track10-7.
「――春原くん?」
自身を呼ぶ声に、隆志は記憶の底から意識を引き揚げた。
振り返ると高梨亜季がこちらを見ている。
「はい、どうしました?」
「お茶持ってきたけど、飲む?」
そう言って彼女はペットボトルのお茶をこちらに差し出した。
2年前に受けた手術は成功し病院へ通う頻度は格段に減ったが、それでも隆志は健康に神経を尖らせている。
特に飲食物については頭の中でその成分や栄養素を考えながら、体調に差し支えないようメニューを選んでいた。
そこまで神経質になる必要はないと頭ではわかっていても、いつかあの時の状態に逆戻りしてしまうのではないかという不安感が未だに拭えない。
当然、それを他人に話したことはない。
しかし、亜季がたまに買ってくる差し入れには、必ずお茶や水のペットボトルが含まれていた。
夏野や冬島はいつも炭酸飲料を選ぶので、わざわざ隆志のために用意してくれているのだろう。
「――いつもありがとうございます」
隆志がペットボトルを受け取ると、亜季は「どういたしまして」と笑顔を見せた。
お茶を飲みながら周囲を見回すと、控室の端では冬島が椅子に座ったまま昼寝をしている。
本番直前とは思えないその姿に、隆志は込み上げた笑いを噛み殺した。
それ以外の部員たちはペリドットのライブを観に行っているのか姿が見えない。
いつの間にかメイクを済ませたSecret Guestこと坂本の姿もなかった。
「もうすぐ本番だね。緊張してる?」
「どうでしょう。まぁあのひとよりは緊張しているかも知れません」
そう言って冬島に視線を向けると、亜季は「さすがだよね」と笑う。
そして――隆志に改めて向き直った。
「――春原くん、ありがとう」
唐突な亜季の言葉に、隆志はペットボトルを口から離す。
彼女は真剣な眼差しでこちらを見ていた。
「最近のなっちゃん、本当に楽しそうなの。昔色々あったせいで音楽から一度離れてしまったけど――なっちゃんがまた歌えるようになったのは、春原くんのお蔭。だから、本当に感謝してる」
とうとうと告げられる亜季の言葉に、隆志は思わず口を開く。
「――いえ、夏野さんがまた歌えるようになったのは、高梨さんがいたからですよ」
亜季の目がはっと見開かれた。
「確かに俺がバンドに誘ったのも理由の一つかも知れない。でも、俺は高梨さんのお蔭だと思います」
それは隆志の正直な思いだった。
自分が見付け出す前に、夏野の心が完全に折れてしまう可能性だってあったのだ。
そんな彼を支えたのは間違いなく亜季の存在だったろう。
「高梨さん――あのひとのことを守ってくれて、本当にありがとうございました」
亜季の瞳が熱を持って、潤む。
しかし、それは決壊することなく穏やかな笑みに変わった。
夏野にとって亜季は間違いなく恩人だろう。
そして、亜季が夏野に向けるそれはまるで無償の愛だ。
その深い愛情は夏野だけでなく、周囲の人々をも優しく包み込む。
隆志もまたその愛に救われていた。
だからこそ、彼女には幸せになってほしい――特別な感情ではなく、隆志は純粋にそう思う。
誰かはわからないが、彼女のことを深く愛する相手と共に。
――くしゅん!
背後からくしゃみの音がして、隆志と亜季は振り向く。
どうやら冬島が眠りながらくしゃみをしたようだ。
しかし彼はまた船を漕ぎ出し、その様子を見て亜季が笑った。
「本当に冬島さんって大物だよね」
明るい色を纏った彼女の言葉に、隆志も笑う。
以前は夏野以外の人間に感情を見せるのは苦手だったが、軽音楽部での生活は少しずつ隆志の頑なな心も溶かしてくれたようだった。
「そういえば、なっちゃんまだビラ配りしてるのかな。そろそろ準備した方がいいよね」
確かに、壁の時計を見ると既に時刻は16時を過ぎている。
夏野を探すため立ち上がろうとしたその時――控室のドアがけたたましい音を立てて開き、御堂が入ってきた。
「……何だ? うるせぇな」
その音の大きさに、冬島がようやく目を覚ます。
そして御堂の表情に浮かんだ緊迫感に気付いたのか、そのまま口を噤んだ。
「――おい、ちょっとやばいかも知れない」
***
視聴覚室に入ると、観客席は喧騒に満ちていた。
前方では楽器を持ったままペリドットの面々が「困ったねぇ、諸君」「こればかりは『彼』に機嫌を直してもらうしかないな」などとMCで場をつないでいる。
素早くステージまでの階段を降り、近くに立つ秋本繭子に声をかけると彼女は小声で隆志に答えた。
「(――アンプからいきなり音が出なくなっちゃって)」
アンプの前では坂本が電源やボリュームをいじっている。
しかし、どうにも事態が好転しそうにないのは、彼の普段以上に顰められた表情からも明らかだった。
隆志は繭子に視線を戻す。
「スタジオから他のアンプを持ってくるのは?」
「いや、別館のスタジオからここまでアンプを運ぶだけでもかなりの時間がかかる」
御堂が会話に入ってくる。
「吉永さんたちだってまだ曲残ってるし、そんなことやってたらおまえらのライブの時間がほとんどなくなる。こうなったらアンプが直るのを待つしかない」
――まさか、嘘だろ?
隆志は目の前から光が喪われていくのを感じた。
様々な試練を潜り抜けようやくここまで辿り着いたのに、最後の最後に機材トラブルとは――余程運命の神様の機嫌を損ねてしまったのか。
過去に幾度となく経験した、暗闇に引き摺り込まれるような感覚を覚えた時――ふと、脳裡を一片の画が過る。
それは2年前のあの日、孤立無援の状況下にもかかわらず笑顔で歌いきった夏野の姿だった。
隆志は口唇を噛んで、踏み止まる。
――いや、考えろ。
まだ俺たちにできることがあるはずだ。
ここまできて、諦めてたまるか……!
その時、視聴覚室の一番後ろのドアが開いた。
そこには部長の三条と見慣れない男子生徒が立っており、彼の右腕には文化祭実行委員の腕章が巻かれている。
二人はステージの様子を見て二言三言会話を交わすと、すぐに会場を出ていった。
それを見送ったところで、胸ポケットに入れていた携帯電話が鳴る。
電話の主は亜季だ。
『春原くん、ちょっといい? 会場にいる皆に伝えて。ペリドットのメンバーと繭子ちゃん、お客さんはそのまま一旦待機。で、他の軽音楽部のメンバーはスタジオに集合』
「――スタジオに?」
『うん、私と冬島さんももうスタジオに向かっているから。あ、春原くんと坂本先生は楽器も忘れないで持ってきてね。よろしく!』
そして、電話は切れた。
――何が起こっているかはわからない。
しかし、皆この状況で諦めてはいない。
隆志は軽音楽部のメンバーを集め、亜季からの指令を伝える。
彼らは一様に真剣な表情で頷いた。
すぐに坂本と御堂を連れて隆志は視聴覚室を出る。
そして、1階まで降りたところで廊下の先に夏野の姿を見付けた。
坂本たちに先にスタジオに向かってもらうよう促し、隆志は一人で夏野の元へと走る。
「――夏野さん!」




