受け入れ難い現実の嵐
少年は格好こそ枢機卿と同等のものを召していたが、その屈託のない笑顔は植物園にいた時と変わらなかった。
「あの演奏は、君が?すごいですね、あんな見事にオルガンを操れるなんて」
「神殿じゃ他にやれることが少なくてさ。それに見事でもないよ、途中びっくりして、ちょっと失敗したし」
「エミール、お前は下がってなさい。これは大人の話ーー」
「パパ、今までありがとう。もう教皇ごっこはやめにしよっか」
エミールと呼ばれた少年は、無邪気な瞳をたたえたまま、父親であるはずの教皇を見上げていた。その笑みは、植物園で見せたどの表情よりも闇深く、肉親に向けるべきではない敵意に満ち溢れている。
「な、なに…!?何の話だ!?」
「最初からパパには無理だったんだよ。教皇になりたいって言ってたから手伝ってきたけど、ぼくももうガマンの限界かなー」
「エミール!もうオルガン遊びは終わりだ!ふざけてないで、部屋に戻りなさい!」
その瞬間、エミール君の顔から笑顔が消えた。
「教皇の座を下りないなら、もう死を避ける未来は教えてあげないよ」
一瞬何を言ってるのか分からなかったが、ある意味で当事者である私は、すぐにピンときた。続いて殿下も奥様も感づいたのか、目を見開いていた。
エミール君もまた、私と同じく、予知夢を見られる人間の一人だったのだ。
教皇の顔が恐怖するように青ざめ、全身をガタガタと震わせ始めた。
「これまでぼくが見た未来のおかげで、全部上手くいってたもんね。偉い人が失敗する未来を教えてあげたら利用して、暗殺されそうになっても逃げられた。パパに病気が見つかった時も、早めにおくすりを探したおかげで助かった。これまでパパが何度死にかけて、何度ぼくが助けてあげたか、覚えてる?」
「い、いや…エミール、待て…待ってくれ…!」
「ママが死んじゃう時は、何もしてくれなかったけどさ」
「あ…う……」
憎しみ。怒り。憎悪。年端もいかぬ子供とは思えないほど、悪感情のすべてを煮詰めたような紅い瞳が、自分よりも二回りは大きい教皇を縛り付けていた。
「ねえ、おねえちゃん。おねえちゃんも、ぼくと同じものが見えるんだよね?」
「…ええ。夢、ですね?」
「うん!へへっ、なんだやっぱり見えてたんじゃない。すごいなー、死ぬ未来から逃げない大人って、本当にいたんだね!ぼくちょっと安心したよ!」
「安心、ですか」
「うん!ぼくもおねえちゃんみたいな大人になりたいな!」
状況について行けていない大人達は、その言葉の意味も分からず、ただ当惑している。そんな中で平然としている私は、周りからはどう見えていたのだろう。
「あ、じゃあおねえちゃんも、ぼくと同じ調合毒を飲んだんだ。あれすごく気持ち悪いよねー、最初の夢が特にさ」
「同じ調合…毒?え、私もって…!?」
そういえば、あの植物園には過剰なほどの薬草が植えられていた。まさかあそこにあった薬草は、幻覚剤の材料だったのか?
「おねえちゃんもぼくも、ラッキーだったね。あれね、夢から醒めない人の方が多いんだよ?」
そして教皇は、自分の息子に、あの幻覚剤を飲ませたのか…!?予知夢を見させて、利用させるために!?
