元聖女のイネスさんは今ひとつ堕落が足りない
迎えた清掃日当日。三名のメイドと一名の元聖女、そしてシスター達を連れた私は、改めて聖堂の奥へと足を踏み入れた。案内役は、何故か私を異様に意識している、シスター・リンである。小動物みたいでかわいい。でもなぜか、ちょっと目が怖い。私があまりに不信心者だから、敬遠されてしまったのだろうか。
他のシスター達も外せない用事がある者以外、ほぼ全員が参加してくれたようだった。意外と多いことに驚いたが、それだけ今の環境が耐え難かったのかもしれない。
「こ、ここが一番、お力を借りたい部分です…」
そしてまず案内されたのは、台所兼食事スペース……だったと思われる場所である。
「うっわ…」
……まさか、これほどとは。聞きしに勝るとはこのことか。
「あちゃー…酷い有り様ですね」
洗い場と調理場の周辺がやばい、ヤバ過ぎる。油汚れ、こぼれもの、及びそれを踏み付けて固くなったもので床がドロドロに汚れている。もちろん壁もベタベタと汚れている。あまり高くない天井部分も、所々に干からびた蜘蛛の巣が残っていた。
これではブリブリ虫が徘徊するのも、無理はないというものだ。餌がこんなにも豊富にあるのだから。
聖なる印象から程遠い光景に、連れてきたメイド達も呆気にとられていた。恐らく王城の倉庫の方が、埃や塵を加味しても、ここよりは清潔だろう。
「感動のあまり込み上げるものがありますよ。主に胃袋からですけど。まさか今もここで食事をしているのですか?この惨状の中で?」
イネスさん、古巣相手だからか容赦無いな!?
「……はい」
「私が居た頃は、食前食後に軽く清掃をしていましたが、今はそれをやる人がいないのですね。駄目ですよ、自分達が使った場所は、使った人がすぐに綺麗にしないと」
「すみません…返す言葉もありません…」
誰かやるだろうと皆が考えて、誰もやらなかったやつだな…。それに普段はイネスさんが全部やっちゃってたから、誰もやり方がわからなかったのだろう。逆に言えば、やり方が分かれば出来るようになるはずだ。聖堂を大事にする気持ちがあればね。
「じゃあ、始めましょうか。メイドの皆様も、よろしくお願いいたします」
「「「承知致しました」」」
そこからの動きは早かった。新人も含めたメイド達は戸棚の上や中、そして天井や床を点検すると、すぐに清掃道具を手に取り、一斉に清掃を始めた。天井の蜘蛛の巣が瞬時に払われ、床で固くなった食べカスが次々と除去されていく。ブリブリ虫も何匹か現れたが、見かけ次第速やかに駆除されていった。
イネスさんも、自己流でありながら相当洗練された動きを見せており、メイドの一人が「へえ…」と感心するほどであった。それでありながら、メイド達から教えを請う低姿勢ぶりを見せている。恐らく彼女なら、今すぐにでも王城勤務ができるだろう。
「え!?は、はやすぎ!?」
「はーい、皆さんも手を動かしてくださいねー。私達の動きをよく見てください。次からは自分達でやるんですからねー」
「は、はい!」
それなりの広さを持つスペースだが、大人数による一斉掃除である。一時間も経たない内に、埃一つ無い空間に仕上がっていた。ささくれていたテーブル表面にもヤスリが掛けられたので、これからは気持ちよく使うことができるだろう。
「すごい!こんなに綺麗なお食事場、久し振りに見ました!動きは速すぎて参考にならなかったけど!」
それはなんとも残念な。だが問題ない。見る機会はこれから唸るほどあるのだから。
「よし、次行きましょう。動きはそこで再確認してください」
「はい!…え?つぎ?」
「礼拝堂と祭壇ですよ。あの一番広くて、奥に御神体の像がある所」
「……!!!」
