朽ち逝く思い出
「もしかして、ディクス侯爵家ってお金無いの?」
声を潜めるでもなく、失礼極まりないであろう言葉を吐いたのは、ムウロ。腕の服を引いて「駄目だよ」と注意しながらも、シエルの顔にはムウロの言葉に同意するような表情を浮かべて、周囲を見回していた。
そんな妹の分かりやすい姿と、直球なムウロの問い掛けに、シリウスは困りながらも首を横に振った。
「いや、資産は充分にある筈ですよ。母の話を聞いていたこともあって関わらないようにしていましたが、少なくともあの人が当主になってからは領地の経営も上向きで、散財しているという噂も無い。何より、当主になる以前は、皇帝直属である情報監査官として充分な収入があったと聞いているので…」
金が無いということは絶対に無い。
シリウスが知っているそれらは、そう断言する程信頼出来る情報なのだが、この光景を見てしまえば不安にもなる。
足を踏み入れた屋敷の敷地内は、外から見る以上に荒れ果てていた。いや、荒れ果てていたというのとは少し違うかも知れない。区切る塀さえなければ、景観地の周りを囲む山の情景へと完全に溶け込むだろう光景が広がっていた。
シエル達が歩くために足場としている石畳からも、その僅かな隙間や劣化して砕けている空間から、他の地面よりは伸びてきてはいないものの、草がボウボウと顔を覗かせている。
完全に何年も、何十年も放りっぱなしにしていたなと、誰もが理解する状態だった。
別邸とはいえ侯爵家が所有している屋敷は、本邸などと比べれば短い方なのだが、とにかく門から玄関までの道のりが長い、とシエルには感じられた。
本来ならば、噴水や花々が美しく配置され手入れされた庭園が、客人の目を和ませながら出迎えるのだろう。だが、今あるのは元の姿も分からない程に朽ちかけているレンガの山に、生い茂る緑によって太陽の光を遮る木々、地面に敷き詰められた雑草が、余計に道のりを長く感じさせていた。
だが、シエルに衝撃を与える光景はそんな道のりよりも、やっと辿り着いたとホッと息をつく玄関前にあった。
「なんで?」
苔や汚れが無ければ、という注意がつくものの貴族の屋敷としては充分である立派な造りの玄関。いつものシエルならば、それに少なからず感嘆の声をあげたかも知れないものだったが、今のシエルの視線は玄関の横に生えている木へと向かってしまっている。
シリウスも何とも言えない表情になり、ムウロは「さっきから感じていた匂いはこれか」などと感心した声を上げていた。
「俺の昼飯だ。なんだ?食いたいなら、もうちょっと待ってろ。」
まだ時間じゃねぇ、とモノグは言う。
玄関の横には太い幹の木があった。その木の、一つの枝からは縄が数本吊るされ、縄の先には大小様々な、羽根が捥がれて完璧な下処理が行なわれている鳥が足に縄が巻かれ、逆さの状態でブラブラと揺れている。
「テメェらが中々来ねぇから、上の山で獲ってきたんだよ。もうちょいしたら一羽目が燻し終わるところだ。」
少し木から離れた場所では、木の板を組み合わせて作られた、シエルの半分程はある木箱からモクモクと煙が溢れてきていた。
長い時間待っていた。そうモノグは言いたいのだろうが、貴族がこんなことをするのか、と驚いているシエルの耳には届かない。そして、チラリとモノグを見たシエルは思わず口から零してしまう。
「どうやって?」
そう、どうやってあの体型で狩人のような真似をしたのだろうか、と純粋に考えてしまった。失礼な物言いだと浮かぶこともなく、モノグを見上げて首を傾げる。
「鳥なんだ、弓に決まってんだろ。」
得意としていることなのか、そう言い放ったモノグはニヤリと笑った。
シエルとしては、それよりも山の木々の間にどうやって入って行ったんだろうという疑問があったのだが、それは流石に口を噤んだ。
「ほら、中に入るぞ。」
モノグは再び背を向け、玄関の扉を開けようとする。
ガチャ
ガンッ
だが、ガチャガチャという音をどれだけ立てて開けようとしても、玄関が開かなかった。
「あぁ、クソ!!」
苛立ちを吐き出したモノグは一歩後ろに下がる。
「おらっ。」
あの体型で、と何度目となる驚きを受けるシエル達が見ている前で、モノグは片足を上げて勢いよく扉を蹴破った。
そうすると、あれだけ梃子摺っていた扉も簡単に屋敷の中を見せる。
背もそれなりに高く、人の何倍もある横幅の身体から繰り出される蹴りの威力を考えれば、並みの扉ではその衝撃を耐えることは出来ないだろうが、その荒々しい行動はとても貴族には見えないものだ。
「お母さん…。」
「母さん…。」
「帝国って、本当に昔から面白い人が一杯居るよね。」
「お前が会ってる奴等が特殊過ぎるだけじゃないのか?」
シエルとシリウスが、どうなんだ?と、モノグの妹である母に何とも言えない顔を向ける。
