夢であるように
「クリス・フォン・ルグラン」
神聖にして荘厳な、限界まで張り詰められた空気は、謁見の間か、それ以上の厳めしさがあった。
光り輝く清浄な空間。
だが私に向けられた男の目は、処刑執行人に等しい冷酷さ、或いは死神の暗さを伴う鋭さだった。
「貴殿を神の敵、そして信徒の敵と認め、神の代理たる我が手で断罪する」
壮年の男の眼前に聖剣が掲げられた。
それを受け取った男は鞘から抜き放ち、その切っ先を私の喉へ突き付け――
――迷いなく一閃した。
「貴殿の魂は神によって焼き尽くされ、灰も残らぬ事だろう」
最期に私の耳へ届いたのは、言う事を聞かなくなった自分の頭が、固い床に打ち付けられる音だった。
--------
「…くそ」
久しぶりの悪夢から目覚めた私は、全身が寝汗で濡れていることに舌打ちした。心臓の鼓動がその失態を責めるかのように激しく、そしてうるさく鳴り続けている。夢の出来事と頭ではわかっているのに、思わず斬られた首元を確かめてしまった。
当たり前だが傷はない。しかし夢の中だったはずなのに、首を切られた痛みが鮮明だったのは、どういう訳だ。
「はあ…たまには楽しい予知夢を見たいな…」
ブツブツと独り言を呟きつつ、私は汗で重くなった寝間着を脱ぎ捨てて、タオルで全身の汗を拭った。月の位置からして、まだ朝には遠い。イネスさんも流石にまだ寝ているだろう。だがもう一度あの夢を見るかも知れないと考えると、もう眠れそうにない。
死ぬ経験なんて、一生に一度で十分だ。
隣室のイネスさんを起こさないよう、静かに台所まで下りた私は、水を二杯飲み干した。平民だった頃は、冬でも外の井戸から汲む必要があったが、貴族の屋敷には水道が引かれている。
「…おいしい」
こうして気軽に水を使う瞬間が、自分の身分が変わったことを、ある意味一番実感させてくれているかもしれない。
私はもう一度首の感触を確かめながら、夢の情景を振り返った。あの予知夢の風景には見覚えがない。ただ意匠が聖堂に似ていたので、恐らく場所は教会本部だろう。壮年の男の顔はよく見えなかったが、その場で私を断罪できるなら、枢機卿より下であるはずがない。
恐らくは教皇、あるいはそれに近い存在だ。男爵どころか、侯爵であっても、直接の面談は困難な相手である。即刻処刑の場面でなければ、身に余る光栄と言わざるを得ないのだが。
「…気にしすぎだ。夢は所詮、夢じゃないか」
これまでも似た情景は何度も見てきたが、全く同じ未来を迎えたことは一度もなかった。だったらーー
「ーー今回の未来だって変えられる。きっと変えられる、はず」
だけど、もし、これが不可避の未来だとしたら…避けられるはずだったのに、いろいろな失敗が重なって、破滅へ至る可能性があるとするならーー。
人生最大の親不孝をする予感に、私の首筋は少しだけ震えた。
--------
「えっ、クリスさんよね?」
「おい、どうした。酷い顔だぞ」
私の顔を見たボリエ殿下夫妻は、開口一番でまず私の体調を気遣ってくれた。
「私の顔が酷いのは昔からです」
「とぼけるな。何があった」
ああ、いけない。私としたことが、いくら相手がこの人とはいえ、善意を茶化して返すとは…疲れで余裕が無くなっているのかな。
「すみません、ちょっと悪夢を見てしまって、まともに眠れなかったんです」
「それってもしかして、例の予知夢?」
「はい」
私が頷くと、御二人は心配そうな顔をしつつも、それ以上聞こうとはしなかった。友人として苦難を共有したい気持ちと、未来を半端に知ることによる弊害を避ける実利、その二つによって葛藤しているのだろう。
