器量
陛下の小さな溜息が、僅かに流れていた沈黙を破った。
「学園の卒業式を終えた帰り道だった。急に馬車馬の1頭が暴れ出し、制御が利かなくなったようだった。崖から落ちた私は意識を失い、生き残った騎士も、すぐには動けなかった」
馬車ごと落ちて、よく無事だったものである。馬車の性能が良かったのか、あるいは先頭の馬がクッションになってくれたのか。
「パメラ達が通ったのは、本当に偶然だった。彼女達に救助された私は翌日に目を覚まし、関係者全員を呼び集め、望む褒美を聞き取った。そして冒険者達が金と名誉を求める中、パメラだけは城のメイドになりたいと言い出したのだ」
そういう経緯だったのか。平民であるはずの母が、どうやって城勤めを始められたのか謎だったが、王子様の命を救った対価だったわけだ。しかし……。
「何故に仕事を求めたのでしょう?逞しい母のことですから、ポーションショップの開店資金を直接要求しそうなものですが」
「そうだな。私も金ではなく、わざわざ仕事を求めた理由が分からなかったので、聞いてみたのだが……」
その理由が気になった私は、食い入るように陛下を見つめたが、その陛下は少し呆れた顔で苦々しく笑った。
「メイド服が可愛いかったかららしい」
「……はい?」
「見たら着てみたくなったそうだ。ついでに無職の平民としては、城の仕事を貰えれば生活も安定して一石二鳥だと、弾ける笑顔で堂々と言ってくれたよ」
く……!
くだらねえええええ!?結構な人生の分岐点だったはずなのに、決め手は服かよ!?だったらメイド服だけ貰えばよかったんじゃないのか!?
「クリスよ、パメラの行動を考察しても無駄だ。あれは直感で物事を決めることの多い女だった」
「ぐぬっ……」
なんという説得力と納得感……流石というべきか……!
「この前も見舞いに行った際に、新しいサイズのメイド服を要求されたぞ。今でも可愛いと思ってるのだろうな」
「まさかとは思いますが、新しい店の制服にするつもりじゃないですよね」
「うん?はは……」
陛下は笑みを浮かべるのに失敗したようで、誤魔化すように紅茶を再び口にした。猛烈な喉の渇きを感じた私も、やや多めに紅茶を流し込む。これは紅茶のおかわりが、あと2回は必要だろうな……。
「ま、まあ、ポーション屋として店を持つにも、金だけでなく市場調査などの準備期間が必要だ。安全で、かつ安定した仕事をしながら、ゆっくりと準備を進めるつもりだったのかもしれない」
それはそれで過大評価じゃないかな……やはり全部直感で決めた気がする。メイド服が第一理由なのは本当だろうし。
「しかし陛下も、よく受け入れられましたね……」
私なら採用を見送り、今後のご健勝とご活躍をお祈りするところだ。
別に母のメイド趣味……もとい志望動機は関係無く、元奴隷は生活苦を理由にして、犯罪に手を染める者が多いからだ。これは歴史が証明している事実であり、常識と言って差し支えない。
「元奴隷ながら堅実な仕事を選ぶ、彼女の実直さが印象的だった。だからつい手元に置きたくなって、専属メイドとして雇用したのだ」
「娘の私が言うのもどうかと思いますが、素性の知れない者を専属メイドに据えるのは、反対も多かったのではないですか?」
「そこは地位と権力で黙らせた」
おお、堂々と言い切ったよ。この辺りは確かにボリエ殿下の父親だな。やると決めたら手段を選ばない所が。
「まあ専属という点には議論もあったが、下級貴族の娘が多いメイド達の中に、平民をいきなり放り込む方が危険だとも感じた。それに当時の私は傲慢さが目立つ若造で、専属だったメイド達は皆辞してしまっていた。パメラの他にやりたい者もいなかったので、誰も強く反対できなかった訳だな」
……本当にそっくりである。尤もボリエ殿下が今の陛下レベルまで落ち着くには、学生生活をもう5周くらいする必要がありそうだが。
結果的に言えば、陛下の判断は正しかったようだ。陛下の見えない所で下らない嫌がらせはあったが、直接的な暴力は無かったし、少なくとも目が届く範囲では大人しかったそうだから。
