track4-1. 秋の少女は英雄を待つ -The Autumn Girl's Waiting for the Hero-
何度でも言おう
あなたの歌が、私の日々に彩りをくれた
track4. 秋の少女は英雄を待つ -The Autumn Girl's Waiting for the Hero-
今でも昨日のことのように思い出せる。
圧倒的な歌声、弾けるような笑顔、歓声の中で躍動する肢体――誰もがあなたに心を奪われた。
あの日、あの瞬間、あなたは皆のヒーローだった。
――そして
それは今も、変わることなど決してない。
……そのはずなのに。
***
亜季が夏野に抱いた第一印象は、『よく笑う男の子』だった。
父の仕事の関係で引越してきた日、亜季は両親に連れられ隣家である夏野の家に挨拶に行った。
緊張で上手く話せない亜季に、夏野は手を差し出し「あくしゅ」と言って笑う。
その笑顔を見た瞬間、亜季は自分の心がふわりと和らいだような気持ちになった。
翌日から夏野は遊びに行く際に必ず亜季を連れ出すようになった。
近所の子どもたち皆で日が暮れるまで追いかけっこをしたり、サッカーの真似事をしたり。
いつも多くの友人に囲まれている夏野は、いつしか亜季の憧れの存在になっていた。
そんな或る日のこと、亜季は週1回のレッスンに向けて、自宅でピアノの練習に励んでいた。
幼稚園の頃から習ってはいるものの、ここのところ課題曲が難しくなかなか上手く弾くことができない。
ため息を吐いて指を止めた時――どこかから、誰かが歌う声がする。
その声は、亜季の心にぽたりと色を付けた。
衝動的にピアノを離れて窓を開ける。
しかし、歌声はぴたりと止み、辺りには静けさが戻っていた。
仕方なく亜季は再度ピアノの前に座る。
そのまま曲の頭から弾き始めるが、難しいパートを弾き違えた亜季が指を止めると先程の歌声が響き――また、引っ込むようにすっと消えた。
どうやら、亜季のピアノに合わせて誰かが歌っているようだ。
亜季の心に染み付いた色が、じくじくとその存在を主張する。
――もっと、この歌を聴かせてほしいと。
亜季はその歌声が聴きたい一心でピアノの練習を続けた。
耳を澄ましピアノを弾いていると、その陰で確かに歌が響いている。
それが楽しくて、憂鬱だった練習が楽しみになったのを覚えている。
そして亜季は小学校の音楽の授業で、思いがけずその歌声の主を知った。
――最初は、まさかと思った。
あの歌声は、普段の夏野の声とまったく違ったからだ。
しかし、目の前で歌う幼馴染みの口から放たれたのは――聴き間違えるはずなどないあの歌声だった。
亜季はざわめくクラスメートたちの中、一人感動の再会に心を震わせた。
「――あの歌声、なっちゃんだったんだ」
帰り道、興奮する心をひた隠しにしながら夏野に話しかけると、彼は照れくさそうに笑った。
「亜季が頑張ってピアノ練習してたから、なんだか俺も歌いたくなっちゃって……うるさかったよな、ごめん」
「うぅん、全然そんなことないよ。私、なっちゃんの歌、好き」
亜季のその言葉を受けて、夏野はまた笑う。
その日から、亜季にとって夏野はそれまで以上に『特別な男の子』になった。
平凡な自分とは違う、才能を持った存在。
彼の歌を誰よりも早く知っていたことを誇りにさえ思った。
だから、中学で夏野がバンドを組んだ時は自分のことのように嬉しかった。
練習のため遊ぶ時間が減ったのは少し寂しかったが、ライブで夏野が歌う姿を観られるだけで亜季は満足だった。
そう――あの中3の文化祭までは。
あの日、夏野は原曲のメロディーラインと異なる旋律を歌詞もなく歌っていた。
音楽を愛する夏野に限って、あんなミスはありえない。
佑たちが夏野を大衆の面前で貶めたのは、亜季の目には明らかだった。
「練習不足かな?」「歌詞とんじゃったんじゃない」と囁く聴衆の中で――亜季は一人、呆然としていた。
――何故夏野が、こんな目に遭わなければならないのか。
文化祭が明けた翌週、登校した夏野からは溌溂さが失われていた。
夏野とべったり一緒にいたはずの佑は彼に見向きもしない。
ステージ上で辱められ、弱った夏野に追い打ちをかける――親友面をしていたはずの元メンバーに虫唾が走った。
「なっちゃん、おはよう」
そんな黒い感情を振り切るように、努めて明るく亜季が話しかける。
それに対し、夏野は力なく顔を上げ「……おはよ」と返し、笑った。
亜季は頭を殴られたような衝撃に絶句する。
それは、これまで亜季が見てきた彼の笑顔のどれにも似つかない、弱く儚いものだった。
ざわざわと肌が粟立つ。
彼女の中にあったのはとてつもない怒りと――焦燥だ。
夏野は特別な存在なのだ。
あの歌声が喪われることなど、決してあってはならない。
その日、亜季は決意した――自分が夏野を守るのだと。




