病室ではお静かに
「……ん」
目覚めた時、目の前に広がったのは、母が入院していた病室の天井だった。
「気が付いたようだな」
……え、ディオン様?
「どうしてここに……?」
「たまたまさ。今、医師とボリエ殿を呼んでくる」
状況把握すら追いつかない中、医師による診察がすぐさま行われ、入れ替わるように殿下が入室した。
「やっと目覚めたか……あまり心配させるなよ」
「殿下……すみません、少し眠っていたようで」
「少しどころじゃない。お前は一ヶ月近く、昏睡していたんだ」
「一ヶ月!?」
そんなに眠り続けていたのか!?でも、確かに体をよく見ると、倒れる前より痩せているような……。点滴だけで、よくここまで眠れたものだ。
「……もう目覚めないかと思ったぞ」
「ご心配をお掛けしました。あの、フランシーヌさんは、どうなりましたか?」
「まず一つ目の賭けには勝った。フランシーヌは予知夢に目覚め、その内容は他者の幸福な前途を指し示している。ただ希望する相手を選べないのと、毎回見える訳でも無いようだが。今は創薬に成功した未来を予知するため、薬学を学んでいる最中だ」
それは朗報だ。これでフランシーヌさんが悲惨な未来しか見えなかったら、本人の人生にも深刻な影を落としたはずだから。
……あ。
『――もし拮抗薬が間に合わなかったら、私達の手で飲ませた毒が聖女様を殺す。私達が聖女様を殺すの。その覚悟はあるのかしら』
……そうか。私達は、全てがうまくいくことを前提に考えすぎていたのだ。お母さんは、その事に気付いていたから、あんな言い方をしたのか。
それでもなお、何があっても私を救うと言ってくれたのか。
「……お母さん」
「その母君も、創薬の事前研究に参加している。しかし……」
「しかし?」
「いや。ともかく、獅子奮迅の働きをしているとだけ言っておく。偏屈で有名な室長が、圧倒されているほどだ」
……それだけで色々と察せられるから恐ろしい。
「母らしいですね。すみません、肝心な私が研究に参加できなくて」
「研究のペースは上々なんだ。患者は気にせず寝ていれば良い」
「ありがとうございます」
心配そうにこちらを見下ろす殿下。
――その手が腰の剣に伸び、抜かれたサーベルが私の腹部を刺し貫いた。
――お前が……お前が、クリス・フォン・マルティネスでさえなければ!!どうしてなんだ、クリス!!
「おい、本当に大丈夫か?やはりどこか悪いのか」
ハッとした私は、自らの呼吸と心音を確かめた。腹部は……無傷だ。刺されていない。当たり前だ。
「今、殺されてました」
「なんだって??」
「予知夢です。ひと月前に倒れた時は、研究室で倒れていました。……どうやら私も、かつてのエミール君のように、目を閉じただけで予知夢が見えるようになってしまったようですね」
殿下に殺される夢を見るのは、これが初めてだ。この人に刺し貫かれる可能性が、ほんの僅かでも存在するというのか。それを私の頭が予感していると?