「大丈夫ですよ、御二人とも。国の存亡に関わるような夢ではありません」
事実だが、その一部でしかないことに、気付かれてしまっただろうか。疲労と不眠で、それを察することもできない。
「……そう。でも、もし一人で抱えるのが辛かったら、話してくれても良いのよ。貴方一人に全部背負わせたい訳じゃないのだから」
「ありがとうございます、奥様」
そのお気持ちだけで十分です。
「体調が優れない中で、仕事の話をするのも心苦しいが、昨日陛下と何を話し合ったかを話しておく。よく聞いてくれ」
いつもよりも高らかな声だった。一方で殿下は、同時にメモ帳でペンを走らせている。…"適当に合わせろ"、そして"外へ聞こえるように話せ"、か。なるほど。
「結論から言えば、教会への補助金に対する追及は、現時点では避けることにした。やはり信仰の存在は我が国には欠かせず、その総本山である教会を敵に回すべきではない」
殿下のメモ帳には、補助金事業に対する抜本的な見直しを行い、まずは我が国の聖堂の腐敗を正す旨が書かれている。
「……そんな!?」
その意図を理解した私は殿下に倣って、不自然にならないよう気を付けながら、激昂したように声量を大きくしながら返答した。
「では聖堂に対する補助金の額も、敢えてそのままになさるのですか!?中抜きされているのかもしれないのですよ!?」
言外に、シスター達の窮状にはどう対処するのかと問い掛ける。その意図を汲み取った殿下は、引き続きメモ帳に本心を書きながら、口から建前を吐き出していった。
「もちろん、シスター達の窮状を見て見ぬふりは出来ない。教会本部へは配分に関しての改善を促そう。だが、やれるのはそこまでだな。これまで教会が国民の精神を支えてくれてきた、その実績と貢献を思えば、今後の動向を見守るのが無難だ」
『当然補助金は打ち切るが、各地の聖堂へは寄付金の形で直接支援する。寄付金であればわざわざ本部を通す必要が無いし、宗教活動そのものを否定することにはならない』
メモに書かれた文字は力強く、殿下の怒りと決意が感じ取れた。
「…わかりましたっ」
要するに、もう丸っきり、教会を組織としては信用しないってことだ。しかしそうなると、本格的に教会本部と事を構えることになりそうだが、そのへんは大丈夫なのだろうか。
まあ、この人のことだから、ちゃんと保険は打ってあるのだろう。学生時代にも散々色々やらかしてた御仁だが、失敗した後のケアを失敗したことはない。
敢えて失敗を挙げるとしたら、やはり学生時代に私なんかを友達一号に据えたことだろう。平民街に並ぶ屋台の炭火焼きを、水の代わりに安酒で胃袋へ流し込む快楽を教わったことで、彼の味覚は修復不能な欠陥を抱えてしまったのだから。
「……わかりました。教会ならば、神の御心に反することはしないと信じましょう。しかし枢機卿や司祭を拘束している件については、こちらから直接説明に伺ったほうがよろしいかと思います」
もちろん、そんな義理は無い。むしろ呼び付けて説教するのが筋だろう。
が、恐らく殿下は、直接乗り込んで一気に決着を付けようとするだろう。遠慮深謀を得意とする割に、短期決戦を好む方だから。
「四日後に、教会本部へ直接訪問する予定だ。そこで我が意向を伝える」
メモ書きには三日後に電撃訪問すると書かれている。全く、この人は…。
部屋の外で、鎧の動く音がした。見張りの交代には僅かばかり早い。恐らく、ここの話を教会へ報告するつもりだろう。獅子身中の虫とはこのことだ。
「ふん、時間内に持ち場を離れるとは、騎士失格だな。アベラール」
