track10-8.
声をかけると、夏野が驚いた顔でこちらを振り返った。
その顔色に違和感を覚えたところで――初めて隆志は夏野の傍に他の人間がいることに気付く。
それは、Cloudy then Sunnyのボーカル杉下香織と、午前中彼女と共に視聴覚室の近くにいた男だった。
しかし、その場の空気感はなんとも形容し難い程にぎこちない。
――何だ?
目の前の事態が把握できず、隆志の心にざわりと波が立つ。
今は余計なことを考えている暇も余裕もない。
それでも、自分の中の何かがこの場面に警鐘を鳴らしている。
香織が戸惑ったように「春原くん……」と口を開いた。
隣に立つ男も動揺した顔をしている。
そして、なにより――振り返った夏野の顔が青褪めていた。
それに気付いた瞬間本能的に身体が動き、隆志は夏野と二人の間に自ら割って入る。
何者だともわからない男の視界から、彼を守るように。
「夏野さん、緊急事態です。スタジオまで俺と一緒に行きましょう」
「え?」
『緊急事態』という言葉を聞いたことで、夏野の表情が冷静さを取り戻した。
「わかった、春原。行こう」
夏野の様子にほっと胸を撫で下ろす。
しかし、そのまま二人でスタジオに向かおうとしたところで――
「トモ、待ってくれ!」
――背後から響いた男の声が、夏野の足をぴたりと止めた。
……トモ?
同じく足を止めて隣を見ると、夏野は何も答えず俯いている。
背後を振り返ると、男は真剣な眼差しで夏野を見つめていた。
「トモ、ごめん。俺、ずっとおまえに謝りたくて」
男は焦ったように喋り出す。
その隣で香織が「謝る?」と困惑しながら繰り返した。
一方、隆志の隣の夏野は俯いたままだ。
疑問を抱きながらも男の顔をもう一度見たその時――隆志の中で、ぴたりとピースがはまった。
遠目でしか見たことはない、そもそも覚えていたくもない。
そう――自らの大切なひとを傷付けた男の顔など。
「……あんた、もしかしてNORTHERN BRAVERの人?」
我ながら驚く程、その声は冷ややかだった。
普段より重く響いた言葉に、香織が視線を向ける。
その眼差しには一抹の不安の色があった。
しかし、今の隆志に香織に配慮できる程の余裕はない。
そして――目の前の男が驚いたように目を見開き「……どうして、それを?」と呟く。
――瞬間、隆志は全身の血が沸騰するような感覚に陥った。
ほとんど反射的に男の胸ぐらに掴みかかると、男は情けなく「ひっ」と声を洩らす。
隆志は生まれてこの方殴り合いの喧嘩などしたことはない。
それでも、目の前にいるこの男だけは許せなかった。
――おまえか。
隆志の脳裡に記憶の中の夏野がよみがえる。
倉庫で小さくなり、肩を震わせていたあの日の背中。
スタジオで倒れ、冬島に抱き止められた時の青褪めた顔。
6月公演直前、蹲ったまま自らを責め続ける痛々しい姿。
――おまえのせいで……夏野さんがこれまで、どんな目に遭ってきたか。
隆志の抱く猛烈な怒りを直接向けられ、男の顔は恐怖に染まっていた。
その情けない表情が更に隆志の憤りを加速させる。
――どうして
どうして夏野さんがあんな思いをしなきゃならない。
このひとが何をした?
あんなにも理不尽に傷付けられる理由がどこにある?
夏野さんはおまえなんかが傷付けていい存在じゃないんだ。
ステージに立てば、会場中の観客を虜にして
まるで太陽みたいに圧倒的な輝きを放って
そして、その歌声で誰かの心を救うような――そんなかけがえのないひとなんだ。
それを何故、おまえみたいな奴が……!