いや、考え過ぎだ。これは薬物によって、幻覚症状が進行しているだけに過ぎない。目の前の現実と課題に、まずは向き合わないと。
「流石に瞬きする度に見るほどではないので、まだ末期ではないと思われますが……」
無理やり微笑んでみせたが、殿下を安心させることは出来なかったようだ。とにかく、末期症状ではないと仮定しても、その一歩手前である可能性はある。
それに既に成人を迎えている分、子供だったエミール君よりも私の方が、症状の進行――すなわち死期の到来――が早いはず。末期ではないとはいえ、エミール君が予知した未来よりも、私の死が早まる可能性は十分にある。
「もしかしたら後一年どころか、来月まで保たないかもしれません」
「……弱気なことを言うな」
「いえ、これは最悪を想定した予測です。殿下、最早じっくりと研究を進めている時間さえ、私には残されていない可能性があります」
「だが、創薬の期間をこれ以上短縮することは……」
「……その通りです」
……どうしたらいいのだろう。フランシーヌさんの予知を頼ろうにも、本人に基礎的な薬学が十分に身に付いていないのでは、予測の立てようもない。かと言って私の予知では、自分の死しか見えない。もう、手が残されていないのではないか。
「弱気になるな。フランシーヌへの教育は急ピッチで進めている。一ヶ月以内に方法が見つかる可能性も――」
「無理だな」
希望的観測を一撃で打ち砕いたのは、音も無く入室していたディオン様だった。
「お前、いつから……!?」
「ボリエ殿の言葉には裏付けが無いようだ。それではクリス殿を救うことは出来ない」
「わかったようなことを言うな!お前なら出来ることがあるとでも言うのか!?」
「それを聞く前に、俺に話すべきことがあるはずだ。予知夢とは何だ?クリス殿が倒れたのも、それが原因なのか」
詰問するディオン様の圧で、あの殿下が無意識に後ずさっていた。
「さては次兄の毒が関係しているのだな」
「……ノーコメントだ。バシュレ王国の機密に抵触する。いくらディオンでも、これだけは明かせない」
「そうか。なら俺がやるべきことは一つだな」
そう即答したディオン様は、ボリエ殿下を押し退けて私の横にしゃがみ込んだ。
「今すぐに君と添い遂げ、クリス・フォン・マルティネスとして迎え入れる。出国の準備をしよう」
「なっ!?」「ディオン様!?」
出国だって!?それに、クリス・フォン・マルティネスって……!
「根拠なき楽観論に縋るような国に、愛する君を任せておけない。マルティネスはバシュレよりも魔法に寛容な国だ。王家秘伝の解毒魔法も複数存在する。本来は王家にのみ使用できる秘術だが、君が第三王子夫人となってくれるなら、すぐにでも使えるように準備させよう」
ディオン様の目は、完全に本気だった。かつて、あの食事会で私を介抱した時と同じ、静かで激しい色で燃え上がっていた。
「今すぐにだと!?そんなことは許されない!第一、クリスは――」
「許されないとは?」
ボリエ殿下に向けられた声からは、一切の甘さが抜けていた。
「まさか、クリス殿を救う手立てを選り好みしてるのか?」
「そうではない!俺が問題にしているのは婚姻の方だ!」
「何故問題になる?貴殿は王族ではあるが、立場としては彼女の友人、そして上司に過ぎない。クリス・フォン・ルグラン男爵と私の婚姻に、干渉する資格は無いはずだが」
「そ、それは……」
「それともやはり王家が抱え込みたくなるほど、彼女は特別なのか。あの公平中立なボリエ第二王子が、単なる身内贔屓で友人を個室へ入院させるはずがないからな。或いは……彼女の中に、特別高貴な血が流れているのか。例えば、王家の血とか」
「お前……どこまで……!?」
あまりに鋭い考察に戦慄する殿下だったが、私も同じ思いだった。まるでもう既に答えを握り締めているかのような、強烈な凄みを感じる。
恐るべき洞察力、そして勘の鋭さだ。私がバシュレ王女であることが認められたのは、謁見の間という密室であり、ごく限られた人間しか知らない。しかもその後すぐに、私は謎の昏睡で意識を失っているから、国内外の混乱を避けるためにも、まだ公式には発表されてないはず。
「安心してくれ。全部俺の想像と勘だ。物的証拠など無い。それに腹の探りあいは、俺の好みではない」
それをこの人は、私達が何かを言う前に、この状況と態度だけで察してみせたのだ。
「だがボリエ殿、貴殿が秘密主義を貫くなら、今のような探りあいを続けるしかない。彼女が何者であろうと俺には関係無いが、命に関わる話なら別だ。俺はクリス殿を救うために、俺が持つ力の限り、最善を尽くすだろう。彼女の病について、知っている事があるなら教えてくれ。それが出来ないなら……俺は彼女の拉致も、政治犯の誹りも厭わない」
「ディオン、お前はクリスのためにそこまでの覚悟を……」
「そうだ。しかし俺は彼女と貴殿の敵ではない。どうか信じてくれ」
……限界だ。それにもう、隠す意味も薄い。
「殿下、ディオン様に全て明かしましょう」