なんという親だ。自分の栄達を利用するために、自分の子供を掛け金にするとは、非道を極めている。こんな男が教会のトップにいていいはずがない。
「ぼくのおにいちゃんもーー」
「エミール、もう、黙れ!黙っててくれ!皆のもの、エミールを部屋まで連れて行くんだ!この子は錯乱している!」
「うん、わかった。これからはぼく抜きで頑張ってね。じゃあバイバーイ」
「そんな、エミール!?た、頼む、見捨てないでくれ!行く前に教えてくれ!つ、次はいつ、暗殺されるんだ!?それだけでいいから、頼む!私は、私は、その、私は…私は、死にたくないんだ!!」
これが私を秘密裏に処刑しようとした人間の末路なのか。もはや虚しさすら覚えてくる無様さだ。
「おねえちゃん、またね!」
「あ、はい」
泣き喚く教皇を引きずるように、白い少年は神殿の奥へと消えていった。教皇の慌てぶりを見るに、これまで相当な悪行と恨みを買いながら、栄達を重ねてきたのだろう。その原動力となる予知夢を失った今、彼の明日を保証するものは無い。
しかしエミール君の言う通り、命惜しさに教皇の座を降りれば、話は変わってくるかもしれない。実の息子に毒を盛ったという疑惑は、彼の行動を後押しするだろうが、果たして。
私がやや呆然としたまま、彼らの後ろ姿を見送っていると、隣から欠伸を噛み殺したような声がした。というより、実際に噛み殺してるのだろう。アベラール様がすごい目をしているから。
「さて、教会に伝えるべきことは伝えた。後のいざこざは我々の関知するところではないし、そろそろ帰るとしよう。カール・カーライン、剣を返してもらえるかな?」
「はっ!こちら殿下の剣と、クリス王女の短剣にございます!どうぞ、お受け取りください!」
恭しく差し出された短剣だったが、そのまま受け取るのは躊躇われた。
「あの…私は王女ではなく、男爵です。訂正して頂けますか」
「は!?し、しかし、それはあまりに不敬では…」
「こいつが良いと言ってるんだから良いんだ。それにこいつは、陛下が公式にお認めになるまでは王女ではない。男爵で正解だよ」
「そういうことでしたら…どうぞ、クリス男爵。どうか、お気を付けてお帰りください」
「ありがとうございます」
その誠実さと真面目さは、私が知る兵長さんに通ずるものがあるな。こちらのほうが、大分気弱そうではあるが。
帰宅ムードが漂う中、いつの間にかメイドモードに戻っていたイネスさんが、オズオズと手を挙げた。
「あの…殿下。カールさんから、聞いておくことがあったのでは?」
「おっと、そうだったな。カール、君の妹の名前はなんだ?帰り次第、すぐに調査させよう」
「リンです。リン・カーライン。私の腰くらいの背丈の小さな女の子でーー」
「えっ、シスター・リン?」
「え?」
「ん?」
「あらー」
……まこと、世間とは狭いものである。
揺れる馬車の中。宿題を持ち帰ること無く、晴れ晴れとした気持ちで馬車に乗った私達は、しかしどこか落ち着かなかった。
「さて…ここにいる全員、クリスのことが気になっているよな」
「当たり前ですわ」
「えーっと…私にはもう、何が何やら。ご主人様が王女様で、毒を飲まされて、白い男の子と一緒なんですよね?」
合ってるようで、何一つ噛み合ってない。しかしイネスさんが混乱するのも無理ないよなー…予知夢のこととか、話してないわけだし。
「詳しくは城内で話すつもりだが…先に話の整理だけはしておいたほうが良さそうだな」
殿下は改めて背筋を伸ばすと、イネスさんの方へ向き直った。
「イネス殿、エミールと呼ばれた少年が言っていた夢の件は、クリスに直接聞いてください。そしてこれから私がお話することは、彼女のご友人である貴方には知る資格があります。ただし、くれぐれも他言無用に願います」
「ご主人様…いえ、クリス様のご友人として、必ず秘密を守るとお約束します」
イネスさんの神気は、それが嘘ではないことを如実に語っていた。
「ありがとうございます」
人にはめったに見せないホッとした表情をした殿下は、再びいつもの王子様モードに戻った。奥様が言っていた通り、敬意を持った相手には丁寧に接するという評価は正しいようだ。
「では、こいつの出自についてだが……陛下に直接確認をしていないから、いわば俺が勝手に確信してる状態だ。だが限りなく真実に近いと思う。それを前提に聞いてくれ」
殿下は私の方を見ながら、知っている事実を話し始めた。それは私が見ていた世界が、ほんの一部でしかなかったことの証明でもあった。
「まずクリスの血縁に触れるきっかけになったのは、こいつの母君が暴漢に襲われた事件だ。俺は当時、隣国のディオン王子とも連携を取りながら、犯行の背景を洗い出していた」
ブリアックの醜悪な笑いが一瞬思い出され、私の中の血液が熱くなったのを感じた。当然のことだが、あの日のことを私は過去にしていない。
「ディオン王子にはブリアックの周辺を調べてもらう一方で、俺は母君の顔を奴に教えた人物を探っていた。その一方で、母君の過去や経歴についても調べていたんだが…何故今まで国が認可していたのか分からないほど、滅茶苦茶だったんだ」
「滅茶苦茶、ですか」
「不透明な部分が多すぎたんだ。まず城下町に店を構えているというのに、土地代を工面した形跡がなかった。だが王城の記録を確認すると、あの土地は誰かから譲渡されていることが分かったんだ」
城下町の土地を譲渡だって?あそこは国有地ではなかったか?
