声に感じ取れる様子から、シエルは姿を見えない彼女のそれを想像する時、ついついディアナの姿を連想してしまった。何処か、少女とディアナが似通っているように感じたのだ。
「もごもごむご」
(ちゃんと内緒にするから、家に帰して?)
どうしよう、と悩み始めた背後の少女に、口を塞がれたままシエルはそう主張する。
どうして此処に来たことを言ってはいけないのか、彼らは誰なのか、そんな疑問も一杯あることではある。けれど今は、家に帰って、そしてムウロを合流することが大切だと思ったのだ。
それに、シエルはある一言を聞き逃していなかった。
まだ。
彼女達三人が先程から言葉の中に入れているその一言。シエルはそれを、何れは此処のことも彼等のことも分かる時が来るんだと受け取った。
だから、今はそれらを知るよりも、帰ることを優先する。
「じゃあ、約束ね」
悩んでいた様子もあっさりと消し、少女は明るい口調でシエルの言葉を信じた。もごもごと口を塞がれた状態での声を、どういう訳かしっかりと聞き取った少女は、それに応じたのだ。
「約束を破ったら、そうね…真ん丸の子豚ちゃんになる魔法をかけちゃおうかしら」
その言葉によってシエルの脳裏に浮かんだのは、母の兄であるモノグの姿。
「ふふふ。大丈夫よ、貴女なら大丈夫」
さぁ、帰りましょうね。
優しさが溢れるような声と共に、とんっと背中が押された。
シエルが一歩、背中を押されたことで足を踏み進めた瞬間。一瞬にして周囲の草原という光景が、真っ黒な絵の具で塗り潰すかのように変化していった。
絵の具に塗り潰されていく最中、青年がひらひらと手を振りシエルに笑いかけている姿、女性が素っ気無くシエルに背中を向けながらバケツを脱ぎ捨てる姿が、シエルの目に辛うじて映った。
「また、いつか」
そんな少女の声を最期に、全ては真っ暗闇に。
「シエル?」
真っ暗闇になった、と思った次の瞬間にはシエルは別の光景を目に映すことになった。
まず最初に目へと入ってきたのは、珍しく驚いた表情で首を傾げている母、ヘクスの姿。
「お母さん?」
じゃあ、此処は家なのか。
パチパチと数回瞬きをしてヘクスを見つめた後、キョロキョロと周囲を見回して此処が自分の家の、テーブルが多く並んでいる食堂であると確認する。
ヘクスの隣で、同じ様に驚いた顔をしている父ジークの姿も認め、村人達の姿、前から宿泊している東方騎士団の面々、そして兄が身に纏っていたものと同じ騎士服を身に付けた一人の初老の男性と、それとは少しだけ装飾や色の異なる姿をした兵士達の姿などを目に入れた。
「シエル・ホールソン?一体、何処から…」
その兄と同じ騎士服を纏った、白髪交じりの初老の男性が呆気を取られた表情で、突然現れたシエルが夢幻ではないことを確認するかのように瞬きを繰り返した。
「えぇっと、夢や幻ではないね」
その声はシエルの下から。
「…ご、ごめんなさい!」
先程の謎の空間で出会った青年にしていたのと全く同じ姿で、シエルは一人の騎士の上に居た。
慌てて飛び上がりながら謝っていると、ふと、シエルはその騎士に見覚えがあることに驚いた。
「お兄ちゃんと一緒にいた?」
「うん、そう。初めましてではないよ、自己紹介はしていないけど。ソウ・ホルテ。殿下の近衛騎士の一人として、前に会ってるね」
兄と同じ騎士服を纏った彼を見たのは、皇太子ブライアンによって帝都へと連れ去られた際だったと、その説明を聞いて鮮明に思い出す。
でも、どうして?ソウから飛びのいて立ち上がり、シエルは周囲をもう一度見回した。
此処は確かに自分の家、宿屋の食堂。
なのに、どうして?帝都に居る筈の皇太子の近衛騎士が、居るのだろうか。
「まぁ、どうやって現れたのかは、また後で聞くとしよう」
今は要件が先だ。
困惑するシエルの耳に、そんな言葉が飛び込んだ。
それを言ったのは、壮年の騎士。
要件?
「帝国魔術師団第三班班長ロゼ・ディクスによる神聖皇国皇太后殺害、及び、クイン・ドクマ殺害容疑に対する捜査の為、ロゼ・ディクスの家族である貴女方ホールソン家を今この時より、我々の監視下に置く。これは皇帝陛下及び皇太子殿下の決定であり、その近衛騎士である私イヴァン・オータスとソウ・ホルテにより遂行されるものである」
えっ?