「それしかないな……。現在の教会は、先代と当代の教皇を立て続けに失った事で、事実上の機能不全に陥っている。ディオンがこの一件に関わった所で、悪影響は少ないはずだ」
「それに、ディオン様の勘と発想力は、きっと私達の力になります」
「ああ、敵に回したくないやつの筆頭だな」
元々ディオン様に予知夢のことを隠していたのは、彼を教会とのイザコザに巻き込まない為だった。でも今は、そんな事も言ってられない。このままでは、私達が結婚……どころか、まともに交際する前に死んでしまうかもしれないのだ。
それに彼は以前も、僅かな情報から独力でヒューズ殿下の真意に辿り着いた。この人の洞察力や発想力があれば、もしかしたら。
殿下は深々と溜息を吐き出した。本当にここ一年で、溜息が増えたものである。いつか禿げなければ良いのだが。
「仕方ない、俺も覚悟を決めよう。だがディオン、機密を明かすのは、あくまでもお前個人に対してだ。家族や仲間にも決して明かさないと、ここで誓え」
「分かった。俺達三人の友情に誓って、この秘密は墓まで守り抜こう」
――こうして私たちは、これまでの経緯を全てディオン様に明かした。彼は鉄面皮のまま聞いていたが、私の余命が僅かであることの根拠と、同じ薬をフランシーヌさんも服用したことに触れると、眉をひそめた。
「……随分と無茶をしたものだ。フランシーヌ殿が予知夢に目覚めなかったら、失敗どころの話ではなかっただろうに」
「言い訳はしない。それより重要なのは、クリスに残っている薬効を相殺するための拮抗薬を、如何に短期間で創るかだ。聞いての通り、一年どころか一ヶ月保つかどうかも怪しいものでな」
「なるほど……状況は理解した」
私はごくりと生唾を飲み込んで、次の言葉を待った。もう私も殿下も、そして恐らくは他の皆も、起死回生の一手は思いつかないだろう。他に良い手があれば、私が寝ている間に取っていたはずだから。
「ディオン様……」
だが、その切なる願いは届かなかった。
「やはり今のままでは、彼女は死ぬしかないだろう」
彼は特に言い繕うこともなく、現実をそのまま叩き付けてきた。流石の私も血の気が引いて、目眩すら覚えた。
「お前、言い方というものがあるだろ!?」
「彼女を救いたいなら、希望的観測はすべて捨てて、現実と向き合うべきだ。特に我々はな。本当はボリエ殿も、もう分かっているのだろう?」
「……分かっていても、割り切れないんだよ」
ディオン様の言う事は尤もだ。しかし、現状確認しただけでは意味が無い。必要なのは、解決策だ。
「マルティネス王国の秘法を使えば、死を避けられるのですか?」
「ああ、使えば君は助かるだろう。そう断言出来るほど、我が国の秘法は強力だ。しかし第三王子夫人となる君はともかく、フランシーヌ殿は部外者だ。彼女には使えない」
それでは仮に私が助かっても、研究結果次第ではフランシーヌさんだけが死ぬことになってしまう。
「そこをなんとかなりませんか?フランシーヌさんは、私の為に身を捧げてくれたのです。部外者とは言えないと思います」
「無理だ。彼女に薬を飲ませ、巻き込んだのは教会でもマルティネスでもなく、バシュレ自身だからだ。ならば彼女の命に対する責任は、バシュレが負わねばならない」
私の懇願に対し、ディオン様はあくまでも冷静だった。そういう所が頼もしくもあり、同時に歯痒かった。しかし殿下の方は、むしろ納得した様子で頷いていた。
「魔法で治すくらいなら、最初からフランシーヌを巻き込むなって話だな」
「事情はどうあれ、周囲はそう考える」
……なるほど。政治的に考えても、私が魔法に頼ることは出来なかったのだ。マルティネスの第三王子が、無理やり私を拉致でもしない限りは。
あの予知夢は、そんな未来の一つだったのだろうか。
「それに貴殿達だから明かすが、実のところ秘法の本質は解毒ではなく、そちらはあくまで副産物なんだ。利用には危険が伴うし、過去にも発動の過程で数十名規模の犠牲者が出たこともある。そういう意味でも、軽々とは使えない」
それは……確かに、王家の一大事以外に使うことなんて、出来やしないだろう。むしろ第三王子夫人に対して使えるかどうかさえ疑問が残る。もし使っていたら、ディオン様はどうなっていたのだろうか。
……やはり、詰みか。そう思って震えた私の手に、ディオン様の手が重なった。
「だから、別の角度からアプローチをかけよう。分の悪い賭けに、さらに賭けを重ねることになるが、上手くいけば全員助かるし、政治的な問題もクリアできる」
その顔は頼もしく、温かく、しかし覚悟に満ちている。それが何故か、たまらなく私を不安にさせた。
「ディオン様……?」
「ボリエ殿、件の合成薬物をもう一人分調合してくれ。そして俺にも、教会秘伝の書物を読ませて欲しい。もちろん秘密裏にだ」
「それに何の意味が……お前、まさか!?」
「そのまさかさ」
彼は不敵な笑みを浮かべ、私の手をぎゅっと握り締めた。
「俺もクリス殿と運命を共にする。三人目の予知能力者としてな」
私は今度こそ、血の気を失う気分になった。イネスさんのように、ディオン様まで私のために死ぬつもりか!?