ぐちゃぐちゃの心のまま、隆志は目の前の男にそれをぶつけようとした。
制御が利かないまま、思わず右手を振り上げたその瞬間――
「春原、ありがとう――もう大丈夫だよ」
隆志が愛したその声は、少しの震えも伴わずに凛として響きわたる。
――瞬間、隆志の目に映る世界が広がった。
先程まで怒りに染まっていた視界が色を取り戻し、隆志は我に返る。
目の前では変わらず男が怯えた目をしていた。
ふとその隣に顔を向けると、香織が目を潤ませていて――そこで隆志は改めて冷静さを取り戻す。
「――ごめん、杉下」
そう一言告げて、隆志は男から手を離した。
振り返ると、夏野がしっかりとした眼差しで隆志を見つめている。
隆志が頷き男から離れると、夏野はその視線を男に向けた。
「――佑、久し振り。今もギター弾いてる?」
夏野の言葉に、佑と呼ばれたその男はばつの悪そうな顔をする。
そのまま蚊の鳴くような声で「……いや」と答えるのを聞き、夏野の顔が少しだけ寂しそうに陰るのを隆志は見た。
二人の間に沈黙が横たわり、しかしそれを夏野の言葉が破る。
「佑……音楽って、いいよ」
ぽつりと呟く。
黙ったまま自分を見つめる佑に、夏野は穏やかに続けた。
「あれから色々なことがあったけど、音楽はいつでも俺の傍にいてくれた。楽しい時も悲しい時もいつだって――音楽こそが俺にとってただひとつの光だった。そして、今俺の周りには、音楽が縁をつないでくれたかけがえのない仲間たちがいる」
そこまで言ってから、ちらりと隆志を一瞥する。
その視線の意味に気付き、隆志の胸が熱くなった。
「そのお蔭で俺はなんとか今日も生きていられるんだ。それこそ――佑と一緒に過ごしたあの頃みたいに。だから佑、もし気が向いたらまたギター弾いてよ。佑のギター、俺好きだったんだ。とにかくまっすぐでがむしゃらで……そんな所が俺はたまらなく好きだった」
そう言って、夏野が笑う。
晴れやかな夏野の表情に反して、佑は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「このあと俺たちライブあるんだ。良かったら聴いていってよ」
「――あぁ……」
絞り出すように答えたその姿を見届けて、夏野は振り返る。
その表情にはいつもの明るさが輝いていた。
「行こう」と微笑む夏野と共に、隆志は走り出す。
そしてスタジオまでの道すがら、夏野が口を開いた。
「春原、色々ありがとな」
ちらりと横目で見ると、夏野は穏やかな表情をしている。
隆志は思わず「……すみません」と呟いた。
「部外者なのに、勝手なことをしてしまいました」
「いや、そんなことないよ。情けないけどさ、俺、佑を見た瞬間目の前が真っ暗になったんだ。正直どうしたらいいかわからなくて――思わず、逃げ出したくなった」
でも、と夏野が続ける。
「――そんな時、春原が来てくれたんだ」
思いがけない言葉に、隆志は目を見開いた。
「おまえが佑に立ち向かう姿を見て思ったんだ。あぁ、もう十分だって。俺には音楽があって、それを一緒に楽しむ仲間がいて――なにより、隣でおまえがギターを弾いてくれる。俺はそれだけでいいんだって。だから……嬉しかったよ、ありがとう」
そこまで言って、夏野が照れくさそうに笑う。
その笑顔に胸がいっぱいになって、隆志は何も返せなかった。
辛うじて「……夏野さん」と声を絞り出す。
「どうした?」
「……泣いてもいい?」
「え、何で!? 俺変なこと言った!?」
そう言って笑い飛ばしたあと、夏野は力強い眼差しを隆志に向けた。
「なぁ、春原――ライブ絶対成功させような」
夏野の言葉で、隆志の胸の奥が再度熱くなる。
その熱は、感傷的なものではなく――身震いするようなスリルとわくわくするような愉悦さえも孕み、火花のように弾けた。
きっと、今の俺たちなら何でもできる――そんな全能感さえ纏って。
「……勿論、『やるしかない』でしょ」
隆志の返答に、目の前の英雄は最高の笑顔で応えた。




