聖なる契り
未だに自宅という気がしない屋敷の前で、私は一度大きく深呼吸した。帰り際に殿下から言われた事を思い返す。
『元聖女殿を説得するにあたって、同意する前であっても、ある程度は情報を開示していい。裁量はお前に任せる』
『任せるって…どこまでなら話していいんですか?』
『必要なら全部話せ』
『ぜ、全部!?それ、大丈夫なんですか!?』
『ああ、お前なら良い。頼んだぞ』
……私なら良い、か。そこまで言ったからには、どうなっても恨みっこなしだぞ、殿下。
「ただいま」
「おかえりなさいませ、御主人様」
玄関ドアを開けてすぐ、仕事服のイネスさんがトテトテと出迎えてくれた。かわいい。好き。
「遅くまでお疲れさまでした。早速お食事になさいますか?それともお湯浴みを先に済まされますか?」
「先に夕食をとりたいな。お腹すいちゃった」
「ではすぐにーー」
「ああ、待ってイネスさん」
「はい?」
私はもう一度深呼吸をしてから、イネスさんの目を真正面から見据えた。
「……とても大事なお話があります。今日は夕食を共にしていただけますか?」
「えっ」
私の真剣な様子に、イネスさんは少し驚いた様子を見せたが、すぐに表情を引き締めた。先日の聖堂での様子からして、既に察しがついていたのかも知れない。
「わかりました。着替えてきますので、少しだけお時間を頂けますか?」
それでも心の準備が必要か…それはそうだろうな。
「もちろんです。どうぞゆっくり着替えてきてください。私は先に、席について待ってます」
これでもう、後戻りはできない。表向きは平静を装いながら椅子に腰掛けた私だったが、内心は崖を背にしているような気分だった。イネスさんが衣装室へ入ったのを確認した私は、少しでも呼吸を楽にするため、胸のボタンを一つ外した。
大事なのは、彼女との友情を壊さないことだ。言葉選びを誤れば、雇用主とメイドの関係だけになるどころか、この屋敷から居なくなる可能性さえある。失敗は許されない。
イネスさんが衣装室へ入っていたのは、恐らく10分にも満たない時間だったはずだ。しかしそのわずかな時間で、私の背中には大量の冷や汗が流れていた。
「おまたせしました」
そして再びその姿を見た時、あまりの美しさから、私は呼吸する努力を忘れた。
それは彼女を雇う際に用意した服の中でも、特によそ行き用として買っておいたドレスだった。白を基調とし、装飾は控えめながら、ほんのりと差し込まれた特有のグラデーションによって、高級感が演出されている。元々彼女が持っている神聖な雰囲気も相まって、今の彼女には現役の聖女に匹敵する圧倒感があった。
「どう、でしょうか…」
「え?あ…に、似合ってますよ!とっても、綺麗です!」
「え、えへへ…」
はにかむ彼女の頬は桃色に染まっている。やばい、これは綺麗すぎる。そして可愛すぎる。なんで私はこれをよそ行き用にしてしまったんだ。これはよそに出しちゃいけないやつだ。屋敷の中だけで楽しむべき。
……って、そうじゃないでしょ。なんでそのドレスを選んだ?しかも結構ばっちりメイク直してるし、明らかに気合の入り方がおかしい。
「イネスさん、本当に、とてもお綺麗ですが…外食したいんですか?それなら、私も着替えないと…」
「え?」
「えっ」
……?
「あの…とても大事なお話とおっしゃってましたので…その…あの…」
「……???」
「あ、改めて、聖なる契りを、結ばれるのかと…」
聖なる契りってなに?まさか、雇用契約の見直しと勘違いされてしまったのか?
「すみません、イネスさんをびっくりさせるつもりは無かったんです。イネスさんを手放したいとか、そんなんじゃないですから。むしろ逆ですから」
「ぎゃ、逆って…!も、もう!クリス様ったら!あ、ご飯用意しますね!すぐ温め直しますから!」
「あ、はい」
……なにか知らないけど、とんでもない地雷を踏んだ気がする。彼女の内心は推し量れないが、なんとなく彼女の人生に対して、責任を負うことになったような気がした。
食事を始めてしばらく後、私は本題を切り出した。殿下のお許しも頂いていたので、情報は全開示。殿下の悪辣な部分も含めて、そして私の懸念も含め、全部である。
「あー……そっちでしたかー。まあ確かに大事な話ですけどねーそっかーそっちかー」
「え、そっちとは?」
「なんでもありませーん!」
やばい、やっぱり怒らせたか!
