人生最後の大博打
ディオン様宛の緊急帰国命令書を読んだボリエ殿下の顔色は、まさに最悪を極めていた。それは枚数にして二枚という極めて簡素な文書だったが、それ故に事の緊急性と重大性を如実に物語っている。
「そもそもマルティネス国王が御病気というのは、確かなのか?健康不安説は耳にしていないが……」
殿下も命令書の真偽を疑うつもりは無いだろうが、あまりにも突然の事態に動揺を隠せないでいるようだ。しかし、そこはやはりディオン様である。肉親が病に倒れ、自らにとっても危機的な状況でありながら、一切の冷静さを損なわなかった。
「父上の体調に陰りが見え始めたのは、割と最近のことだ。ちょうど次兄……ブリアック元第二王子が貴国で捕まり、処刑の段取りについて話し合いを始めた辺りからになる。ただ実際に病を発症したというのは俺も初耳だ。持病などは無かったはずだが、次兄のこともあって精神的に衰弱したのかもしれない」
……またブリアックか。あの男の顔と名前を忘れられる日は、恐らく生涯訪れないだろう。
「息子の悪事を知ってなお、心労を重ねていたとはな。そこはやはり王である前に父親ということか」
ある意味で納得したように頷くボリエ殿下だったが、当のディオン様は首を横に振って否定した。
「肉親の情も無くは無いだろうが、失意によるものが大きいと思う」
「失意だと?」
「次兄はバシュレ王国との、平和外交ラインの新構築に腐心していた。ヒューズ殿とのパイプライン構築を提案し、実現したのも次兄だった。そんな次兄の外交姿勢を最も高く評価していたのが、他の誰でもない父上だったのだ。長兄は性急な関係作りに否定的だったし、俺もあの頃は政治に興味が無かったから。だが最も信頼し、最も高く評価していた次兄は野心に狂い、結果的に父上を裏切ったわけだ」
「……つまり政治的パートナーを失った衝撃で体調を崩しただけだと、そう言いたいのか?」
「そうだ」
それは……いくらディオン様でも、些か冷たい言い分のような気がする。
「ブリアックをかばう意図はありませんが、私も陛下が親として子を悼む心までは、否定できないと思います」
「クリス殿は優しいな。或いは気を使わせているのだろうが、この場合は不要だ。父上は……」
その鉄面皮を曇らせたディオン様の口から、より一層暗い声が紡がれた。
「……彼は父親である前に、男なのだ。酷薄なほどにな」
……マルティネス王家のご家庭は、なかなか複雑らしい。尤もバシュレ側の家庭事情も中々なので、これ以上なにかを言える立場にはなさそうだけど。殿下も同じ気持ちだったのか、私の方をチラリと目を向けただけで、すぐに話題を変えた。
「もう一つ確認したい。向こうはお前がバシュレに長期滞在している件について、どう承知しているんだ?」
「バシュレ王国との平和外交ラインを再構築するための外遊、ということになっている。実際こうしてボリエ殿やクリス殿を通じて信頼関係を築いている旨は、本国へは定期的に状況を報告してきたから、俺の個人的な欲求は隠せていると思う」
個人的な欲求という部分で例の悪夢を思い出した私は、顔が紅潮するのを抑えられなかった。ていうか、こんな状況でそんなことを思い出すなよ私……。
「……色々と突っ込みどころは多いが、とにかく長期滞在自体は問題視されていないんだな?」
「ああ」
「となると、この命令書に政治的意図は無いな。だがディオンが帰国命令を無視して滞在を続ければ、出奔か亡命を疑われるだろう。詳細な調査部隊が編制され、これまで隠し通してきたものが全て明るみになってしまう可能性が高い。そうなればもう収拾がつかない」
「その通りだ。我々は薄氷の上に、肩を組んだまま立っている」
「なんだそりゃ。奇妙な例えだな」
「極めて危ういという意味では同じだ」