シスター達の戦慄は、声を発しなくとも十分に伝わるものだった。その面積は、食事場を10倍しても足りないほどである。祭壇付近には装飾品もあり、これらの拭き上げと窓掃除の面積を考えると、それなりに時間と労力が掛かることだろう。
「さあ、やりましょう。まずは椅子を外に出しましょうね」
「あの、すみません。これをあと半日で終わらせるのは無理では…?」
あ、それはまずいぞ、シスターさん。踏む地雷は選ばないと。
「私が聖女だった頃は、一人でやってましたけど?元聖女になった後もですけどねー。そうですかー無理そうですかーへぇー」
ほら、イネスさんの目、全然笑ってないから。イネスさんはガチギレすると口だけ笑うんだって、皆さんならよく知ってるはずでしょうに。
イネスさんの圧に息をのんだシスター達だったが、そこからの動きは早かった。普段使っている聖堂の広さと高さに改めて圧倒されながらも、椅子をすべて外に出すと、汚れていた箇所を次々と掃除していった。椅子の方も、指示を待たずに一つ一つ拭いている。
どれも拙く、もたついた手つきではあったが、しかし丁寧だった。汚し方はアレだったものの、この聖堂を大事にしたいという気持ちは、恐らく本物だったのだろう。
私もイネスさんやメイド達に倣い、力を込めて窓を拭いて回った。窓拭きは母に代わってよくやっていたので、やり方は教わるまでもない。大きさが段違いだったので、梯子に乗らないと上の方に手が届かなかったが、去年は実家の屋根に積もった雪を下ろしていたのだ。今更恐れる高さでもない。
「あの…男爵様」
それにしても、これ、いつから拭いてなかったんだ!?外側なんて雨汚れが重なり過ぎて、ひと拭きで雑巾が真っ黒だぞ。今日一日で、何枚の雑巾が生き残ることやら。
「男爵様ってば!」
「……ん?…あ、私ですか?シスター・リン」
そうだった、私は男爵だった。そう呼ばれる事が無さ過ぎて、すぐに反応できなかった。
「どうしましたか?」
「なんで、お貴族様が窓拭きしてるの」
「だって、一緒にやった方が早く終わりますし」
「嘘だ。恩を着せようとしてるんでしょ」
「そうですね。これを皆さんと仲良くするための、きっかけにしたいです」
「正直すぎる…。本当にお貴族様なの?」
「ええ、一応は」
そう言って窓拭きを再開した私は、自分の置かれた立場を考えて、溜息をつきそうになった。ついこの間まで私も平民だったというのに、貴族になるとこうも風当たりが変わるのか。それとも私の行いが悪すぎたのかな。
「……ねえ、教えてよ。あんたは…あんた達は」
その声色の冷たさに、思わず窓を拭く手が止まった。シスター・リンの目が、月のない夜空を思わせるほど暗く、冷え切っている。その原因は、すぐ明らかになった。
「どうしてお姉ちゃんの秘密を暴いたの。他のお貴族様だって、すごい力だって喜んでたじゃない」
「お姉ちゃん…?」
「予言の聖女、フランシーヌ」
そう言われて、私は色々なことに合点がいった。怯えの中に憎しみが込められたような目線。そして、どこかで見たような顔。
シスター・リンは、あの予言の聖女の、実妹だったのだ。
「答えてよ。どうして、あんなことをしたの?あんた達が余計なことをしなければ、あたしもお姉ちゃんも、貧乏な日々から抜け出せたかもしれないのに…!」
「貧乏な生活って…聖堂のシスターが?」
それは変だ。シスター達が最低限の生活を確保できるように、教会には王国から補助金が出ていたはずだ。そこに信徒からの寄付金も加わるので、貧乏と言えるほど切迫した経済状況であるはずがない。
しかもボリエ殿下は、聖堂に残るシスター達を支援するため、補助金を減額しないよう王へ計らっていたはずだ。司祭たちが使うはずの分もそのまま使えるので、むしろ生活は豊かになってないとおかしい。
「そんな、まさか…」
本来聖堂に渡るはずの金が届いていないのか…?