「…できる人間など限られますわね」
しかも金を用意していないなんて、譲渡されると分かっていたかのようだ。
「親類縁者に、そんな富豪がいるとは聞いてませんね」
「結局、誰が譲渡の手続きをしたかは分からずじまいだったが、そこがまず引っかかった。次に気になったのは、店を持つ前の経歴だ。あの店を持ってからは、ずっとポーションショップを続けていたのは事実だが、その前の経歴が追えなかった」
お母さんがお店を持つより前の話か…。そういえば、お父さんとの馴れ初めとか、聞いたこと無かったな。なんとなく、聞きにくかったんだ。
「自分の店を持ったのは、私が産まれるより少し前だと聞いています。それまではどこか、小さな店の店員をしていて、父とはそこで出会ったと」
「店員だった事実があるならば、店から城へ届け出がされてるはずなんだが、それが確認できなかった。城の記録だけを信じるなら、お前の母君はあの店を持つまで無職だったか、闇営業を手伝っていたことになる」
や、闇営業ときたか…。
「流石にあり得ないと思いたいですね。でも、無職だったとも考えられません。殿下も見たでしょうが、私の母は人並み以上に仕事できる方だと思います」
「今思えば、あの一切無駄のない動きこそ、母君の正体を物語っていたのかもしれない。あれは城のメイドと比較しても、平均をはるかに凌駕していたからな。だが俺の中で決定打になったのは、母君へ面会に行った人間と、その回数だった」
面会者か。流石に病室の面会簿を改竄するような真似は、国王でもできないだろう。
「誰が何回来ていたんですか?」
「まず陛下が3回」
「「3回!?」」
アベラール様と被った。いや待て待て待て、3回って!?怪我をした平民に、王が3回も見舞うか普通!?
「それってそんなに多いんですか?」
「そうか、イネス殿にはイメージしにくいかもしれませんね。言ってしまえば、シスターが怪我をしたと聞いて、枢機卿が3回見舞うようなものです」
「……まず有り得ない例えですが、どれほどのことかは伝わりました」
イネスさんの目が怖い…どこが引っ掛かったかは掘り下げないでおこう。
「次に俺とアベラールが3回。友人の母君だからというのもあるが、襲撃前後のことについて聞き取る必要があったからだ。逆に言えば用でも無い限り、関係者以外が2回も3回も訪問することはない」
「あと面会があったのは、兵長さんと第一王子殿下ですよね」
「なんだ、二人ともすれ違ったのか?まあ、不思議ではないが」
不思議ではないはずないのだが、それは面会の回数を考えれば、確かに妥当な感想だった。
「最も多かったのが、その兄上と兵長だ。それぞれ、8回を超えている」
「なっ…8回!?」
…それは、明らかに異常だ。家族である私と同じか、それ以上じゃないか。
「ボリエ様、超えているとはどういう意味ですの?」
「一日に二度訪問していることがあるらしい。陛下が面会した翌日から、ほぼ毎日のように通っているようだ」
ああ…もう、最悪だ。もう殆ど答えが出ちゃってるじゃないか。
「……殿下、無いと思いたいのですが、あのヒューズ殿下が私の実兄かもしれないとか、言いませんよね?」
果たして殿下は、気不味そうに目を逸らした。おいおい、まじかよぉ…。
「確証は無いが…状況だけ見ると、十分あり得る話だと思う」
「うわあああ……殿下が腹違いの兄だったことより、ある意味ショックですよそれは……」
あの殿下以上に腹黒そうな人に、私と同じ両親の血が流れているなんてぇぇ…!