「いや、まあ……うん」
軽口なのか大真面目なのか、私にも判断がつかなかったが、状況が危ういという点では同感だった。確かに現在のバシュレ王国には、危険な秘密が多過ぎる。
ブリアックの策謀を逆利用した、ヒューズ殿下の野心。その二人に巻き込まれる形で死にかけた私が、実はバシュレの王女だったという事実。その王女が薬物によって予知夢に目覚めたことも、それによって今も死に向かっていることも、知っているのは極々限られた人員だけだ。
秘密はそれだけではない。一連の発端となった合成薬物は存在そのものが教会の秘伝。さらには予言の聖女を騙った詐欺師が秘密裏に接種したことで、本物の予言者へ覚醒。さらには隣国のディオン第三王子までもが、王女と運命を共にしている。
そしてこれら全てを把握しているのは……ここにいる三人と、ここにいない元聖女だけ。直近の事例をまとめただけで、この有り様だ。母の出生まで遡ると、本の一冊や二冊では収まらないだろう。
「……いやはや、私達も大量の爆弾を抱えたものですね。どれもこれも好きで抱えた秘密ではありませんが……」
秘密の一部でも漏れれば、世界は大混乱に陥るに違いない。しかも教会ががっつり絡んでいるので、政治に無関心な信徒までもが大きな声で騒ぎかねない。まさに終わらない混沌そのものだ。
果たしてこれほどの量の秘密、私達の墓に入りきるのか、どうなのか。
「いずれにせよ、俺は帰国するしかない」
「だが帰国させてしまえば、ディオンが拮抗薬を飲む機会を失う。もはや打つ手なし……か」
「いえ、まだ打つ手はあります」
それもマルティネスだからこそ打てる一手が。
「何か考えがあるのか」
「以前ディオン様が、マルティネスには私の死を回避できるほどの強力な秘術があると明かしてくれましたよね。第三王子であるディオン様と現国王であれば、それを使えるのではありませんか?」
「その手があったか!おいディオン、これならいけるだろ!」
だが会心の一打と思われた提案にさえ、ディオン様は首を縦に振らなかった。
「あれは使えない」
「な、何故です!?」
「法の問題だ。非常に危険な秘術ゆえ、使う前に大臣間で審議と承認を得る必要がある。しかも王子が外遊中に病を発症したとなれば伝染病が疑われ、二国間合同調査となり、結論を出すまでに時間が掛かる。その途中で、我々の秘密に辿り着く危険性も高い」
「一応お聞きしますが、期間の見積もりは……?」
「すまないが明かせない。だが我々の命よりも短いはずがない」
そんな……それでは何の意味も無い。
「どうしてそんなに掛かる?クリスの時はすぐに出来るような言い振りだったじゃないか」
「あの時は国の魔術師を脅迫し、強行した後で駆け落ちするつもりだった。全てを捨ててな」
「……行動力が化物級だな。お前が味方で良かったよ」
…………よかった、秘術に頼らなくて。いや本当に。
「だがマルティネス王の方はどうなんだ?第三王子に帰国を命ずるほどの病状なら、使用を提案しても良いと思う。そうすればお前が帰国する理由も無くなるだろうに」
「使って解決する問題なら、最初から帰国を命じない。恐らく本人が使用を拒否しているか、使っても意味が無いと判断されているんだろう。精神衰弱が原因なら、治してもまた衰弱するだけだからな」
でもそうなると、状況が好転する見込みも薄いということになる。王が治るにしても亡くなるにしても、ゆっくりと時間を掛けて進んでいくはずだし、当分はこちらからの訪問も謝絶されてしまうだろう。そうなれば結局国王よりも先に、ディオン様が亡くなってしまう。
どうする……どうしたらいい?帰国しても地獄、させなければ数日の延命と引き換えに、さらなる地獄だ。この問題を解決するには……!?
