17.そしてアリスは逃げ出した
カトレアにもらったアイテムは、効果抜群だった。
おかげで翌朝にはすっかり目の周りのむくみも取れ、ハスキーがかった声も元通りになった。
しかし、絶対に隠し通す! と決めたものの、自覚してしまったこの感情は思っていた以上に、なかなか厄介な代物だった。
他意がないと分かっていても、よく頑張ったとほんのわずかに小さな笑みを浮かべて褒められれば、嬉しくて胸がむずむずして幸せな気持ちで溢れ、だらけた顔をディラン様に披露してしまいそうになるのを慌てて引き締める日々。
で、うっかりときめきしすぎて本当の気持ちがばれてしまわないよう、舞い上がる心をクールダウンさせる目的でディラン様にセリーナ様の話をねだって強制的に気分を落とし、なんとか平静を保っている状態だ。
感情を自分の意志で制御することが難しく、気をつけていても振り回されてしまう。
時間が経てばマシにあるかもしれないと何の根拠もない希望を抱くも、逆に想いは大きくなる一方で、それでも傍にいたくて、何があっても彼に異変を察知されないよう、友人としてのマリアを前以上に完璧に演じ続ける。
それなのに、今回もいとも容易くばれてしまう。
「……やはりこの前から様子がおかしい。もしも悩みがあるなら、俺で良ければ聞くから遠慮なく言ってくれ。ああ、いや、その、勿論無理に言う必要はない。話したくなったらで構わないから」
どうして私の周りの人たちはこんなにも優しいんだろう。けれどこんなこと、言えるわけがない。
まして直接本人に、「実はセリーナ様のことが好きなあなたのことが好きで、片思いで胸が苦しくて辛いんです」と告白するわけにもいかない。
結局曖昧な笑顔で、その時が来たら相談させてくださいと返すことしかできなかった。そうするとディラン様は、友人として自分は頼りないのだろうと言わんばかりに少しだけ悲しそうな顔をするから、罪悪感を感じる。
そのことがきっかけになって、少しだけディラン様に私が勝手にぎくしゃくとしてしまって、ディラン様の生徒会の仕事が忙しくなったこともあって顔を合わせる機会もぐんと減り、私の心の中に鬱屈とした想いが溜まっていく。
が、このままで終わるわけにはいかない。
卒業まではあと少し。
せめて最後くらいはディラン様とまた前のように普通に話をして、明るくお別れをしたい。そして、その頃にはセリーナ様との婚約が決まっているだろう彼にちゃんと友人として、「おめでとうございます!」と笑顔で伝えたい。
正直ディラン様に愛されているであろうセリーナ様が羨ましいなとは思う。けれど、たとえ幸せな気持ちにさせるのが私じゃなくたっていい。ただ、好きな人には絶対に幸せになってほしい。
それでもゲームと同じように並ぶ二人の姿を見たら、その時はちょっとは傷付く気がする。
だけど、自身の勉強に明け暮れつつ、皆に教えながら、大きな試験どころか小テスト一つにすら最近は突っかかってくる面倒なザッカリーの相手をして、王命をもぎ取るという最終目標に向かってみんなで努力していくうちに、今私が抱えている秘めた気持ちもいつかは過去のものになるはずだ。
なんてことを思いつつ、今が一番辛いのに変わりはないんだけど。
そんなある日の放課後、私は一人で裏庭へとやってきた。
デイジーに襲われかけたのはまだ記憶に新しい。彼女がいなくなって身の危険がなくなったとはいえ、あの日以来ここに足を運ぶことはなかった。
それなのにどうして今日に限ってきたのかというと、単純な話だ。
ここは恐怖を感じた場所であるのと同時に、ディラン様と初めてまともに顔を合わせた場所だから。
今日もきっと彼は生徒会の仕事で忙殺されていることだろう。少しでもディラン様のことを感じたくて、私の足は自然と、彼がこっそりスイーツ尽くしのバスケットの中身を食べていたあの大きな木の元へ向かっていた。
元から人気がないのに加えて、肌寒い季節になってきたためますます誰も寄り付かないので、特に誰とも遭遇することなく木の根元までやってきた。けれどそこにはまさかの先客がいた。
静かな湖面の色をした髪がかすかに吹く風でさらりと揺れている彼は、いつも通り制服のジャケットをきっちり着ており、木の幹に体を預けて座っていた。
