track10-5.
待ちきれずにそわそわしていると、あっという間にライブの開演時刻が訪れる。
ステージ上にNORTHERN BRAVERの面々が姿を現した。
観客たちが拍手を送る中、最後に夏野がステージに姿を見せる。
隆志も観客席の端から懸命に手を叩いた。
今日はどんなセットリストだろう。
この前の選曲からすると、きっと夏野はロックが好きに違いない。
もし仲良くなれたなら音楽談義も色々できるだろうか――そんなことを考えている内に、ドラマーがリズムを刻んで演奏が始まった。
ステージから流れてきたのは、今年デビューした新人アーティストの曲だ。
現役高校生がリーダーを務める男女二人組のJ-POPユニットで、その話題性と楽曲のポップさが受け、世間ではかなり流行っている。
隆志も勿論知っている曲だが、NORTHERN BRAVERが選ぶ曲としては少し意外に感じた。
――その時、ステージ上の夏野が上手に立つギタリストに顔を向ける。
その表情は、あのバンドコンテストで見せた笑顔とはまるで違っていて――隆志の目には驚きの色に染まっているように見えた。
しかし、ギタリストはそんな夏野に気付く素振りを見せず、淡々と演奏を続けている。
隆志はその様子に微かな違和感を感じた。
まるで何かが噛み合っていないような――そんなもやりとした気持ち悪さにも似た何かを。
そしてイントロが終わった瞬間、それは起こった。
――夏野の口から、歌詞が出てこない。
それどころか、歌うメロディーが原曲と大幅に違う。
周囲の観客が戸惑った様子で顔を見合わせる。
隆志にも状況が把握できない。
しかし、夏野以外のステージに立つメンバーは堂々と演奏をしている。
どう見ても、ステージ上で取り残されているのはボーカリストの夏野ただ一人だ。
――何が起こってる?
隆志はステージ上の夏野を凝視した。
夏野の歌を聴いたのはあの一度限りだが、あれだけの歌が歌える人間の犯すミスとは到底思えない。
――いや、ミスなのか? これは。
周囲のメンバーの演奏は、決してレベルは高くないものの安定している。
浮いているのは、夏野の歌だけだ。
懸命に歌おうとする夏野の姿に――隆志は自分がその場に立たされているような錯覚を覚えて息を呑む。
まさか――はめられた?
それ以外考えられない。
しかし、何故そんなことが起こったのか――様子を見る限り、夏野にとっても青天の霹靂であったろう。
当然、隆志にわかるはずもない。
ただ隆志が理解できたのは、自分の目の前で大きな悪意が彼の光を飲み込もうとしているという事実だけだ。
――何故?
ステージ上の夏野が痛々しくて、隆志は思わず目を背ける。
――何故、あなたがこんな目に遭わなければならない?
あの日あんなにもステージで輝いていた――圧倒的な力を持つあなたが。
隆志はまるで自分の尊厳が踏みにじられているような、そんな感覚に陥った。
視線を向けずとも、その不気味な演奏はひたすらに垂れ流されている。
そして耐えきれず、耳を塞ごうとしたその時――隆志の鼓膜を夏野の歌声が切り裂いた。
その歌は、原曲のメロディーとは異なっている。
しかし――それは確かに、メロディーとして成立していた。
無遠慮に奏でられる伴奏と調和を取りながら、夏野の歌声は新しいメロディーを作り出している。
――まさか。
隆志は一つの可能性に思い当たった。
夏野の歌には歌詞がない。
1コーラス目の段階では、この曲のメロディーすら知らなかったように思えた。
それなのに今歌っているということは――先程聴いた1コーラス目の伴奏をベースに、即興でメロディーを作ったということだ。
周囲の観客はそれに気付いていないだろう。
確かに夏野の歌は、原曲とはまったく違うメロディーを刻んでいるのだから。
彼らの中では、変わらず夏野は歌を忘れたボーカリストでしかない。
誰もわかっていないのか。
このひとが、どれだけ凄まじい存在なのか。
その歌に惹き付けられるように隆志はステージに視線を戻し、そして目を見開く。
ステージ上で理不尽な音の暴力に晒されているはずの夏野は――笑顔で歌っていた。
1曲目が終わり、2曲目が始まる。
またもやJ-POPの別アーティストの曲だ。
夏野は当然のように歌詞もなく歌い始める。
1コーラス目は様子を窺いながら、2コーラス目は先程とはまた違う旋律を堂々と。
そして新しいメロディーをその場で生み出し続ける。
――彼は一体、どんな気持ちであの場に立っているのだろう。
本当ならば逃げ出したいに決まっている。
大勢の観客の前で自分の本来の力を出しきれず、仲間であるはずのメンバーたちから裏切られ追い詰められているのだ。
それでも、夏野は諦めずステージに立っている。
自身に向けられた悪意も、哀れみも――すべてを自分の力で跳ね返そうとするかのように。
――あぁ、なんであなたは、そんなにも。
ステージ上で一人戦う夏野から、目が離せない。
その夏野の姿を――隆志はただ、とても綺麗だと思った。
およそ1時間にわたるライブが終わった。
夏野が深く頭を下げると同時に、観客席から様々な声が上がる。
叩き付けられる音の渦の中、無言で顔を上げた夏野が一人さっさとステージを降り、隆志は慌ててそのあとを追った。
ステージを降りた夏野は中庭を出てどんどん人気のない方向へと進んでいく。
その先に見えてきた倉庫のような建物に夏野は一人で入っていった。
距離を取りながら後を追っていた隆志は、夏野の姿が中に消えたのを確認し、扉の外から中の様子を窺う。
その時――中から、夏野の歌声が聴こえてきた。
それは、最近日本でも話題になっているアメリカのロックバンドの曲だった。
メロディアスでありながらハードな楽曲が特徴的で、ギターの演奏もテクニカルなので隆志も幾度となく練習していた。
特に、夏野が歌うその曲――『Bite the Bullet』は、その前向きな歌詞もあいまって隆志のお気に入りの曲でもあった。
しかし、最初こそ堂々と歌い上げられていたその曲は次第に勢いを失い、そして――最初のサビが終わったところで消え入るようにその姿を消す。
そのまま暫く無音の状態が続いた。
不安になった隆志は、そっと中を覗く。
そこには――蹲った夏野の小さな背中が、ぽつんと寂しげに在った。
彼の肩が震えていることに気付き、隆志は慌てて視線を外す。
その姿を盗み見てしまうことは、ステージ上で最後まで戦い抜いた彼への冒涜に思えた。
隆志はそのまま、気配を気取られないように倉庫から離れる。
上着のポケットに手を入れたところでMDがその存在を必死に主張したが、隆志はそれに応えることをしなかった。
――今の僕では、彼の隣に立つことはできない。
学園祭から帰宅する道中、隆志は静かに決意する。
その日の夏野の姿は、隆志の心の中に強く焼き付き――そして、二度と消えることはなかった。