「……なあ」
いくら頭を巡らせても解決策が出せない重苦しい空気の中、ボリエ殿下が小さな声で沈黙を破った。
「お前達の症状は、今どこまで進んでいるんだ?……終わりは、そんなにも近そうなのか?」
それはおそらく、これまで聞きたくても聞けなかった事だったに違いない。だが希望的な観測で乗り越えられる事態でもない。ここは正直に答えるしかないだろう。
「かつてのエミール君と同じく、ほぼ末期だと思います。私もディオン様も、目を少し瞑っただけで死体が見える有様です」
「特に俺の症状の方が、進行が速そうだ。恐らく、先に斃れるのは俺だろう」
「そう、か……」
「だが俺達のレポートのおかげで、創薬は大詰めなのだろう?きっとこのままいけば、クリス殿は助かるはずだ。俺が命を張った意味は有ったと知れただけでも、十分だよ」
「……っ」
鉄面皮に笑みを張り付けたディオン様だったが、その目は閉じられている。
今なら分かる。この人がこうして目を閉じる時は、感情を読まれたくない時だ。
ブリアックの首を、飛ばした時もそうだったから。
「さて、帰国の準備をしなくては。クリス殿の無事と回復を、故国から祈っている」
「っ、待ってください!」
駄目だ、この人を死なせるわけにはいかない!私が絶対に死なせない!!
「クリス殿?」
「人生最後の大博打に出ます。ディオン様、申し訳ありませんが後一日だけ滞在してください。旅立ちの準備をすると言えば、それくらいの時間は稼げるはずです」
「それは可能だが、一日滞在したところで、状況はーー」
「変わります。いえ、私が変えてみせます。ボリエ殿下、今すぐ私をフランシーヌさんの牢へ入れてください。創薬の研究データと器具も、全部私に下さい。そして翌朝まで、牢へは絶対に誰も通さないように。そして創薬に必要な器具と薬剤は、馬車にも積んでおいて下さい」
「な、なに!?お前、まさか!?」
「はい、ご想像の通りです」
死を目前にして、極限まで鮮明になった私の予知夢を、一晩掛けてフランシーヌさんへ託す。そして翌朝までに創薬成功の未来予知を引き出し、それを手掛かりにして創薬を成功させる。間に合わなければディオン様の馬車に同乗し、その中で創薬を成功させる。
「クリス殿、いくらなんでもそれは……!」
間に合わなければ、密入国することになる。もし見つかれば、きっと私は……でも。
「いえ、やります」
もう、やると決めたんだ。薬師として、友人として、そしてーー。
「無謀過ぎるぞ!下手をすれば、お前の治療も間に合わない!お前はここに残るべきだ!」
「ですが私だけ治療したところで、ディオン様が亡くなって二国間に摩擦が起これば、きっともっと多くの犠牲者が出ます。それに……」
体が発火するのではないかと思う程、私の血液は熱くなっていた。
「人生初デートをしないまま死ぬなんて、御免ですから」
私は下手くそな軽口を叩き、ディオン様に笑いかけた。先ほどの冗談といい、まったくもって私達は似た者同士である。
「……ボリエ殿、どうする?」
「嗚呼、くそ。もう駄目だ。こいつがこの目をしたら諦めろ。学生時代に、違法薬物の生産工場を粉塵爆破した時もそうだった。こいつは口じゃ嫌だ嫌だと言いながら、やると決めたらやり過ぎる。俺が後始末にどれだけ苦労してきたことか……」
「苦労性は昔からだったのですね」
「ふざけろ。そしてこれが最後でも無いんだろ、どうせ」
「ええ、貴方の妹ですから」
殿下は過去最大の溜息を吐き出すと、かつての尊大不遜な態度を思わせる笑みを浮かべて、ディオン様の肩を叩いた。
「ディオン、覚悟を決めろ。ここまで来たら、クリスの無謀に死ぬまで付き合うしかない。文字通りな」
「いや、しかしーー」
「馬車でなら、お前も創薬に参加できる。即席だが、予知能力者二人組の最強タッグだ。これで駄目なら、誰がやっても創薬は成功しない。そう思い込め。そしてこれが、最後の共同作業になるかもしれないってな」
「……心得た。ではボリエ殿、すまないが創薬の準備は任せる。俺は馬車を用意してくる。そして、クリス殿」
「はい」
「全てが片付いたら、改めてデートの予定を決めよう。良き思い出を作るために」
「ええ、喜んで」
「お前達、頼んだぞ。国二つ分の命運が、お前らの命で決まっちまうんだからな!」
かくして私達は、恐らく人生最大であろう博打に乗るべく、それぞれ歩を進めたのだった。命の灯火が揺れかけているのを、その胸で感じながら。




