track9-7. ジャッジメント・デイ -The Judgement Day-
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初めてあなたに出逢った時、その輝くような笑顔に見惚れたのを覚えている。
「――あ、いたいた。秋本さん!」
視聴覚室の外でチラシを配っていた最中、私を呼ぶ声に思わずどきりとした。
振り返ると、御堂くんと共に立つ夏野さんの姿が見える。
笑顔で手を振るあなたに、私はマスクをしたままぺこりと頭を下げた。
何度聴いても、その声は私の心をそっと優しくあたためてくれる。
夏野さんに初めて逢ったのは6月公演の時だった。
同級生の春原くんと共に視聴覚室に入ってきた夏野さんは「遅くなってすみませんでした」と謝ってから、私の前の席に座る。
初ライブの日に遅刻してくるなんてどんな人だろうと思ったけれど、その背中はどこかやわらかい雰囲気を纏っていた。
さっきまで御堂くんを睨み付けていた先輩――冬島さんが「おぉ夏野、長いトイレだったな」と笑う。
ピリピリしていた空気がふっと和らいだことに驚いていると、夏野さんが「すいません、お待たせしました」と微笑み返した。
そして隣の亜季さんに「心配かけてごめん」と囁いて――そんな夏野さんを、春原くんが穏やかな眼差しで見ていたことも印象に残っている。
――あぁ、愛されているひとなんだな。
その時は、ただ漠然とそう思った。
そしてCloudy then Sunnyの初ライブ――直前に演奏した鈍色idiotsに鬼崎さんが厳しめのコメントをしたことで、私たちは緊張していた。
香織が持ち前の明るさで会場の雰囲気を変えてくれたけれど、油断はできない。
必死の思いで演奏を終え、ふと客席に視線を向けた時――夏野さんと目が合った。
その瞬間、私の中の時間が止まる。
瞳に映る夏野さんは、とても嬉しそうな笑顔でこちらを見ていた。
ただ、音楽を好きな気持ちが純粋にあふれ出たその表情は、私の心を瞬時に明るく染め上げる。
一瞬、自分がステージに立っていることさえ忘れてしまうような――そんな淡い感動が私を満たした。
その輝くような笑顔につられて思わず私の口元が緩んだ、その瞬間――
『なんかさ――あの子の笑った顔、変じゃない?』
――心の中で誰かの声がして、我に返る。
そのまま私は逃げるように視線を逸らした。
その台詞が私の耳に入ったのは、小学生のピアノの発表会の時のことだ。
自分なりに満足のいく演奏ができて、軽い足取りでステージから席に戻るその時――くすくすと嘲笑う声と共に言葉は放たれた。
「なんかさ――あの子の笑った顔、変じゃない?」
「わかる、口大きくて食べられそうっていうか」
「怖いよね」
誰が言ったのかもわからない――でも確実に悪意のあるその言葉。
どきりとしたけれど、怖くて振り返ることができなかった。
帰り道、固まった表情の私を見て、母が心配そうに何度も声をかけてくる。
――でも、とても言えなかった。
言えば、大切な母を悲しませてしまうことがわかっていたから。
それから私は自分の口元をマスクで隠すようになった。
大きな口さえ隠せば、誰かに笑われたりすることはない――そう思ったのだ。
食事をする時には外さざるを得ないけれど、できるだけ早く食べ終えてマスクを着ける、それが私の日課だった。
そんな私に夏野さんの笑顔は眩し過ぎたのだ。
しかし、その直後――私たちに続いて披露されたLAST BULLETSのステージに私は衝撃を受ける。
センターに立った夏野さんが深く一礼をした瞬間、ざわついていた会場がしんと静まり返った。
そして顔を上げた夏野さんが発した第一声は――ただただまっすぐに私の心に突き刺さる。
私は――いや、私たちは動けなかった。
その圧倒的な存在に、なす術もなく目を奪われる。
夏野さんの歌声がメロディーを辿る度に心が震えた。
そんな彼の歌に負けじと躍動する楽器たちを含め、レベルの違いをまざまざと見せ付けられる。
でも、不思議と口惜しくないのは――きっと、あなたが心から楽しそうに笑っているから。
今度こそ、私は口元の緩みを抑えられなかった。
誰に見られるでもない、そのマスクの下で私は笑う。
胸の奥の方で、ことりと何かが落ちる音がして――あぁ、人はこうして誰かのことを好きになるのだと、そう思った。
「――ねぇ、繭子。今日隣のスタジオ、LAST BULLETSだって」
或る夏休みの練習日、香織がニコニコ笑いながら私に言う。
――うん、知ってる。
夏休みの練習シフト、発表されてすぐにチェックしたから。
そんなこと言えるはずもなく、私は「へぇ、そう」とだけ返した。
すると、香織は「ちょっと隣のスタジオ遊びに行かない? 合宿の相談もしたいし」なんて笑顔で続ける。
周囲を見回すと、皆もなんだかあたたかい眼差しで私を見ていた。
――もしかして、私の気持ちばれてる……?
そんな疑念が頭をもたげ、そしてそんなはずはないと即座に打ち消す。
だって、私の気持ちは仲の良い香織を含め誰にも言っていないのだ。
そもそも夏野さんと会話すらしたことがないのに、ばれているはずがない。
「だから繭子、一緒に行こうよ~!」
「……いいよ」
できるだけシンプルに返したものの、声が上擦ってしまう。
それを聞いて、皆が「繭子、頑張って!」「話せるといいね!」なんて盛り上がっているけれど、私は気にしないことにした。