「はい。今日の担当は、騎士ヘンリーです」
「そうか、あいつらしくもない」
アベラール様はすぐさま手帳を取り出し、今日の見張りが誰だったかをチェックしていた。たぶん私が来る前に、予め打ち合わせていたのだろう。
「三日後、ヘンリーには無期限の管理休暇を与える。当座の後任を選定するよう、騎士団に要請しておいてくれ」
「はい、あなた」
彼が職を失うか、忠誠を誓って一兵卒からやり直せるかは、御二人次第だ。無論、時間内に持ち場を離れた件についての説明と、釈明が先だろうが。
「…さて、茶番はここまでだ。お前にはもう一つ、報告すべきことがある。お前の、母君が害された件についてだ。正確には経過報告だが」
母の件と聞いて、私は再び神経を尖らせた。
「なにかわかりましたか?」
「まだ推測に過ぎないが、この件において主犯と呼べる者は、恐らく存在しない。お前が先日言ってた通り、ブリアックは凶器に過ぎないだろう。だがやつを誘導した者が複数いて、それぞれの狙いが違うように思えるんだ」
「じゃあそいつらが誰なのか教えてください。それだけで十分です。あとは私が調べます」
「待て。これには複数の思惑が絡み合っている。順に話して整理しないとーー」
「私に必要なのは、犯人の情報と居場所だけです!回りくどい言い回しは、殿下らしくないですよ!」
「クリスさん、落ち着いて!ほら、深呼吸!」
気が付けば、目の前に殿下の顔があった。無意識のうちに、目の前まで詰め寄っていたらしい。私はアベラール様の言う通り、深呼吸を3回ほど行ってから、元の席に座り直した。
「……申し訳ありません」
「まずは落ち着け。いいか、順に話すぞ。初めに、謁見の間で王から直接廃嫡を宣告されたブリアック元第二王子は、今後の人生を悲観していたようだ。狼狽し、錯乱している様子をディオン王子が目撃していて、演技ではなかったように感じられたそうだ」
ディオン殿下は人付き合いこそ大の苦手だが、卓越した人間観察力を持つ。あの方がそう言ったのなら、間違いないのだろう。
「では、その後王城から追い出されて、私への復讐に駆られて、我が国へ向かったということですか」
「いや、どうやらお前への復讐を決意するより前に、城下町の宿で誰かと会っていたらしい。ブリアックが具体的に動き出したのは、その後だ」
「誰と会ったのですか…?」
「そこはまだわからんが、もしその会合が復讐のきっかけになったなら、そいつは俺に毒を盛ろうとしたやつに違いないだろう。つまりブリアックの毒を、睡眠薬から致命的な物にすり替えた人間だ。次に俺を狙う時、お前が一番邪魔になると踏んで、排除を試みたんだろうな」
「…過大評価も甚だしいですね」
しかし、あり得なくはないのか。事実として、私は殿下の服毒を未然に防いでいる。毒をすり替えた犯人からすれば、それを復讐に駆られたブリアックが勝手に排除してくれるなら、これほど好都合な展開は無い。そう考えるなら、確かに一番現実的な候補者だ。
だが、だとすると…。
「…だとすると、その者が我が国へ同行した可能性は低そうですね」
「ああ。少なくとも関所を通ったのは、ブリアックだけだったようだ。つまりお前の母君へ至るには、もう一人の協力者がいる」
「クリスさんと母君様の関係を知っている人物…我が国の者ですわね」
そんな情報を知ってる人物は、かなり限定されるはずだ。
「容疑者は絞られそうですね」
「ああ。実はお前の母君へ誘導した人物に関しては、既に大体のアタリがついている。まだ拘束はしていないがな」
なんだって!?
