track4-4. 秋の少女は英雄を待つ -The Autumn Girl's Waiting for the Hero-
「春原くん、本当にありがとう。シンベの練習頑張るね」
亜季が改めて春原に礼を言ったところで、冬島が「あー、シンベってことか」と言いながらドラムセットの前に腰かけた。
「それならそれでさっさと練習しようぜ。時間ねぇし」
「そうですね。亜季、こっちに来てもらっていい?」
夏野がスタジオの端にあるシンセサイザーの電源を入れる。
教わるがままに番号を登録し、鍵盤を叩くと確かにベース音が出た。
「今楽譜渡されたばっかでいきなりは難しいから、亜季は自分のペースで練習してて。来週皆で合わせる練習をしよう」
「わかった」
夏野と会話している間にも、室内にはギターとドラムの音が響く。
間近で楽器の音を聴くのは久し振りだ。
少しずつ、しかし確実に、亜季は自分の心拍数が上がっていくのを感じた。
――まさか、自分が演奏する側になるなんて思いもしなかったが。
持ち場に戻った夏野がマイクを手に持つ。
「じゃあ冬島さん、春原、1曲目ひとまず通しでやる感じで」
「はい」
「OK。1,2,3,4」
冬島がドラムスティックでカウントを取った次の瞬間――音の渦が生まれた。
思わず亜季は目を見張る。
中学の頃に夏野が組んでいたバンドとは、明らかに違った。
ビリビリと肌を突き刺すように届くのは、明確に意志を持った音たちだ。
夏野の言う通り、冬島も春原も只者ではない。
――この音に、夏野の歌が乗ったら?
亜季は自分の練習も忘れて夏野を見た。
マイクを持った夏野が顔を上げる。
その表情は――間違いなく、以前の夏野そのものだった。
夏野が今まさに歌おうとマイクの前で口を開く――その瞬間を、きっと亜季はこの先何度でも思い出すだろう。
***
時が過ぎるのは早いものだ。
亜季はひしひしとそれを感じていた。
春原が書いてくれた楽譜のお蔭で、或る程度弾けるようにはなったと思う。
――しかし、バンドで合わせてみるとしっくりこない。
自宅では原曲をMDで流しながら練習をしているものの、ピアノとシンセベースでは音が違うのでどうしても違和感がある。
他の楽器と合わせればそれなりなのではと淡い期待感でスタジオを訪れてみても、実際には一人で先走ったり隣の鍵盤を誤って弾いたりと、なかなか上手くいかない。
「心配しなくて大丈夫、1週間でこれだけ弾ければ十分だよ。まだ3週間あるんだから」
夏野が笑顔で言う。
「そうかな」亜季が少し沈んだ声を出すと、春原が近付いてきた。
「高梨さん、家にあるのってピアノでしたよね」
「うん、そうだけど」
「もしかして、鍵盤の軽さに慣れていないんじゃないですか? だからちょっとテンポが走ったり、勢い余って違う鍵盤を弾いてしまうのかも」
言われてみれば、確かに1週間振りに触るシンセサイザーの鍵盤は家のピアノとは随分重さが違うように感じる。
「成る程な。わかった、俺ちょっと対策考えるから、亜季はひとまず今日何度か合わせる練習してみよう」
亜季は1時間半ずっとシンセサイザーを弾き続けた。
こんなに真面目に練習したのは、人生で初めてかも知れない。
思い返してみればピアノを弾く時はいつも一人で、誰かと演奏をした経験があまりなかった。
クラス皆でリコーダーの合奏をしたことはあるが、同じ音色の何十分の一と異なる音色の四分の一では、性質も重みもまるで違うように感じられる。
そして、下校のチャイムが鳴った――タイムアップだ。
「俺、先帰るわ」
冬島が鞄を持ってスタジオを出て行く。
亜季は今日冬島と会話を交わしていない。
それどころか、彼は一度も亜季の方を見なかった。
気にしても仕方がないが、自分の存在が認められていないように感じて小さくため息を吐く。
6月公演まで、あと3週間。
そして明くる日、亜季は夏野と共に廊下を歩いていた。
時刻は昼休み真っ只中、早めにお弁当を食べ終えるよう朝夏野に言われていたのだ。
「なっちゃん、どこ行くの?」
「まぁ、ついてくればわかるって」
楽譜を手に辿り着いたのは、廊下の端にある物理室だった。
夏野はそのまま室内を進み、奥の準備室の扉をノックする。
「坂本先生、いますか?」
坂本は物理担当の教師で軽音楽部の顧問だ。
亜季はほとんど接点がなかったが、1年生の時他のクラスの友人から噂を聞いたことがある。
――曰く、かなりのカタブツでとっつきにくい先生だと。
亜季自身の彼とのコンタクトは、先週軽音楽部に入部するために入部届を出しに行ったのが初めてだ。
彼は高2で途中入部する亜季に特に理由を聞くことなく、事務的に書類を受け取った。
眼鏡の奥に潜む鋭い眼にギロリと睨め付けられると、気の弱い生徒はそれこそ蛇に睨まれた蛙のようになってしまうだろう。
音楽にまったく興味がなさそうな軽音楽部の顧問――亜季にはその程度の認識しかなかった。
そんなことを思い返している間に、準備室の扉が開き坂本が顔を出す。
前髪はオールバック、羽織っている白衣にはアイロンが丁寧にかけられており、几帳面な性格であることがひしひしと伝わってくる。
威厳というよりは近寄り難い空気を纏っており、恐らく40前後であろう実年齢よりも幾らか歳上に見えた。




