ある筈の無き出会い
「あの泣き虫が、ね」
ふふふ
青年は笑いを深くする。
「ムウさんを知ってるの?」
人、にしか見えない。
これまでシエルは、人とそう変わらない姿形の魔族達にも多く出会ってきた。ぱっと見には魔族などとは分からない、彼等がシエルを騙そうと思えば完璧に騙せていたであろう。それだけ、見る限りでは彼等は人と同じだった。
でも、彼等にはちゃんと何処かで、人ではないと感じるものがあった。ようにシエルは思っていた。
だけど、この目の前の青年は普通の、見た目こそはレイに近しい整ったものだとは思うが、シエルと同じ人間だと思うのだ。
なのに、彼はムウロを知っているかのように、懐かしむように笑っている。
しかも、その言い方はなんだか、今のムウロではなく昔の、幼い頃のムウロに対してのもののような。
でも、それだと人では有り得なくて。
「人、みたいなものだよ。少なくとも今は」
口に出さずとも、シエルのその疑問は顔にまた出ていたらしい。
可愛いね、とまた口にしながら、青年はシエルの頭を撫で始めた。
「今は?」
その微妙な言葉の数々に、シエルは初めて不安を覚えた。
「少なくとも、君を食べてしまおうとか、そういう危険は無いただの人間だよ」
まぁ、人間だろうと“食べてしまおう”と思えば出来るんだけどね。勿論、正しい意味での方は稀なことだけど。
「それとも、危険な方がいい?」
また意味を変えた、青年の笑み。
その言葉の意味をいまいち理解できなかったシエルでさえも、その微笑みを浮かべた顔を意地悪く近づけられると、頬を赤く染めるてしまった。
「えっ、あ、あの、…む、ムウ」
「おっと」
むぐ。
どうしたらいいのか分からなくなったシエルは、ムウロを呼ぼうとその名を口にしようとする。だが、それは青年の手がシエルの口を覆うことで、完全に遮られてしまった。
「この状態を見て驚いた様子を見てみたいという気もするが。だが、あれに知れるということは、他にも必ず知れてしまうからな。そうなれば、五月蝿く押し寄せてきそうなのも居るし。厄介極まりない。大丈夫。呼ばなくても帰してあげるから」
冗談が過ぎた。
妖しげな微笑みを引っ込め青年はそう言って謝るが、シエルの口を塞ぐ手はまだどけてはくれない。
「んぐ。んぐんぐ」
「あれを呼ばないと約束してくれるなら、放してあげよう」
「んぐぐぐぐぐ」
あはは。可愛い可愛い。
自分の口を覆う青年の手を離そうと、シエルは青年の腕を掴んで奮闘する。それほど屈強とはいえない、寧ろ細腕とされるというのに、シエルの力では青年の腕はビクともしなかった。
その奮闘する様を青年はまた、可愛いと頬を緩ませて愛でるのだった。
さて、青年自身が言ったことではあるが。
今の青年とシエルの距離、その体勢を傍から見たとすると、それがシエルを可愛がり庇護しているムウロでなく他人であっても、どう思うのか。
草原の中に足を放り投げて上半身を持ち上げる青年と、その青年の腰にあたる部分に跨っている少女の姿。
青年が見目麗しいからこそ、そこが爽やかな感じを与える日の下の草原であるからこそ、その光景は一枚の絵画のように素晴らしい芸術性というものを放ってはいる。だが常識ある大人が目にしたなら、一歩間違えれば危うい雰囲気を醸し出している、と危惧するだろう。世の中にはそういう趣向の人間や魔族がそれなりの数存在しているのだから、そう考えるのは子供を本来の意味で慈しむ感性を持つ大人としては当たり前だ。
「なぁにをしてるのかしらぁ、このクソ親父ぃはぁ!!」
その光景を遠目に目撃した、とある女性がそう叫ぶのも、ある意味では正しい。
正義は我に在り!
