ブリアックの最期
結論から言えばヒューズ殿下との会談は、今日中には取り付けられなかった。でもそれは多忙な王子様相手であれば当然であり、比較的自由人なボリエ殿下であっても、急な訪問には対応できない。
ただ問題は、会談が許された時期だった。ヒューズ殿下の部屋から出てきたボリエ殿下は、自室へ向かう中でその顔を険しくさせていた。
「三日後の夕刻だそうだ。兄上め……」
「三日後と言えば、教会の補助金不正受給の件について、陛下へ正式報告する日ですね。ヒューズ殿下に謁見できるのは、その報告後ということになるでしょう」
「その日にケリを付けようとしてるってのか?俺の報告に合わせて、自らの失点を理由に、王位継承戦から離脱しようと!?だから予定が空くとでも言うのか!?」
「殿下、落ち着いてください」
興奮する殿下に対し、私は軽く肩に手を添えた。私の手に気付いた殿下は、はっとした様子で口を手で覆い、静かに深呼吸を始めた。それを確認した私も、そっと肩から手を離した。
これは友人同士の気安いスキンシップではない。平民も貴族も、配偶者以外は王族へみだりに触れることは許されておらず、目撃されれば即不敬罪に問われかねない、非常に危険な行為だ。故に殿下は、そのリスクを承知で私が触れてきた時には、最優先で耳を傾けることになっている。
そうしようと互いに決めた訳ではない。圧倒的身分差だからこそ自然発生した、暗黙の取り決めだった。
「まだそうと決まったわけではありません。それを確かめるために話し合うのではありませんか」
「しかし、手遅れになってからでは……」
「それは正式報告の仕方次第です。どんな物事であっても、見方を変えれば意味も変わります。ヒューズ殿下がそうしてきたように」
「兄上がしてきたように?……そうか、そういうことか」
よかった、なんとか言葉が届いたようだ。これで最悪の事態は避けられるだろう。
「取り乱してすまなかった。お前の言う通り、報告をするのは俺なのだから、まだ打てる手はあるよな」
「そうですよ。ほら、しっかりしてください。あんまり情けない様子だと、部屋で待ってる奥様がお嘆きになられますよ」
「その忠告には、素直に従うとしよう」
苦笑いを浮かべる余裕を取り戻した殿下は、自室の前で再び私に向き直った。
「さて兄上の件は別として、これでお前の母君が襲われた背景の方は、ある程度はっきりしたと思う。今日はもう仕事は良いから、母君へ会いに行くといい」
「ありがとうございます。でもその前に、最後にもう一か所だけ訪問しておこうと思ってるんです。この事を報告すべき相手がいるので」
そして恐らく、その者とはこれが最後の面会になるだろう。
「あいつか。俺が付き添ってやれればいいんだが」
時刻はすでに夕刻だ。朝からずっと借りっぱなしだったのに、夕食時を超えて一緒にいたら、奥様にあらぬ心配をおかけしてしまうだろう。
「大丈夫です。報告だけして、さっさと帰ろうと思います」
「それがいい。では、気を付けてな。牢に入ってても、やつらは無害ではないぞ」
「心得ております。ありがとうございました」
私は殿下と別れ、一人地下牢に向かって歩き始めた。
地下牢はあの日と同じく、かびと獣臭、そして若い女に対する獣欲の目線に満ちていた。私はこの世の汚濁をかき分けるようにしながら、護衛と共にゆっくりと奥へと歩み進めていった。
ふと横から飛んできた液体が視界に入ったので、軽やかにかわした。下卑た笑いを浮かべた男が、自らを握りしめながら、小刻みに動いている。そんな事をすれば厳罰が待っているだろうに、堪えきれなかったようだ。
その奥に、どこか見覚えのある痩せた男がいた。手前で励む男とは対照的に、そちらは酷く怯えた様子だ。どうやら同じ牢に入れられて、上下関係を分からされた後らしい。
その男は私に気付くと、カッと目を見開いて、全身を震わせ始めた。
「……ひっ!?あ、あああああ……あああっ!!」
ひどい怯えようだが……どこで会ったのだろうか?
