第5話 秘密基地
シャワーを浴び、髭を剃った。おにぎりをコーヒーで流し込んだ後、僕はブースデスクに座った。ワイヤーフレームと化した世界に入る。前回ルルとTRPGをしたのと同じ仮想会議室のドアが現れた。
境界を超えた瞬間、光景が一変した。時代がかったゴシック調の洋室に僕はいた。かすかに揺らぐ柔らかな光の下、正方形の分厚い木の机があり、そこに二体のアバターが座っている。
輝く金髪の美少女ルルと漆黒の黒髪の美人高峰沙耶香。二人は部屋と同じアンティーク調の椅子に腰かけていた。対照的な美しい女性が並ぶ姿は、部屋の雰囲気と相まって非現実的だ。実際非現実なわけだが、この二人の容姿《APP》は現実を反映している。
僕の方はと言うと現実は非情である。座っていた椅子だけが二人と同じ見事な装飾に代わったのでなおさらだった。指を這わすと、しっとりとした絨毛の感覚が伝わってくる。
机に向かって椅子をすすめながら周囲を見る。正面には光沢のある大きく厚いカーテン。黒地に金糸の刺繍のある壁紙。世界一有名な探偵が活躍する時代のイギリスの雰囲気だ。
「やけにアナログっぽいスキンだな。19世紀末のロンドンって感じだけど」
「正解だよ。ヴィクトリア朝時代のロンドン、1850年代に再建された三代目ロイヤルオペラハウスのデジタルツインだ。ちなみにここはミーティングルーム」
ルルが指を鳴らすとカーテンが開いた。大窓からは馬蹄型の多段客席とその奥にある舞台という荘厳な光景が見える。よく見ると天井にあるのはガス灯である。本当にガスライトの時代だった。
中央のテーブルについた。工業製品としての規格とアンティークの気品が両立したような見事なものだ。劇場に繋がる大窓を背後に、支配人よろしく座るルルの正面に僕は椅子を着けた。右手に沙耶香。左は空だ。
「もっとも、僕たちがここにいることはコグニトームには認識されていないけどね」
「この部屋自体はコグニトーム上にあるデジタルツインです。ただ、私達がそこにいることは認識されない、そういうことのようです」
沙耶香が説明してくれた。ひじ掛けを撫でる。しっとりとした天鵞絨の質感が脳に伝わる。沙耶香の声にもマイクを通したような微かな違和感もない。
「仮想空間のさらに裏側ってわけか。まるで秘密基地だ」
「秘密基地だよ」
なるほど、男たるもの秘密基地に憧れるものだ。密偵ロールプレイにぴったりの雰囲気ならなおさら。だが現実に秘密基地が必要な状況というのは確実にろくでもないだろう。大学生ともなればその程度の分別は育つ。
「まさか、もう次の脚本を始めるつもりじゃないだろうな」
「残念。まだそこまでは行っていないんだ。前回のシナリオに絡んだシンジケートの怪しい動きを掴んだという段階だよ」
「言いたいことはあるけど、続けてくれ」
まるで僕が次の冒険を楽しみにしているみたいな言われ様には反論したくてしょうがない。だが前回のシナリオに絡むということになると聞かざるを得ないじゃないか。
「例のNSD、ニューロトリオンに反応する遺伝子の断片だけどね。その情報がインビジブル・アイズ上でやり取りされている。モデル選別に関する情報としてだ」
「それは想定通りじゃないのか? もともとシンジケートはあのドメインに目を付けていたし。実際、二人のモデルがNSDの情報を得ている」
僕は言った。一人は僕が倒した財団のモデル。もう一つは軍団か教団かわからないんだったか。前回の僕の目的は情報を守ることじゃなくて純粋に偵察だった。戦闘になったのは……あれは仕方なかった。
「ところがそうじゃないんだ。財団のNSDの分析結果ではNSDのDP感受性は決して高くない」
ルルの言葉と共に、テーブルの上にNSDの立体模型が浮かんだ。チューブを折り曲げて作った半月形の形は、確かに学会のポスターで見たその形だった。
「NSDの遺伝子配列からタンパク質を合成して、DPを照射してその吸収率と立体構造の変化を観測した実験ですね。どの部位がDP感受性の中心かも既に分かっているようです」
沙耶香が一瞬で実験内容を把握した。NSDの立体模型に赤い粒子が降り注ぐが、ほとんどが素通りする。ごくたまにNSDに吸収されるが、その結果NSDの半月が、わずかに三日月に近づく程度だ。
つまりあまりDPと効率よく反応しないし、反応してもほんのわずかの効果しかない、ということか。
「インビジブル・アイズにはこれ以上のDP感受性を持つ遺伝子は幾つも登録されている。NSDはこれまで見つかっていたDP関連遺伝子とは全く配列が違うという点では意味があるけど、決して優れた性能を持っているとは評価されていない」
