track9-9. ジャッジメント・デイ -The Judgement Day-
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――彼に初めて逢ったのはいつだったか。
すっかり非日常に染め上げられた空間を眺めながら、俺はぼんやりと思い返していた。
普段は人通りが多くないこの一帯も、今日ばかりは各部の展示や出し物に使われ、学生と来場者でごった返している。
誰も彼もが楽しそうな表情で俺の目の前を行き交っていた。
左腕の時計を見ると、時刻は14時半――そろそろだろう。
俺はできるだけ目立たないよう廊下の端を足早に歩きながら、先程の記憶に思いを馳せた。
それまで、学内で彼を見かけたことはなかった――いや、もしかしたらあったのかも知れないが、記憶にない。
あくまでその程度のレベルであり、特に印象に残る相手ではなかった。
そんな彼の存在が俺の中に刻み込まれたのは、間違いなくあの時だ。
「――えっ、このアルバムが何でここに!?」
机の端に置いていたCDを見付けた彼が、驚いたようにそれを手に取る。
特に気にせず置いていた私物を見られ、しまった、と思うと同時に――そのCDを知っているのかと驚いた。
それまで、同じような音楽に興味を持つ人も、それについて話しかけてくる人もいなかったからだ。
俺はずっと音楽が好きだった。
楽しい時も辛い時も、俺の人生は常に音楽と共に在った。
中学生になった或る日のこと、俺は勇気を出して一人楽器屋へと向かう。
そこに行けば音楽が好きな人に出逢える――そう信じていたのだ。
しかし、その期待はいとも簡単に裏切られる。
子どもの俺が一人で楽器屋に来たところで誰も相手にはしてくれず、そこに集う人々は、俺にとって『別世界の住人』に思えた。
そして時は流れ――俺は結局誰とも音楽を共有できないまま、現在に至る。
後に勢いで楽器は購入したものの、誰に聴かせる勇気もなく、ただ一人で弾いて満足していた。
――そんな俺の元に、彼はまるで彗星の如く現れた。
まじまじとCDのジャケットを眺める彼に「聴くなら貸そうか」と持ちかけると、彼は弾けるような笑顔を見せる。
その太陽のような明るさが印象的で、以降彼と音楽の話をするようになった。
俺がCDを貸すと、代わりに彼が自分の好きなCDを持ってくる――誰かと音楽の話をすることがこんなにも楽しいなんて。
俺は音楽の新しい楽しみ方を知り、そしてそれを教えてくれた彼に密かに感謝した。
――そして、俺はそんな彼の持つ別の一面を見ることとなる。
あの日は午後に軽音楽部の6月公演が予定されていた。
昼食を終えた俺が会場に向かうため階段を昇っていると、目の前の廊下を彼が走っているのが見えた。
但し――会場とは違う方向に。
どこか切迫感のある表情に違和感を覚え左腕の時計を見ると、集合時刻まであまり時間がない。
どこに行くのだろう――俺は気になって、彼の後を追った。
彼は人気のない方へと一人で向かっていく。
存在を気付かれないよう、一定の距離を保ちながら俺は彼についていった。
校舎の端の階段を降り、普段は使われていない裏口を出て――非常階段の近辺に辿り着いたところで、彼はおもむろに蹲る。
そのまま少し様子を見ていたが、まるで動く様子がない。
体調でも崩したのか、もやりとした不安に駆られ俺が出て行こうとしたその瞬間――
「――夏野さん!」
どこからともなく彼を呼ぶ声が響き、俺は慌てて身を隠す。
身動ぎ一つしていなかった彼が、声のした方向へと緩慢に顔を向けた。
すると、中庭の方から一人の男子が彼の元に駆け寄ってくる。
その明るい色の髪の毛は、俺にも見覚えがあった。
「春原……」
彼の口から、相手の名前が零れる。
そうだ、あいつは1年生の春原――彼のバンドメンバーだ。
春原の存在を認識した彼はゆっくりと体勢を立て直そうとするが、それよりも春原が彼の身体を支える方が早かった。
俺の目に映る彼の横顔にいつもの明るい面影はなく、顔色はすこぶる悪い。
二人は向かい合う形で、地面に腰を下ろした。
「探しましたよ――体調大丈夫? 昼飯、ちゃんと食べました?」
「……食欲なかったから、ゼリーにした」
「まぁ、ちょっとでも食べられたなら良かったです」
春原が穏やかに微笑んで言う。
その言葉に頷く彼は、顔色は悪いものの先程より少し落ち着いて見える。
俺はそんな情景を不思議な心持ちで見ていた。
目立つ髪色の春原のことは、入学当初から知っている。
普段は仏頂面で友人とつるんでいる様子もないが――同じバンドのメンバーである彼には心を許しているのか、その笑顔は俺にとって初めて見るものだった。
一方で、そんな春原の前で憔悴した様子の彼も、俺にとっては驚くべきものだ。
人間だから様々な面はあるだろうが、少なくとも今目の前にいる彼は、俺が知る底抜けに明るい笑顔の持ち主とはなかなかつながらなかった。
「――悪いな、春原。本番前に迷惑かけて」
彼がぽつりと呟く。
「まだ時間あるから、大丈夫ですよ」
「『修行』も積んだし、いけると思ったんだけどなぁ」
ははっと彼が力なく笑った。
「いざライブやると思ったら――なんか、身体に力入んないわ気持ち悪くなるわで、全然ダメだ」
春原は彼の言葉を真剣な表情で聞いている。
「冬島さんも仲間になって、亜季もあんなに頑張ってくれたのに――俺、何やってんだろう。なんで――なんで、俺はこんなにダメなんだ……」
そして、彼は口を噤み、頭を垂れた。