履き慣れていない者には立つこともままならない高いハイヒールで女性は、足首よりも高くに草が伸びた草原を疾走した。
そして、太ももにまでスリットが入った真っ赤なドレスから覗く、真っ白な足を青年の後頭部へと向かって蹴り入れたのだ。
ひゃっ!
ガクンと青年の頭が前のめり、シエルの口を塞いでいた手もズレ落ちた。
それによって声を出せるようになったシエルは小さな驚きの声をあげ、そして青年に「大丈夫ですか?」と声をかける。
「イタタタタ。全く、突然何をするんだ」
蹴りを入れられた後頭部を擦って、青年は顔を上げる。表情には対して痛みを訴えている様子は見受けられない上、蹴りを入れた女性に向かっての言葉にも痛みや、蹴られたことに対する怒りなども一切無い様子。シエルはそれを凄いなぁと呆気に取られた。
シエルの目から見ても、女性のその細長く白い足による衝撃は凄まじいものだったのだ。それを受けても、その程度に済んでいる青年を純粋に凄いを感じ、そして本当に人なのかな、とも考える。
「何をするんだ、じゃないわよ!バッカじゃないの、こんな白昼堂々と。いっくら禁欲生活長くて溜まりに溜まって…」
後頭部を擦っていた青年の手が伸び、今度はシエルの耳を塞ぐ。
それによって、女性の青年に向けた非難の声は全く聞き取れなくなってしまった。きっと、普通の耳ではなく、『勇者の耳』で持って聞こうとするのなら、女性が何を言っているのか聞き取れたことだろう。だが、目を上げたシエルが見た青年の口元が「だめだよ」と言っているように動いたのだ。シエルが何を考えたのか読み取ったようなそれ、だが青年がシエルの力を知らない、なのだからそんな筈は無いと思うのだがシエルはその言葉に大人しく従うことにする。女性の言葉はきっと、青年が手を外さないところを考えると続いているのだろうが、聞くことはしなかった。
青年の両手でしっかりと耳を塞がれている状態では、頭を自由に動かすことが出来ない。出来るとすれば、目を動かす程度。
地面に向かっていたシエルの視線の端に始めに映ったのは、シエルは見ただけで怖くて履こうとも思えない高いハイヒールを履いた足。つま先で歩いているのか、と言いたくなるような高さのヒールは、シエルの周りでは履いている女性を一人として見たことはない。特別な日だからとおしゃれをした女の人を見たことは何度かあるが、それでもその半分の高さ。
それを履いた一本の足で全身を支え、蹴りを繰り出したということを考え、シエルは驚きと共に感心を覚えた。シエルには絶対に出来ない、しようとも思えないその行為に、凄いなと純真に思ったのだ。
でも、なんでだろう。
シエルは一つ、不思議なことを見つけてしまった。
いや、見つけたという言葉は間違っている。見つけざるを得なかったのだ。
真っ赤なドレスを身に纏った、抜群のプロポーションを見せ付けている体。太ももまで入っているスリットからは真っ白な細い足が覗く。
腰の下あたりにまで真っ直ぐに伸びた黒い髪がさらさらと風に揺れる。
足下から視線を上げていったシエル。
そんなシエルが最後に目に入れたのは勿論、女性の顔になるのだが、シエルは女性の顔を拝むことは出来なかった。彼女はなんと、木製のバケツを頭にすっぽりと被っていたのだ。口の下にまですっぽりと被さったバケツによって、シエルは女性がどんな顔をしているのか、全く知ることが出来なかった。
何か理由があってなのか。
だが、どんな理由があったらバケツを被るのか。
シエルは思わず、女性のその頭があるべき位置に存在している逆さのバケツに目を奪われていた。
「…何をしているんだ、り」
「うっさいわね!諸事情よ!!」
今度は女性による平手が青年の頬に向かって振り下ろされた。
その言葉を聞く限りは、女性のその姿はいつもの事ではないようだが。
やっぱりシエルは、そのバケツから目が放せなかった。