……そうか、思い出した。予言の聖女を利用して、寄付金を集めていた枢機卿ではなかったか。あの頃よりもかなり痩せてるから、気が付かなかった。それに本来は他の司祭たちと同じく、地上の牢に入っていたはずだ。
周囲を見回すが、司祭と思しき者たちは見当たらない。女囚の姿も無かった。枢機卿だけがここに移送されたのか。もしかしたら、補助金不正受給に深く関与していた容疑で、更に刑罰が重くなったのかもしれない。
私は地下牢での刑務が、どのような物かは分からない。分からないが……少なくとも教会のような、清潔な空間でしか生きてこなかった彼にとっては、刑務よりもこの環境そのものが、最大の責め苦かもしれないな。
「ゆ、許してください……!許してください……!神様、私を助けてください……!」
ガタガタと体を震わせる彼を直視できなくなった私は、視線を切ってさらに奥へと進んだ。
そして一番奥の牢へ入ると、憎悪の対象を見下ろした。過去の悪行が祟ったのか、今回は初めから全身を拘束されている。
「お久しぶりです、ブリアック元殿下」
「あ……?き、貴様か……平民の女ぁ……!」
先程まで虚ろな目をしていたのに、私を目にした瞬間、獰猛な獣を思わせるギラついたものに変化した。
それでいい。理性を失って人に襲いかかるようなら、もはや人間を名乗る資格など無い。
「訂正する気も起きないので、呼び方はそれで構いません。今日は例の件について、報告に上がりました」
「私の睡眠薬を、毒にすり替えたやつか!?誰だ!!誰がやったんだ!!」
「厨房のスタッフか、毒見役です」
「そんな事は分かっている!!私が聞いているのは、誰の指図で行われたのかだ!!」
期待通りの反応に、思わず失笑を浮かべそうになった。口の端が持ち上がらなかったのは、直後に虚しさを覚えたからだ。愉快なことなど、この場には何一つ無い。
「冗談です。貴方とお会いするのもこれで最後ですから、正直にお教えします。毒へすり替えるよう仕向けたのは、ヒューズ殿下ですよ」
その答えを聞いたブリアックは怒り狂うでもなく、むしろ困惑していた。
「ヒューズ第一王子が……!?一体何故だ……何故、彼がそんなことを……!?」
「随分とヒューズ殿下を買ってらっしゃるのですね」
「当然だ!彼は我が国との平和外交ラインの確立に精力的で、父や私ともよく話していた!長兄とだって!何故だ!?何故彼が裏切ったのだ!?」
裏切るだって?馬鹿だな、本当に。
「先に裏切ったのは貴方でしょう。貴方がボリエ殿下に変な薬を盛ろうとしなければ、ヒューズ殿下もそれを利用出来なかったし、しようとも思わなかったはずです。貴方の計画を事前に察知していたヒューズ殿下こそ、貴方に一番失望していたと思いますよ」
「そ、それは……!?」
「だからって他人の犯罪行為を、自己都合で利用して良いという話でもありませんけどね。事実私はそのせいで死にかけましたし、隣国との関係性も再構築せざるを得なくなりましたから。尤も、それは中身が睡眠薬だったとしても、それほど結果は変わらなかったと思いますが」
「そんな……馬鹿な、こんなことが……」
ブリアックは、よほどヒューズ殿下を信頼していたのだろうか。先程までのギラついた覇気が抜け落ち、虚ろな瞳へ戻ってしまっていた。
「勝手な理由で私の母を傷付けておいて、最後まで謝罪もなく、被害者面を続けるんですか。虫酸が走りますが、そんな貴方の最期として、ここは相応しいとも言えますね」
「もういいのか」
「はい」
最後まで黙っていた護衛が、アーメットヘルムを外し、剣を抜いた。精悍な顔立ちが松明の火で浮かび上がるが、そこにいつもの穏やかな表情は無い。
「いつもありがとうございます、ディオン殿下」
「構わない。次兄の始末は、元々俺の役目だったからな。それより君は部屋から出た方が良い」
「いえ、見届けます」
「……そうか」
「ディオン……!?馬鹿な、馬鹿な馬鹿な!?どうしてお前がここにいる!?その剣はなんだ!?」
「ブリアック。せめて最期くらいは兄らしく、王族としての潔さを見せろ」
「やめろディオン!こんなことをして何になる!?お前が兄殺しをする必要は無い!!わ、私はまだ死ぬわけには!!マルティネス王国には私が必要だ!!」
「……兄さん。残念だ」
「やめろ!!やめ……い、いやだあああああ!!」
静かになった牢を出た私は、遂に堪えきれず嘔吐した。人の死を、処刑を直視したのは、これが初めてだった。しかし、それよりも私にとっては……。
ディオン殿下は、嘔吐のショックで体を震わせる私の背を擦ると、水の入った革袋を差し出してくれた。
「ゆすぐといい」
「ありがとうございます。ディオン殿下も、見事なお手並みでした」
「無理するな」
「……すみません」
……少し前のこと。私が地下牢の前に着いた時、既にディオン殿下が入り口に立っていた。周囲の兵が何も言わなかったのは、彼が何をするためにここへ来たのか、十分に通達されていたからだろう。
そして、私が今日ここに来るであろうことも、彼は理解していた。何も言わず、ただ黙って私に同行してくれたのだった。
「……」
「外に出よう。バシュレ国王へ、次兄の処刑が終わったことを報告しなくては」
「………ブリアックが死ねば、気分も変わるかと思っていました」
「……そうか」
「以前のように、薬草学と厄介事の処理のことだけ考える日々に、戻れるとばかり……」
「戻れるさ。君が罪を犯したわけじゃない」
「いえ、無理そうです。きっと私は、ブリアックに対する憎しみを捨てられない。あの男のことを許せる日なんて、きっと来ない」
「……クリス殿」
「私、ブリアックが死んだ時、嗤ったんですよ。嬉しかったんです。……人の死を見て、首の無い死体を見て、喜んだんです、私」
「クリス殿」
「私……ほんとに酷い女です。わ、わたし、わたし、おかあさんに、ど、どんな顔で、会えば」
吐いたのは、初めて死体を見たからじゃない。
処刑を目の当たりにしたからじゃない。
人の死を喜んだ、自分の醜さに。
自分自身に対する嫌悪と、絶望でーー
「クリス」
ディオン殿下は、抱きしめるでもなく、肩を抱くでもなく。
「よく頑張った。これで君のお母さんも、安心して暮らせるな」
ただ優しく、私の頭を、撫でてくれた。
「…………ごめん……なさい……!ごめん、なさい……!ごめんなさい……!!」
「………」
「う……ああ……うあああああああああ!!!」
声を上げて泣いたのも、泣き顔を母以外の誰かに見せたのも、それが初めてだった。




