track4-3. 秋の少女は英雄を待つ -The Autumn Girl's Waiting for the Hero-
それが、先週の金曜日の話だ。
亜季は夏野に連れられ、校庭の端にあるスタジオまでやってきた。
そして、今目の前には初対面の厳つい上級生が立っている。
夏野が「冬島さん」と呼んだその上級生は筋肉質で背が高く、バンドマンというよりも亜季にはスポーツ選手の様に見えた。
しかし無造作に肩まで伸びた黒髪は確かにそれらしい。
洋ロックバンドのTシャツとか似合いそう――そんなどうでも良い想像が頭を過ったところで、はっと我に返った亜季は慌てて笑顔で挨拶をした。
「こんにちは、高梨亜季です」
ぺこりとお辞儀をしている間、沈黙が続く。
顔を上げてもなお、冬島はじっと亜季を見たまま動かない。
……どうしたのかな?
その視線にかなりの圧を感じながら、亜季はもう一度にこりと微笑んでみせた。
瞬間、冬島の肩がぴくりと動いたが、視線は変わらず亜季を捉えたままだ。
「……冬島さん?」
夏野の声に、冬島が「あ?」とようやく返事をする。
そして彼ははーっと大きく息を吐き、言った。
「おい夏野。おまえ、彼女連れてきてんじゃねぇよ」
「亜季は彼女じゃなくて幼馴染みです」
亜季が口を開くよりも先に、夏野があっさりと訂正する。
事実そうなのだが、即答しなくても。
冬島が小さく「幼馴染みか……」と呟き、まじまじと亜季の顔を見つめ直してきた。
なんだか不思議なひとだ。
亜季がじっと見つめ返すと、冬島は視線を逸らして夏野に問いかける。
「そしたらあれか? むちゃくちゃ凄腕のベーシストとかか?」
「えっと――」
夏野が説明しようとしたところで、スタジオのドアが開いた。
振り返ると明るい茶髪が目に飛び込んでくる。
彼はこちらに気付くと「おつかれさまです」と挨拶してきた。
「春原、おつかれ」
夏野の方を向いて会釈をしたあと、春原は手に持っていた書類を「高梨さん、これどうぞ」と亜季に差し出す。
受け取ってみると、それは楽譜だった。
「複雑な所は全体に影響が出ない程度にアレンジしたので、そこまで難しくないと思います」
「お、さすが春原、仕事が早いな」
夏野がニコニコと褒めると、春原は「……いえ、大したことでは」とモゴモゴ返す。
亜季はそのやり取りを見ながら、本当に春原は夏野のことを慕っているんだなと思った。
亜季は先週の金曜春原に逢っている。
夏野が電話で春原を呼び出したところ、ものの10分もしない内にやってきたのだ。
明るい茶髪と鋭い眼差しに少し気圧されたが、夏野が亜季のことを紹介すると礼儀正しく挨拶してくれた。
「高梨さんはピアノをやっていたんですね」
甘いものが苦手なのか、ウーロン茶だけ持って戻ってきた春原の言葉に夏野が頷く。
「そ。だから亜季には『シンベ』やってもらおうかと思って」
先程も夏野に言われたが、亜季には聞き慣れない言葉だ。
要はシンセサイザーでベースパートを弾くということらしい。
まさかベーシストを探すのではなく、自分がベーシストになるとは思いもしなかった。
正直なところ、その役割をきちんと務め上げられる自信はない。
それでも、亜季に夏野のお願いを断るという選択肢はなかった。
「最近はピアノ弾いてますか?」
「家にはあるけどほとんど弾いてないかな。習ってたの小学生の時だから」
「わかりました、楽譜は読めますか?」
「難しいのはきついけど、多分読めると思う」
春原は表情を変えずに頷く。
「大丈夫です。曲にもよりますけど、シンベは基本単音なんで」
そして鞄の中から楽譜を取り出し、机の上に広げた。
それを見た瞬間、亜季は思わず「え」と声を洩らす。
その楽譜は亜季が知っているものとは明らかに違った。
ピアノを弾いていた時に見慣れていた楽譜は、五線譜の上に音符が載っているものだった。
しかし春原が持っているそれは線が5本より多く、また音符ではなく数字が書かれている。
「これはTAB譜っていって、俺のギターの譜面です。線の数は弦の数を表しているので、ベースのTAB譜は4本線。あと、線上に書かれている数字は指で押さえるフレット数を表していて――」
黙りこくる亜季の顔色に気付いたのか、「春原、ストップ」と夏野が止めに入った。
「ごめん、多分亜季それだと弾けないと思う。今回はベースじゃなくてあくまでシンセだから、ピアノの譜面に起こさないと」
夏野の言葉を聞いて、春原の表情が申し訳なさそうな色に曇った。
その顔を見て、あぁいいひとそうだ――そう亜季は直感的に思う。
「……それもそうですね、高梨さんいきなりすみません」
「とんでもない、こちらこそごめんね」
最終的に亜季が演奏する予定のベースパートは、春原がすべて五線譜に書き換えることとなった。
その完成作が今亜季の手に渡った楽譜である。
弾きやすくアレンジをしてもらっているということもあり、今見た限りでは練習すればなんとかなりそうだ。