「財団にとっては大して価値のない遺伝子だったってことだよな。結構な事じゃないか……。じゃあなんで注目してるんだってことか?」
「そういうことだね。ここからはちょっと複雑な話になる」
まるでこれまでの話が複雑じゃなかったようなことを言って、ルルは沙耶香を見た。
「このNSDにDPじゃなくてNTを反応させたらどうなるか。これに関しては沙耶香の方が詳しいんじゃないかな」
「あくまでシミュレーションということならですが……」
沙耶香はテーブル上のホログラムを切り替えた。NSDに今度は紫色の粒子が照射される。NSDはさっきよりもはるかに高頻度で粒子を取り込み、そして閂のようにがっちりとその半月を閉じた。
「シンジケートの言うDPとボクたちのNTの関係は覚えているかな」
「ルールブックに載っているからな。その二つは基本的に同一のもの。複雑な計算から生み出される異能粒子であり、コグニトームタワーのような大規模コンピュータや人間の脳が生み出す。シンジケートはタワーから生み出されたそれをDPと呼んでいて、僕たちは脳が生み出すそれをNTと呼んでいる。コグニトームタワーのコンピュータは広い平面で脳は小さな立体だから、DPよりもNTの方が強い力を出すんだったか」
科学云々と違ってTRPGのルールや設定を覚えるのは得意だ。
「そういうこと。NTはDP同様にただでさえ検出が難しいのに、脳の外ではごく短期間に崩壊してしまう。これが、NTが強力なのにシンジケートに見つかっていない理由だ」
「完全に同一の粒子というよりも素粒子の世代の違いに近いみたいですね。電子とミューオン、いえ電子ニュートリノとミューニュートリノというべきでしょうか」
「そういうことだよ」
「ちょっとまった。勝手に設定を追加しないでくれ。どういう意味だ?」
「どういう意味も何も、言ったままなんだけど。例えば、第一世代の電子に比べて第二世代のミューオンは二百倍のエネルギーを持つ。一方、電子は極めて安定で通常状態ではまず変化しないのに対して、ミューオンは百万分の一秒も持たずに崩壊してしまう。これと同じ関係がDPとNTの間にもあるってことだね」
要するに、DPに比べてNTは超強力だけど脳からしか発生せずに、脳の外に出たら短期間でバラバラになってしまう。一応理解できた。素粒子の世代云々という専門用語はともかく、この“設定”は極めて重要だ。
シンジケートがNTを知らないことが『ルールブック』の優位性のほぼすべてだ。
「ただし、シンジケートはモデルの脳内でNTを活用している」
「脳のNTがDPCのDPにエネルギーを与えているんだったか」
「そう。彼らもDPCを機能させる何らかのエネルギーが脳内にあることは分かっている。そこに前回の戦闘だ。所属不明の存在、つまり君が現れて、高出力かつ秘匿性の高いDPCで財団のモデルを倒した。財団にはそう見えた」
「……で、財団はNSDに何かあるんだと思った、と」
ルルの説明に、背筋が凍った。
「それって、僕たちの存在に感づかれてるってことじゃないか」
「現時点では、財団は軍団か教団の新型DPCだと思っているだろう。彼らはDPの存在の秘匿に関しては万全の体制を敷いている。インビジブル・アイズでそれらしい痕跡を発見しただけで、モデルを派遣しているんだからね」
少しだけほっとした。自分たちが理解できない情報《NT》を巡って、シンジケート同士が内輪もめしてくれるのならそれに越したことはない。だが……。
「一番最初に、シンジケートはいずれ僕の持つ資質、つまりNTに気が付く可能性が高いって言ったよな」
「そう。僕が一番警戒すべきと考えているのは、財団がNSDを切っ掛けにNTの存在に気が付いてしまう可能性だ。どうやら財団は、モデルの選別システムを使ってNSDの為のモルモットを探している兆候があるんだよ」
「実験室でNSD分子にDPを当てるという試験管中《in vitro》の実験ではなく、人間の脳内《in vivo》でNSDの機能を調査しようとしているということですね」
「要するに人体実験用のモルモットを探していると」
やっと理解が追い付いた。もしも財団が人間の脳内でNSDの実験をしたらNTの存在が検知される可能性があり、最悪の場合ルールブックの秘密がバレる。いや、最悪の最悪の場合があるな。
「理解してくれたみたいだね。ボクとしてはこの財団の動きを監視、いや出来れば邪魔したい」
「ああ、理解した。同じ理由で僕としては手を出すのには反対だ」
ルルに言った。何しろ、その人体実験にとって最高の一匹はここにいる。