「何故すぐに教えてくれなかったのですか!?」
「教えられるか。あの日お前がブリアックへ向けた殺意に、俺が気付かないとでも思ったのか?」
「うっ…」
…確かに、殿下の言うとおりだ。今だって犯人を許せない気持ちで一杯だが、ブリアックが実行犯と知った時は、殿下達を出し抜いてでも亡き者にするつもりだった。もし母のことを教えた者が誰であっても、その存在を許そうとはしなかっただろう。
「…あの時は、私も冷静ではありませんでした。いえ、今でもまだ、十分に冷静とは言えないかも知れません」
「だろうな」
殿下の目線が私を真正面から捉えている。かつて無いほどの居心地の悪さを感じたが、私にも譲れない意地があった。
「それでも、私は知りたいのです。その者がどういうつもりで、ブリアックを私の母へ導いたのか。何故私ではなく、母が傷付かねばならなかったのか。…襲われた原因を知らないままでは、退院後の母を守ってやれません」
「クリスさん…」
「お願いします、どうかその者に会わせてください。絶対にその者を傷付けないと、誓いますから」
「……」
「お願いします!」
アベラール様は迷うように、殿下の横顔を見つめている。このご様子だとアベラール様には既に、協力者と思しき者の存在が伝わっているのだろう。
「お前の気持ちは理解した。近日中に事情聴取するから、それが終わったら会わせるか、検討しよう。だが何度でも言うが、この件に恐らく主犯と呼べる者はいない。最終的に、お前が納得する結論に至るとは限らない点だけは、承知しておいてくれ」
「…ありがとうございます」
また待つしかないのか…だが、少しずつ真実へ向かっていると信じて、今の私に出来ることを精一杯やろう。
父亡き私には、家族と呼べる存在は、もうお母さんしかいないのだ。もう二度と、訳の分からぬいざこざで、家族を傷付けさせてなるものか。
--------
殿下との打ち合わせを終えた私は、母が入院している病室へ向かっていた。今日は面会を終えたら帰ろう。流石にこの体調では仕事にならない。
だがその途中、思いがけない人物が病室から出てきたことで、私の足は止まった。
「えっ」
「……クリス君か。色々と大変だったようだな」
まさかのヒューズ第一王子殿下である。最後にお会いしたのは、私が男爵位を受け取る直前だったか。
「君の母君が巻き込まれたのは、我々王族の管理が不足していた点が大きい。君が貴族になるとわかった時点で、この事態を想定して保護すべきだった」
「いや…あの…」
「すまなかった」
「えっ…えっ!?」
目の前で何が起こっているのか、全く理解できなかった。
あの尊大不遜なヒューズ殿下が、私に頭を下げていた。周りに護衛の騎士がいるにも関わらず、だ。
「ヒューズ殿下!?あ、頭をお上げください!この件で、ヒューズ殿下は何も悪くありません!悪いのは犯人だけではありませんか!」
「……そう、かな」
歯切れも悪く頭を上げたヒューズ殿下だったが、その顔色の悪さは寝不足の私と比べても、遜色なかったことだろう。
私へ向ける目も、あの日会った時よりも遥かに複雑なものになっている。少なくとも単なる政敵へ向けるものではない。しばらく会わないうちに、この御仁に何があったというんだ?
「……君は教会をどうするつもりだ?あるいは、どうするべきだと考えている」
「え?ええと…決めるのは殿下ですので…」
「私が聞きたいのは君の考えだ」
と思った矢先に牽制…いや、探りを入れてきた。それとも単に意見を求めているのか?その意図はなんだ?なんでこのタイミングで?
…駄目だ、さっぱりわからん。この人が今何を考えているのか、何故こんな事を聞かれているのかも。
「騎士の中にも信者の方は多いですし、今ここでそれを語るのは、相応しくないかと思われます」
「…それもそうだな。まったく、私は何を聞いているんだ。変な質問をしてすまなかった、忘れてくれ。今日はこれで失礼する」
そう言い切ると、ヒューズ殿下は早足で私の横を通り過ぎて行った。…いや本当に、なんだったんだ?庇護すべき平民である母が傷付いたことに、大きなショックを受けていたのだろうか。そこまでメンタルが弱い人とも思えないんだけどな。
「あら、いらっしゃい!今日は千客万来だわねー」
首を捻りながら病室へ入ると、そこにいたのはいつもの母だった。
「おはよう、お母さん。王子様に会った直後なのに、全然緊張してないね」
「王子様には前も会ってるもの♪」
「それもそっか」
まだ体のあちこちに包帯が巻かれているが、動かなければ痛みも無いようで、顔色は良い。逆に私の顔色が悪い事にも気付いたはずだが、敢えて触れないでくれていた。そんなところも母らしかった。
夢のことは話さなかった。もしかしたら数日以内に死ぬかも知れないなんて、話せるわけがなかった。正夢にするつもりもなかったので、それでよかった。
いつもの母と、いつもの雑談だった。実家で流れていたような、穏やか時間だった。
「そう、また遠くへ出張するのね。お貴族様は多忙だわ」
「うん、お土産買って帰るよ。あればだけど」
「ふふっ、クリスったら」
私がその異常性に気付くのは、もう少し先のこととなる。