「心中お察ししますわ…」
ああ、アベラール様が背をさすってくださっている…いっそのこと、アベラール様が姉だったら良かったのに…!
いや、だが思い返してみると、出発前のヒューズ殿下の様子がおかしかったのも、そのせいだったのか?事前に陛下から母の事を聞いていて、何度も通い詰めてる内に私のことを知って…?
「やばい…小さな違和感がどんどん腑に落ちていく…げ、現実味を帯びていく…!」
この吐き気は馬車酔いだよね?そうだよね?
「あのー、その兵長さんって誰のことですか?その人も第一王子殿下と同じ位、通っていたんですよね」
イネスさんの純粋な疑問によって、私の吐き気は一時的に収まった。
「バルト兵長と言って、私と殿下が大変お世話になってる兵士さんなんです。ですよね、殿下」
「まあ、そうだな」
なんだ、歯切れ悪いな。
「ボリエ様…?」
「そのバルト兵長については、帰ってからゆっくり話そう。実はこの件については、もう少し根深く、繋がっている部分が多いんだ。例えば隣国の食事会で、幻覚剤を盛ったのは誰なのかについてとかな」
「犯人が分かったのですか!?」
「ああ、本人が自白したのでな。さて、今話せるのはここまでだ」
いや、そんな中途半端な。
「勿体ぶらずに全部話してしまいましょうよ。帰り道は長いんですから」
「さっきも言ったが、推論とわずかな物証で得た、俺の勝手な確信だ。これ以上は仮定と仮説を重ねるだけになる。それに幻覚剤については、犯人も交えて話した方がいい」
「犯人とそんな簡単に会えますの?」
「逃げる心配がないからな。する必要もないし」
「どういう意味ですか、それ」
会えばわかるよ。そう言うと殿下は、話は終わりだと言わんばかりに、馬車の窓から外を眺めた。
その顔立ちは、腹違いの兄と言われた今も、私と似ているようには見えない。男子は母に、女子は父に似るというが、もしかしたら私の顔立ちは陛下に似ているのだろうか。
そういえば幻覚剤を口にした時、初めて見た夢は殿下と私の披露宴だったんだよな。もし実現していたら、兄妹同士で結婚していたことになるのか。ううわ…考えたくない。そんなの、絶対不幸な末路しか待ってないよ。
「……ああ、そうだ。クリス、改めて言っておくぞ」
夕日に美しく照らされた殿下の顔は、私がよく知る殿下そのものだった。あの日、殴り合った時よりもずっと大人びて、それでも子供っぽさを残した、彼らしい顔だ。
「なんでしょうか、殿下」
「仮にお前が、本当に俺の妹だったとしよう。だが俺にとってお前は、妹である前に、対等でかけがえのない友人だ」
「ええ、もちろんです」
貴方と殴り合いを経て得た絆は、血縁で築かれたものではないのですから。
「だから俺のことは兄さんとか、お兄ちゃんとか、間違っても呼ぶなよ。絶対死ぬほど寒気がするから」
「キモいですよ、殿下。まさか、ちょっと呼ばれてみたいんですか?」
「ち、違うぞ!やめろ!また妻に誤解されるだろ!?」
「そういえば学生の頃、もし俺に妹がいたらうんたらかんたら言ってたような…え、ほんとに?まさか昔から私のことをそんな目で…」
「ボリエ様、ちょっと馬車を止めて、外でお話し合いしましょうか♪」
「ク、クリス!!お前、もう絶対、許さないからな!?やめろアベラール、まだ馬が走ってるから!走ってるからー!!」
「あー、私もう寝てていいですかー?」
私たちの修羅場は、これからである。