「他のシスター達もそう思ってるよ。お貴族様は、いつもそう。あたし達よりもずっと恵まれてるのに、私達が貧しい生活を送ってるのを見ても、全然助けてくれない。お姉ちゃんのお陰で、せっかく普通の生活を送れそうだったのに。…助けてくれないなら、せめて邪魔しないでよ!」
なるほど…シスター達が、どこか俗っぽい理由が分かった気がする。補助金が回ってこない彼女達が使える金は、恐らく集めた寄付金の何割かに過ぎないのだろう。自分達が生きるための金を、自分達で稼ぐしかなかったのだとしたら、金稼ぎに必死になるのも当然だ。
神聖なる教会が、そうならないようにするための補助金なのだが、どうやら正しく使われていないらしい。
「…シスター・リン。貴方のお姉さんが投獄されたのは、貴方にとって良き姉だったからでも、貴族が搾取したからでもありません。言いにくいですが、信仰の範でありながら詐欺を働いたから――」
「法律の話をしたいんじゃない!どうしてあの時、黙っててくれなかったのかって聞いてるの!良いじゃないか、みんな喜んでたんだから!偽物の力でも、それでみんなを幸せに出来てたなら、世の中のためになってるんじゃないの!?わざわざ暴いて、お姉ちゃんを悪者にして、誰が幸せになったのよ!!」
シスター・リンは、とても賢い子供だ。どうして姉が捕まったのか、きっとこの子は全部わかってる。わかった上で、私に怒りをぶつけるしかないんだろう。姉を失い、慕っていたイネスさんも傍に居ない今、私以外に怒りのぶつけ先が無いのだ。
「あんた達がやったことでしょ!答えてよ!ねえ!」
理不尽とは思わない。紛れもなく私は、彼女にとって、全てを奪った仇なのだから。
「それは…」
だったら私はこの子のために、どう答えたらいいんだろうか。正論を返し続ければ良いのか。同情すればいいのか。それともこの子の仇として振る舞うべきなのか。どれがこの子にとって、よい返答なのだろう。殿下なら、アベラール様なら、どうお答えするのだろう。
わからない。考えても答えが出ない。私にそんな資格があるかどうかさえ、疑わしく思えた。自分自身が、情けない。
今の私が、この子に出来ることはーー
「しゅとぅ!!」
「あたっ!?」
返答に窮していた私を救ったのは、シスター・リンの頭に振り落とされた手刀だった。手刀の主は、私より先に三枚の窓を完璧に拭き終えた、イネスさんである。
「こーら、シスター・リン。お掃除をサボって、ご主人様の邪魔をしちゃいけませんよ。ほら、貴方も手を動かしてください。汚い窓はまだまだ残ってますよー」
鋭い手刀の痛みから立ち直ったシスター・リンは、涙目のままイネスさんへ向き直った。
「シ、シスター・イネス…!」
「さっきご主人様が言った通りです。フランは悪い事をしたから、罰を受けました。貴方も分かってることでしょうに」
「でも…でも…っ」
「駄目ですよ、辛い現実を全部誰かのせいにしては。それではフランを傀儡にして金を稼ごうとした、枢機卿様と同じような大人になってしまいます」
穏やかな笑みを浮かべるイネスさんだったが、その柔らかな唇から紡ぎだされた言葉は、信じられないほどに苛烈だった。その先で何を言おうとしてるのか、不安に感じた私は思わずイネスさんを止めようとしたのだが、逆にイネスさんに眼で制されてしまった。
その眼は常と異なり、全く感情が乗っていなかった。まるで夢の中で見たかつての彼女が、そのまま現れたかのようだ。
「あ、あたしが…枢機卿様と…同じって…?」
「貴方の姉、フランの予言は、偽物でした。だったら誰がやっても良いはずなのに、枢機卿様は彼自身が予言者を担うのではなく、フランにその役目を任せたのです。どうしてだと思います?」
「えっと…」
「とっても簡単ですよ」
――失敗した時、フランに全責任を押し付けるためです。
「っ!?」
その唇は深く弧を描き、元聖女らしからぬ嘲笑を象っていた。
「聖女に大任を与えて、自分は安全な場所で金を稼ぐ。それが枢機卿様の…いえ、教会の考えです。きっと枢機卿様は、牢屋の中でこうお考えでしょう。私は悪くない。悪いのは失敗したフランだ。全部フランが悪い。私は牢屋にいるべき人間ではない。だからきっと、教会は私を救い出してくれるだろう…と」
「枢機卿様が…!?」
私はその言葉に息をのんだ。この件に関して、私はイネスさんと必要以上に情報を共有していない。教会からの処分取り消し要請のことも、彼女は知らないはずだ。