それから毎日、母はメイド見習いとして一所懸命働いたという。元奴隷でありながら元貴族でもあった母は、周囲からすれば意外なほど貴族社会の常識に明るく、気配りが働いた。
そんな彼女の出自など露知らず、周囲は母の評価を少しずつ改めていった。
野蛮な元奴隷から……使いやすい平民へと。
「それが貴族主義に染まった人間と、社会と…それらを変えられなかった、私の限界だった」
周囲の母へ対する態度は、良くも悪くも一貫していた。陛下の専属メイドである前に、母はただの平民だったのだ。
だが母は腐らず、自分の仕事に徹した。疲れた陛下を気遣ってハーブティーを淹れ、夜は睡眠が深くなる香を焚いた。その献身は、陛下の心に少なからぬ変化を与えたようだった。
「いつしか必死に働く彼女を、その日暮らしの平民だと嗤う周囲の声に、強い不快感を感じるようになった。だが私は彼らの理不尽な物言いを叱責こそすれ、価値観を変えようとまでは思えなかった」
ーー城の皆が嗤う姿は、まさに彼女に助けられる前の、自分自身そのものだった。そう自嘲気味に語る陛下の声は、これまでで一番暗く沈んでいた。
「せめて私だけは、パメラにとって一番の理解者になろうと努めた。過去の自分は変えられないが、今の自分は変えられる。いずれ周りにも、パメラを認めさせてやりたい。そう願っていた」
そんな生活が一年ほど続き、母もメイドとしてはベテランと呼べるようになった頃、大きな事件が発生した。
ーー先王が崩御されたのである。
「まだ若く、早すぎる死だった。もし生きていれば、私の即位は少なくとも10年先になるはずだった」
「学園で習いました。病没と聞きましたが」
「違う……暗殺だ」
「っ!?」
「正確には暗殺とすら言えない、惨めな最期だった。放蕩者だった先王は、城内の様々な女に手を付け、相当な恨みや嫉妬を買っていたようだ。しかしある日、以前手を付けたメイドを部屋に呼びつけたが、あの人はその娘の名と顔を忘れていた。そして……」
……その先は、言わずとも分かった。
「……情けない話だが、私は父の好色をその時、初めて知った。彼自身が、私の前では父親たらんとしていたのもあるだろうが、周囲の人たちも立派な王子たらんとしていた私を、憐れんでいたのかもしれない。だが私にとっては父の好色よりも、抱いた女の顔と名前を忘れる精神性の方こそ、最もおぞましく思えた。そんな者が今日まで国王だったことに震え、自らの出生を疑い……その血を引く自分が次の王となる現実に、愕然とした」
王子である以上、いつ国王になってもおかしくはない。それは陛下も分かっていたはずだが、先王の死因が死因だけに、簡単には受け入れられなかったのだろう。
私自身、祖父にあたる人物がそんな放蕩者だったと知って、思うところはある。だが実のところ、まだ自分事として考えられないのが正直なところだった。
そもそも我が家の恥と思えるほど、自分の出生に対して現実感を得られていない。だからこそ陛下も、敢えてこのタイミングで打ち明けたのかも知れなかった。
「呆然とする私とは裏腹に、すぐに大臣たちによって国葬が手配され、略式ながら即位式が開かれた。だがその日の晩、私は恐怖の余り、ベッドの中で震えていたのだ。まだ学も覚悟も足りず、身近なメイド達にすら敬遠されている自分に、国の長が務まるはずがない。何故そんな下らない理由で早々と死んだのだと、先王を深く恨んだ。そんな時……」
……いつもの香が焚かれた。彼女は何も言わず、ただ黙したままハーブティーを淹れると、一礼してそのまま部屋から出ようとしたのだ。
「思わず彼女を呼び止めた。慰めの言葉を掛けないのかと。傷心の王に取り入れば、王妃の座も狙えるぞ。何故そうしないのか?君の狙いはなんだ?そう問い詰めた」
問われた母からすれば、酷い詰問だろう。善意で用意したものに対し、疑念を掛けられたに等しいのだから。
「……母は、なんと?」