ディラン様の姿を目にした直後、会いたかったと思う反面どんな風に顔を合わせればいいか分からず、逃げ出そうかと回れ右をしかけた私は、彼の目が開いていないことに気付く。
起こさないように足音を立てず近付き、息を押し殺してそっと確認すると。
「え、寝てる……?」
やっぱりディラン様は眠っていた。珍しいこともあるものだと好奇心が勝ち、ついつい距離を詰めてしまう。
久しぶりに見たディラン様の顔は、どこか疲れているようだった。この時期生徒会の面々は、王城の広間を借りて開かれる卒業パーティーの準備で大変だと、あのゲームで攻略対象者たちもげっそりした顔でヒロインに話していた。
リアルでも、体力無限大のザイル様ですらぐったりしているってメイニーも言ってたっけ。
もしかして今日はそちらはお休みなんだろうか。この方がサボりなんてするわけないし。
あと、休むならもっと暖かいところにいればいいのにと思ったけど、彼の隣に座ってみて、ついうとうとしてしまうのも納得できてしまった。
この場所は以前からお気に入りだって話は聞いていた。夏は木陰のお陰で涼しく、冬は低い位置から差し込む太陽の光で案外暖かいと。確かに、この季節でも日向ぼっこするにはもってこいの場所だ。
眠っているこの隙にもう少し傍にいたいという欲が出てしまって、更に自分の体を彼に寄せ、一体こんなところで何をしていたのかと彼の手元に目をやり、そこで私ははっと息を呑む。
ディラン様が手にしていたのは、私が少し苦手にしている科目が題材として扱われている書籍と、その中でも特にどこが参考になりそうなのかをまとめたメモだった。しかもメモの一番最後は、『アリス・メイト、無理だけはしないように』という文面で締めくくられていた。
「……ほんと、何してるんですか」
それはこっちの台詞だ。
疲れているのはどう考えたってディラン様の方なのに、貴重な休息の時間を私のために使って、あまつさえそんな言葉まで添えちゃって。
こんなことされたら、もっとディラン様のことを好きになってしまう。ちゃんと友人に戻らないといけないのに、私の恋心は際限なく膨らんでいく。
でも分かってる。ちゃんと分かってる。
彼の気遣いは友人のためのもの。だから下手に気持ちを打ち明けたらディラン様は返事にとても困ってしまうだろう。彼はとても優しい人だから。
────それでも眠っている今だけは、休日を共に過ごしたあの日のように、彼の下の名を呼び、この気持ちを声に出すことを許してもらえるだろうか。
「ディラン様、好きです」
彼の服の端をぎゅっと手で摘まみ、風に溶けるほどの小さな声で呟く。
「大好きなんです。優しいところも、勉強熱心なところも、甘いものを食べている時の顔も、静かに本を読んでいる時の顔も、私を褒めてくれる時の顔も全部」
眠ってる本人に言ったって聞こえないし、そもそも彼に聞かせたくて言っているわけじゃない。抱え込んだ自分の気持ちを吐き出して少しでも楽になりたくて、自己満足で垂れ流しているだけにすぎない言葉。それでも私の口は止まらない。
「たとえディラン様が私のことをそんな目で見ていないって分かっていても、本当はセリーナ様のことが好きだとしても、それでも私はディラン様のことが────」
「それは、本当……なのか」
気のせいだと思った。もしくはディラン様のことが好きすぎて、勝手に幻聴を生み出してしまったのかもと。いや、そうであってほしかった。
だけど耳に届いた声は間違いなく本物で、おそるおそる顔を上げると、今まで閉じていたはずの瞼が開いていて、夜の空を思わせる色の瞳と視線がかち合う。
私は戸惑ったように声を上げるディラン様からすぐさま距離を取ると、何事もなかったかのように微笑んだ。
「お久しぶりですパシフィック様。いくらあったかいとは言っても、こんなところでお昼寝していると風邪を引きますよ。せめて風の当たらない場所へ移動した方がいいんじゃないですか?」
「待て、今君は……」
「それじゃあ私は用事があるのでこの辺りで失礼しますね」
そして私は軽く一礼して地面に置いた鞄を手に取ると────笑顔が崩れる前に、そこから全速力で逃げ出した。