「す、すみません、やっぱり嫌ですよね。殿下には私から伝えておきます。イネスさんが行かないなら、私も行かずに済みますし、ちょうどいいです。私も、母と一緒に過ごせますしーー」
「あーもーなんでそういう方向に舵を切りますかねー!クリス様、何かちょっと勘違いされてませんか!?」
イネスさんは椅子におしりを付けたまま、ドカドカと音を立てて私の横に席を移動させた。そして自らのグラスに醸造酒を並々と注ぐと、それを一気に飲み干してみせた。その手には、いつの間にか肉が掴まれている。
「ぶはー!おい、クリス様!」
「は、はい!?」
って、しまった、この人酒癖が悪いんだった!このままだと潰れるまで飲み続けてしまう…!?
しかし私の後悔は、イネスさんの言葉で一気に吹き飛んだ。
「一緒に行ってほしいなら、もったいぶらずに最初からそう言えばいいでしょ!そんなことで何をウジウジと!」
「……え?」
「なーにが、とても大事な話ですか。期待して損しましたよ。ふんっ!」
怒る彼女の前にあった炭火焼き肉の山が、みるみるうちに減っていく。や、やけ食いか?ていうか…そんな軽い話をしたつもりないんだが。
「あの、私の話聞いてました?これは王位継承戦にも影響を与える重大な作戦で、しかもイネスさんの経歴すらも利用したーー」
「だーかーら!そういうところが勘違いしてるって言ってるんですよ!」
さらにもう一杯グラスを空にした彼女は、私に顔を思い切り近付けた。それはかつてディオン王子が迫った時よりも遥かに近く、ふとした拍子で唇が触れそうな距離だった。
「イネスさん!?ち、近っ!?」
「何を遠慮してるんだか知りませんが!クリス様が私と一緒に行きたいってんなら、どこでも行ってやりますよ!隣国だろーが教会だろーが連れションだろーが付き合いますよ!」
「つ、連れ!?……え、イネスさん?」
「だーーかーーらーー!ね!?」
そして彼女の手が私の両肩を掴んだ時になって、ようやく私は気付けた。
彼女は、怒りながら泣いていた。零れそうなほどの涙を浮かべ、悔しそうに。
「……頼み事ひとつで友達じゃなくなるかもって、そんなさみしいこと、考えないでくださいよ」
「……!!」
「もっと私を、頼ってください。貴方の友達は、頼られたくらいで離れたりしませんから」
私は…馬鹿だ。自分のことばかり考えて、友達からどんな風に見えてるかなんて、考えもしなかった。
『駄目よ、自分さえ間違えなきゃ上手くいくと考えるのはーー』
あれは、こういうことだったんだね、お母さん。
「……ごめんなさい、イネスさん。私が間違ってました」
「うん」
「私、昔から友達が少なくて。だから、どうしたらいいか、わかんなくて。失敗して嫌われたくなくて」
「うん」
「いつも、ああしたらよかったとか、そんなことばかり考えてるんです。ずっと友達と一緒にいたいから」
「うんうん」
「イネスさん」
「はい」
「……力を貸してください。貴方の力が、私には必要です」
「はい、よく出来ました!よろしい!貴方の手によって、完全に堕落したこの元聖女が、力を貸しましょう!ご安心くださいな!教会相手なら、相手が誰であろうと負けはしませんよー!!はーはっはっはっ!!」
この日の夕食は、これまでで一番長く、そして一番楽しい食事だった。二人して大笑いしながら、食べて、飲んで、時に歌った。ふと隣国のディオン王子もこの場に呼んであげたかったと夢想した。そうしたらきっと、あの日と同じか、それ以上に楽しい夜になったろうから。
次の日、二日酔いで登城した私は、すぐさま帰宅させられた。帰宅を命じた殿下の機嫌はすこぶる悪く、ただ一言。
「次からは俺とアベラールも混ぜろ。ずるいぞ」
そう漏らしていた。