ムウロは、ニコニコと上機嫌に笑い、帝都の治安を守り普通の帝国国民のことを見知っているクインからすれば聞き捨てなら無い言葉を呟いた。
その言葉に、クインはイヤイヤと首を横に振っていた。
「人の住んでない建物は傷むんだよ。」
建て付けが悪い。
誰に向けるでもなく、グチグチと建物に対しても文句を口に出しながら、蹴破った扉を気にする事も無く、モノグはさっさと中に向かう。
「色々とガタがきてやがる。だから壊すんだが…。まぁ、俺の持ってるもんは全部テメェのガキ共のもんになるんだ。壊したくないってんなら、それでもいいがな。」
そんな事を言いながら、モノグはドシドシベキという足音を鳴らしながら、玄関の奥へ入っていった。
「?…シリウスかグレルが、侯爵になるの?」
「聞いてません、そんな話。確かに、妻子はいないようですが…」
そして視線が向かうのは、シリウスよりも長く帝都に居るクイン。
「親族のほとんどを追い出して侯爵になったから、後を継げるとしたら二人しか居ないとは思う。」
「お前が、婿になって継ぐっていう可能性もあるって事だ。」
女性が爵位を継ぐという事が帝国では無いわけではない。だが、それは他に継ぐものが居らず、どうしても存続を望まれる貴族に対してのみの特例というもの。
二人の兄弟が居る以上、ロゼやシエルに爵位が回ってくる可能性は低いが、ロゼの夫となればシリウス、グレルに継ぐ継承権を持つことは出来る。
それを冷やかしたムウロに、クインは顔を引き攣らせた。
「おい、こら!クソ親父!!!」
学園を卒業するやいなや、爵位なんて継いでたまるかと宣言し、しっかりと縁切りの誓文を当主である父親に投げつけたモノグは、皇帝直属の情報監査官という仕事を得て、帝国国内に留まらない様々な場所を自由気ままに飛び交い、奔放な生活を送っていた。
そんな彼は学園卒業以来、実家へは一切寄り付いてはいなかった。もちろん、四十歳を越えた今日に及ぶまで別邸へも足を踏み入れてはいなかった。
そんなモノグが、殴りこみをするように扉という扉を侍女達が止めるのも聞かずに蹴破り、別邸の居間へと押し入ったのは、連絡だけはと取り続けていた親族から連絡があった為だった。
体型からは想像も出来ない荒々しく俊敏な動きで居間のドアを蹴破ったモノグは、日当たりの良いソファーに腰掛け、赤子をあやしている父親を目に入れ、怒鳴りつけた。
「いい年して静かに入って来ることも出来んのか、馬鹿息子。ヘクスが泣く。静かにしろ。」
「いい年ってぇのは、こっちの言葉なんだよ。何、曾孫でも可笑しくないようなガキ作ってやがる!」
つい数年前に、次男へと爵位などを継がせ別邸に隠居した父親が、後妻を貰い、子供が生まれた。
そんなアホのような連絡を受けたモノグは、その足で別邸を訪れたのだった。
「ワシが何をしようが、縁を切ったお前に関係はないわい。」
「はぁ!?」
「何、この豚?」
ドシドシと音を発てて父親に詰め寄ろうとしたモノグの耳に、若い女の声が届いた。
件の後妻って奴か。
そう思ったモノグが声のした、部屋の中でも日の差し込まない辺りへと顔を向けた。
「…テメェが?はっきり聞くぞ、何が目的だ!金か!?」
そこに居たのは、真っ直ぐに伸びた黒髪が目を引く、若い女だった。世間を知らない、ということは絶対にないだろう、世慣れる程度には年を取っているようだが、モノグが結婚出来ていれば子供がこれくらいの年だったろうと思う程度の年齢に見えた。
気の強さがにじみ出ている女が、何を思って老人なんかの後妻となったか。
色々な家を仕事上多く見てきたモノグでなくとも、容易に思いつくのは一つだった。
それでも一応、聞いたのは父親が人道に反することをしている可能性もあったから。
「お金が目的?そんなの、ふふ、当たり前でしょ?」
こういう場合、はぐらかしたり、泣き真似をして夫に訴えるものとばかり思っていたモノグは、呆気に取られた。
あまりにもあっさりと、何の躊躇いもなく、それが事実だと笑い、認めた女の態度。
怒りも呆れも通り過ぎ、眩暈さえ覚えた。
「世の中、お金が全てよ?そんな事も、いい年して知らないの?」
「相変わらず、潔いなぁ。惚れ直したぞ、リリーナ。」
「あら。ありがとう、旦那様。で、この豚、誰?」
目元を押さえて唸るモノグは、自分を指差して尋ねる女の名が、リリーナということを知った。
「ほら、この前話しただろう、ワシの長男だ。」
「あぁ、一番目。モノグ。…初めまして、モノグ様?私は貴方の継母になったリリーナよ。それで、あっちのがこの前生まれたヘクス。六番目よ。」
ディクス家、モノグの兄弟は五人。いや、リリーナが産んだという子供を入れれば六人。その名付けは変わっていて、遠い異国の古語での数字を示す言葉を使っている。
ヘクス。年の離れすぎた末の妹の存在と、色々と頭を痛めさせる継母。
これが、二人とモノグの付き合いが始まりだった。