だがイネスさんは、それを当然のことのように察知し、教会の動向を読みきっていた。聖女として、この場にいる誰よりも深く、そして長く教会と繋がっていた彼女だからこそ、確証を得るまでも無く的確に推察できたのだろう。
はあ、と溜め息を一つ吐いた彼女の瞳は、少しだけ揺れていた。
「……ですが、フランは違いました」
この時のイネスさんの顔を、私は忘れられないだろう。彼女はただ、さみしげに笑っていた。その一言にどれほどの郷愁と悔恨が込められているのかは、つい最近まで他人だった私には測りきれない。
それでも、この時の瞳は、今までで一番温かかった。
「人を欺いて金を稼ぐ行為を、神様が認めるはずはありません。王子様から罪を突き付けられるまで、あの子はそのことに気付けませんでした。しかし彼女は全ての過ちに気付くと、その罪を認め、進んで罰を受け入れました。違法行為に手を染めはしましたが、その矜持と高潔さを、私は一生誇るでしょう。流石は我が友、私が認めた聖女であったと」
「……っ!?」
「シスター・リン。現実を嘆き、ご主人様を責めるばかりの貴方は、フランが誇れる妹ですか?フランが帰ってきた時、廃れた聖堂を見て、褒めてくれると思いますか?」
シスター・リンの大きな目から、ポロポロとたくさんの涙が流れ落ちた。子供へ向けるには、あまりにも強い言葉の数々だった。それでもこの子はやはり賢く、そしてあの聖女の妹なのだろう。その顔は私に八つ当たりしていた時よりも、少し大人びて見えた。
「…あたし…あたし、おねえちゃんがかえってきたら、えらいねって、ほめてもらえるようになりたい…!でも、わかんない…!どうすればいいの?どうすればよかったの!?いまのあたしに、何ができるの!?教えてよ、イネス!」
「それはきっと、ご主人様が教えてくれると思いますよ。ね、ご主人様?」
いきなり矛先を向けられた私は、ぎょっとして固まりかけた。だが至近距離で向けられた幼い涙の破壊力は、私に動揺する暇すら与えない。
これがすべてイネスさんの計算通りなのだとしたら、彼女は聖女どころか女神の領域に達しているだろう。今夜はたっぷり酒と肉を奢りまくって、人間の領域へ引き戻さねばならないな。
「私にそれを言う資格があるかはわかりませんが…今出来ることを、精いっぱいやればいいと思います」
「いま、できること…?」
「聖堂のお花に水をあげて、日の当たるところに毎日置きましょう。そして手が届くところを掃除して、いつも綺麗にしておくんです。いずれフランさんが帰ってきた時に、リンさんが聖堂を綺麗にしていたと知ったら、きっと褒めてくれますよ」
「そんなことでいいの…?そんなの、誰にでもできることだよ」
「それで良いんです。誰かがやらねばならない仕事ほど、大変なものはありませんから」
「そんな誰にでも出来ることすら、私達が来るまで、誰もやってませんでしたけどねー。台所のブリブリ虫とお友達になってたと知ったら、フラン悲しむでしょうねー」
すっかりいつもの調子に戻ったイネスさんは、空きっ歯を見せながらへらへらと笑っていた。その様子に一瞬むっとしたシスター・リンだったが、今朝のブリブリ虫を思い出したのか、若干こわばった表情のまま頷いてくれた。
「…わかった。あん…男爵様の言うとおりにしてみます」
「私のことは、クリスで良いですよ。敬語もいりません」
「うん、ありがとう、クリス。さっきはやつあたりして、ごめんね」
うわあ、素直な良い子だ。笑顔かわいい。愛でたい。なんなら吸いたい。仲直りの握手、いやハグくらい今なら許されるんじゃないか。
「…さあ!掃除の続きをやりましょう!ほらほら、皆さんも休憩は終わりですよ!こっち見ない!手を動かす!日が落ちる前に全部片づけますよ!」
どうやら今のやり取りは、全部ほかのシスター達とメイド達に見られていたらしい。最初の頃よりも緊張が解れたのか、どこか生暖かさすら感じる視線を集めてしまった私達は、何故か気恥ずかしい思いのまま掃除を続けることになってしまった。
--------
「ご苦労、クリス。昨日は清掃ボランティアに勤しんでいたらしいじゃないか。まさかメイドに転職したいだなんて言わないだろうな?」
翌日。殿下とアベラール様の居室に入った私は、殿下の皮肉を頂戴していた。相変わらずの無神経さにムッとしたが、殿下の背後のアベラール様がニッコニコの笑みを浮かべていたので、反論は差し控えておいた。
強烈な雷が殿下の頭上へ落ちる前に、用件を済ませてしまった方が良いだろう。落雷の巻き添えはご免である。