「駄目です、ディオン様!それでは心中ではありませんか!!」
「心中ではない。これは賭けの勝率を上げるための策だ」
「どういうことだ?」
私の顔色がよほど悪かったのか、ディオン様の視線が私から離れることは無かった。
「俺はフランシーヌ殿と異なり、既に薬学を修得している。ヒールポーションを片手間に作れるほどの知識量だ。創薬に関する予知の精度という点では、素人である彼女よりは遥かに上だろう」
確かに、あのヒールポーションの出来は素人レベルではなかったけども……。
「その点は疑わないが、フランシーヌのような例は稀だぞ。まず九分九厘、死を予知する事しかできないはずだ」
「それでいい。目的は創薬の期間短縮だ。症状が進行し、予知能力が強化されているクリス殿と協力して、未来の失敗事例を集める。そして毎日、フランシーヌ殿と創薬チームへ事例を提供しよう。やらなくてもいい実験や研究を二馬力で潰せるし、フランシーヌ殿が創薬に成功した予知を見た際の精度も、事例を知れば自然と上がるはずだ」
理屈で言えば、そうかもしれない。でも……でも、ディオン様は、多分私よりも年上のはずだ。当然、症状の進行も私よりも更に早いだろう。
「……エミール君のお兄さんは、服薬して間もなく亡くなったと聞いています」
「そのようだな」
「下手をすれば、ディオン様もそうなってしまうかもしれません……!」
「俺は死なない」
その強い瞳は、私を捉えて離さなかった。
「まだ結婚どころか、まともにデートにすら誘えてないのだからな。死んでも死にきれない」
「ディオン、様……」
「次兄ブリアックが残した罪を、贖う機会でもあるのだ。俺のためにもやらせてくれ、クリス殿」
その力強い瞳は、却って私の無力さを証明しているかのようだった。きっとこの人は、やると決めたら必ずやるだろう。
「……わかりました、貴方の力を貸してください。私も、貴方よりも先に死ぬつもりはありません」
「そうか」
「そうです」
不敵な笑みにつられて、私の顔も自然と綻んだ。もしかしたら来月には、二人で肩を並べて死ぬかもしれないというのに、今の私はほんの少しだけ幸せだった。
「こんな時にいちゃつくな」
「い、いちゃついてません!!」
「はいはい、そうですねー。さてディオン、例の書物は王立図書館からは持ち出せない。あくまで俺とクリスの護衛として、顔を隠して同行してくれ。それとお前が予知の薬を飲むのは、お前とクリスが書物の中身を十分に覚えてからだ。テストに合格するまでは、絶対に飲ませないからな」
「分かった」
「よし、俺は皆にクリスの覚醒を報せてくる。ディオンはクリスの傍にいてやってくれ」
そう言い残して病室から出ようとした殿下は、何故かドアの前で足を止めて、私に向けてニヤリと笑った。
「なあ、ディオンがどうしてここにいると思う?」
「え?ディオン様は、たまたまだと……」
「はっ!たまたまなものかよ。こいつ、帰国してすぐお前に恋文を山盛り書いたのに、数日待っても返事が無かったからって大慌てで――」
「ボ、ボ、ボリエ殿!!!」
病室ではお静かに。そう愉快そうに笑いながら、殿下は退室していった。
「…………」
「…………っ」
後に残された私達は何も言えず、ただ顔を真っ赤にして俯くしかなかった。