「ただ一言、"殿下のおっしゃる通りです"と」
つまり、今の自分が傷付いた陛下に声を掛けても、策謀を疑われて却って傷付ける。それならば自分の仕事に徹し、黙って去るのが一番の慰めになる……というわけか。
「パメラを異性として意識したのは、まさにその時だった。彼女こそが生涯の伴侶に相応しいと直感した。気持ちを伝えられたのは、随分後になってしまったが」
そして陛下が今の王となり、先王の負債を片付けていく中で、陛下と母は気持ちを確かめ合い、やがてヒューズ殿下をご懐妊された……と。ざっくりそんな流れだったらしい。
だが婚約前に身籠ってしまったことには、当人達はもちろんのこと、大臣達も大層驚き、騒然とした。安全な日だけを選んでも、当たる時は当たるものである。殿下の専属だったため、他のメイドに気付かれなかったのは、不幸中の幸いとしか言いようが無い。
「私はパメラを正妃に迎えると即宣言したのだが、大臣達は認めなかった。どんな事情や背景があろうと、そしてパメラ自身に問題が無かろうとも、元奴隷の平民を娶るような前例を残せば、その後の婚姻が軽視されることに繋がりかねないからだった。そして誰よりも、パメラ自身が私との結婚に反対した」
「母が反対した理由は、なんだったのですか」
「自分達のワガママで、子孫に枷を残すべきではない。心さえ結ばれていれば、書面上の夫婦関係など必要無い。私は妾扱いで十分ですと、彼女はそう言ってニコニコと笑ったのだ。その自分を投げ打つような壮絶な覚悟は、堅物揃いの大臣達の心をも打った。最終的に平民との婚姻だけは断固認められなかったが、王家の血を引く子の王位継承権については、国王である私の裁量に委ねられる事となった」
いや、お母さん強過ぎか。敢えて自分を妾にすることで、子供の王位継承をもぎ取ったのが計算だとしたら、まさに稀代の悪女だぞ。実際は直感と感情で決めたんだろうけど。
「ところで、今は亡き正妃とご結婚されたのは、ヒューズ殿下がお生まれになって間もなくだったと習いました。どんなお方だったのですか?」
「うむ、ニーナのことか……すまないが、こればかりはボリエ抜きに話せることではない。だが彼女の名誉と愛に誓って、決して白い関係ではなかったとだけ言わせてくれ。ニーナは立場上の妾であるパメラを認め、お互いを友にし、先に生まれていたヒューズのことも可愛がってくれたのだ」
「そう、ですか……すみません、おかしなことを聞いて。私の質問が間違っていました」
……聞くだけ野暮だった。私としても、お母さん以外の人を愛していたと聞いても、モヤっとするだけだしな。
「よい、気になって当然だ。なんでも聞いてくれて構わない」
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えまして、私が一番知りたいことを教えてください。何故、母は城を出たのですか?ヒューズ殿下のように、私が懐妊した際に王位継承権を与えても不思議ではなかったと思いますが」
「もしや、王位継承権が欲しいのか?」
いやいやいや、冗談じゃない。柄じゃないし、暗殺に怯えながらの統治なんて、真っ平ごめんだよ。
「不要です。私が欲しいのは、ただ真実のみ。父の愛を疑ってはいませんが、何故私たちが二人きりで生きていくことになったのか、陛下の口から聞きたいのです」
「……ふっ。あの頃のパメラも、同じ事を言ったであろうな。分かった、今こそ話そう。そなたにはその資格も、器量もあるだろうから」
しばしの静寂が客間を支配した。冷め切った紅茶と反比例するかのように、陛下の目は温かだった。
「ボリエの誕生とそなたの懐妊は、ほぼ同時だった。しかしその日の夜ーー」
「父上、失礼します。急を要する故」
突如、客間の扉が返事も待たずに開かれた。あまりにも無作法だが、開けた人物の顔を見れば、咎めることはできなかった。
それは、私にとって兄と呼べる男の一人ーー
「……クリス君か。久しいな」
ーーヒューズ第一王子、その人だった。