「それもいいかもしれませんね。むしろそっちの方が向いてそうですし」
「お、おい、冗談だからな?」
「おつかれさま、クリスさん。シスターさん達の反応はどうだったの?」
アベラール様は、焦る殿下を見事に無視して、話を進めてくれた。ふん、今更失敗を自覚しても遅いぞ、殿下。あとでたっぷり叱られてください。
「思ったより感触は良かったですよ。小さなお友達候補も出来ましたし。ですが彼女たちの窮状については、少し気になることがあります」
「なに、窮状だと…?どういう意味だ」
私は今も彼女たちが経済的に困窮していること、殿下の補助金が彼女たちに渡っていない可能性があることを報告した。その結果、彼女たちの悪感情が教会へではなく、窮状においても手を差し伸べてくれない上級貴族に向いていることについても。
「中抜きか…。元々シスター達のためには一切使われず、役職者の間だけで利用していたのだろう。そして聖堂から役職者がいなくなったから、補助金の全額が教会本部の懐に入ったままになっている。そんなところか」
ボリエ殿下の結論は、私と同じだった。というより至極自然な結論だろう。聖堂に補助金が全額渡っていれば、あの人数なら問題なく食べていけてるはずなのだ。
「…酷い話ですわ」
「そうですね。しかしこの問題の本質は、そちらではありません」
「どういう意味?」
訝しげに眉をひそめるアベラール様だったが、ボリエ殿の方はそれどころではない。かの御仁は、ここにいない誰かに対する侮蔑と苛立ちで、口の端を歪ませていた。
「問題は…何故この犯罪行為を、俺も陛下も把握できていなかったのかだ」
「あ…っ」
補助金の出所が税金、国庫である以上、その金を受けとった教会は使い道を報告する義務が発生する。当然そんな報告を、陛下や殿下がいちいち受けていたらキリがないので、財務を担当する大臣などが報告をまとめ上げることとなっている。
少なくともこれまで、その報告内容に不審な点は無かったのだろう。でなければボリエ殿下が、聖堂への補助金減額免除を計らうはずがないし、陛下が承認するはずがない。
「王室が動向を察知できないほど緻密で、巧妙な情報操作が行われているのか。或いはーー」
「…王室周辺に、教会の協力者がいるのか」
そう考えるしかない。ほぼ間違いなく、組織的な力が働いている。
「大変なことですわ…教会は国外にも組織を持つ、大規模な宗教団体。もしこれが組織的な詐欺行為なのだとしたら、我が国の金が他国で使われている可能性も捨てきれません」
「そのような無法を許すわけにはいきませんね」
無意味に終わるかと思った聖堂の掃除だったが、つかんだ尻尾はトカゲどころか、ドラゴンのそれだったらしい。
「もはや王位継承云々を問題にしている場合ではないな。下手すればこれは詐欺どころか、重大な国家反逆行為だ。俺はすぐにこの件の調査を、陛下に進言する。アベラールは王城に勤務する者の中で、特に敬虔な信徒をリストアップしてくれ。身分は問わない」
「わかりましたわ」
「クリス、お前は聖堂のシスター達に、補助金の存在を知っているか確認しろ。それと隣国のディオン第三王子にも協力を仰いでくれ」
「はい」
「それと!!」
「は、はい?」
………。
……?な、なんだ、その微妙な顔は。早くなんか言え。
「その……俺が悪かった。もう二度と言わんと誓う」
「は?」
「だから、本気にするなよ。絶対だぞ!」
そう言い切るが早いか、殿下は翻し、謁見の間へと速足で向かっていった。
「…ああやって勢いのまま軽口叩いて後悔する癖、さっさと直さないと国難を招きますよ、きっと」
「妻たる私の教育不足だわ…もう少し厳しく躾けておくわね」
「お願いします」
反省してすぐ謝る分、学生時代よりは成長してるが…アベラール様の苦労も、まだまだ絶えないな。
しかし、これで教会に対する国の方針も、少しは定まってくるだろう。連中へ従順に頭を下げる選択肢はほぼ消えるだろうし、先に軽々と頭を下げてしまった第一王子の評価も、怪しくなってくるに違いない。
少なくともボリエ殿下にとって、今の状況はむしろ望ましいのだろう。だが…。
「……」
「どうしたの、クリスさん?」
「…いえ、なんでもありません」
私の問題は、何一つ進展していない。
母が傷つけられたのは何故だ。
そして、その目的はなんだったのか。
これが明らかにならない限り、本当の意味で前へ進めない。そんな気がした。
そして事態は、私の想像を超える速度で進むこととなる。
まるでそうなることが、予め決まっていたかのように。




