31・逆行したことに対する苦悩
この章には、医療行為としてさらっと排泄介助の表現が出てきます。 苦手な方はブラウザーを閉じるか、戻ってください。
ブルー第三騎士隊長と別れた私は、静かに医療院に入ると、頂いたサンドイッチの籠を、アルジが眠るベッドのそばに用意した机の上に置いた。
そっと彼女の寝顔を覗きこめば、アルジはまだぐっすり眠っているようなので、起こさないように気を付けながらシーツをかけ直した。
「さて。 アルジが寝ている間に、一仕事終えてしまいましょう。」
肩から掛けていたショールを外すと、簡単にたたんで寝るのに使っていた椅子の背にかけ、おろしていた長い髪を手櫛で梳いてから、きつめに三つ編みをし、くるくると巻きこんでから、かんざしを挿す要領で、一本の太い棒でまとめた。
「手頃な棒があってよかったわ。 さて、では夜勤最後のラウンドと行きますか。」
私は一番重症となっている騎士様のもとに先ず向かった。
静かにゆっくりと、ベッドサイドに立つと、まずはお顔の色を見、手首の脈に触れる。
「脈拍確認は出来る。 血圧は80以上はある。 顔色……青白い、血の気がない。 焼いた何かで傷口を焼いて止血するまでにどれだけ出血したのかがわからないけれど……ここに来た時はショック状態だったと思う。 いまは……補充する物がなにもないから同じ状態で……全体に肌は乾燥し戻りが悪く、唇はカサカサ……。」
(きっと、一晩保ったこと自体が、奇跡的だわ。)
そっとかけてあるシーツをわずかに開けてみれば、包帯代わりの当て布と三角巾は、どす黒く、変色し、嫌なにおいがする。
「生臭い、血と、膿の匂いね……瘴気性の何かなのか……でも感染症の線はやっぱりあるわ。 清拭の時に皮膚と創部の確認をしなきゃ……。それから排尿は……。」
失礼して、と、下半身の方のシーツをずらす。
現れるのは鎧とトラウザースを取り除きむき出しにし、傷の部分に処置を、股間周囲にはおむつをした下半身だ。
この世界に紙おむつがない事は、子守のバイトで知っていた。
だから重症の騎士様達には、申し訳ないが、厚めに折った布を男性器に巻き付け、さらに大きい方にも対応するように、お尻の方にかけても別に大きく少し厚めに布をあて、その上から大きな三角に切った布をおむつカバー代わりにして固定してある。
(紙おむつがねぇ、衛生観念的にも欲しいんだけどなぁ。 通気性がよくて水を通さない紙とか、高分子吸収ポリマーって、それって一体どうやって作ればいいのかしらねぇ……。)
と、前世の紙おむつの仕組みを考えながら、カバーにしている布の結び目を解いて開き、男性器に巻いている布を開いて排尿があるかを確認する。
(巻いてある布は乾燥している……乾燥したにしても、尿の色もついてない。 という事は、出ていない可能性の方が高いか……。 夜間の排尿は布が湿った程度が1回だけで、肉眼的には血尿じゃなかったけれど濃い黄色だった。 日中、少しでも覚醒中に水分補給の回数を増やして、それに合わせて排尿があれば脱水、出なければ失血と感染による敗血症からの多臓器不全……でいいのかな……? いや、まったくわからない。 判断材料も、知識も乏しすぎて……。 仕方ない。 日が高くなって暖かくなり始めたら、清拭と傷口の洗浄をしながら、何とか水分を体内に入れましょう。)
己の知識不足、経験値不足を相変わらず嘆きながら、男性器に布を巻きなおし、三角の布でしっかり固定しなおした後、一度、置いていた手桶で素早く手を洗ってから、シーツをかけ、環境を整えて観察を終えると、先ほど手を洗った桶を手に取り、一度医療院を出て井戸に向かう。
現代では、『一処置一消毒(何かに触れたら即消毒みたいな意味!)』といって、何かをするたびに速乾性擦式消毒剤(例・アルコール手指消毒剤)での消毒か、石鹸+流水での洗浄が当たり前なのであるが、この世界にはまず速乾性の手指消毒剤がない、というか消毒剤がない。 そしてなんと、水道もない。 なので、最低限の譲歩として、一人の患者に一回分の桶の水と決めたのだ。
ただしこの桶の水、水道がないために一回一回井戸に汲みに行くか、外回りの人に変えてもらうしかない。
そして使用優先順位にも、頭・顔→体→下半身の順と決めてある。 下半身を触った手を洗った水は、廃棄、だ。 正直、体も嫌だが、その水を顔に使うなんてのはもってのほか! という事だ。
本当は一回一回変えたい! でも、労力がない!
(あ~、水道が欲しい。 溜め水で手を洗うとか、不衛生でしょうがない。 水道の原理ってどうなってるんだっけ? 魔道具でそう言ったものはないかしら? 一人終わったら外の井戸で桶の水を張りなおすのは、今も嫌だけど、長期的にこのままなんて絶対に嫌だし、もっと手軽な……あ、だから保健室には逆性石鹸水の盥があったのかっ! いや、30年後には感染源になるやつって認定されてたっけ!? 医学の進歩、怖い!)
と、ちょっと現実逃避的な、自分の幼い頃の思い出と、成人し看護師になってからの清潔・保清の進化を実感しつつ、外に出てしっかり手を洗いうがいをし、桶に水を張り直す。
治療院に入ったら、積んである清潔な手布を取り、次の騎士様のベッドに桶を置いてから、先ほど観察した騎士様の足元に昨夜のうちに設置した机の上の紙とペンを使って、今観察したこと、今日、日中にしなければならないことを、簡潔に箇条書きで書き込んでいく。
(体の汚染があるから連日になるけれど清拭はしたい。 陽が高くなり、温度管理が楽になったら始めましょう。 同時に傷の処置も。 それから水分補給と排尿確認ね。)
やるべきことを考えると、溜息が出てしまう。
(……今日も清拭で午前中はつぶれてしまうわね……二階の掃除と、人手や物品の相談に、神父様と教会のバザー運営の話……時間が足りないわ……)
本当は人手もない以上、夜明け前の今の時間からでも、お湯を沸かし始め、清拭を始めてしまえば、日中の時間配分が楽になるかもしれない。
ここが現代病院だったら、夜明け前から清拭なんて、朝早すぎる、安眠妨害だ! と怒られるだろうが、室温はエアコンで安定しているから、清拭なんか朝一で、夜中のうちに準備する清拭用の蒸しタオルを入れる機械と、汚染衣類や寝具を入れる専用カート、それから創処置に必要な道具が全部載った包交車をもって、楽々に進んでいけるだろう。
しかし現実的な問題として、室温管理が暖炉だけの上、空調がなく、換気を窓の開放で行うため、まだ夜明け前の時間では保温も難しく、そうすると体力を削いでしまうことになりかねない。なので日中まで待つしかないのだ。
(……観察が済んだら、朝ごはんをいただきながら、この時代で出来る公衆衛生をすり合わせないと……。 心のダメージが大きい……)
先程の排泄確認も、正直、使い捨ての手袋とマスクが欲しい。
男性器に直に触るのは、嫁入り後とはいえ(白い結婚だし)前世のあれやこれやを思い出した後なので色々と抵抗が……どうしてもある。
「ない物ねだりはしないつもりなんだけど、心が追い付かないなぁ……まだ、2つの人生の記憶で頭と心が混乱しているせいもあるわよね……絶対。」
混乱を口にし、溜息を吐きながら、ペンを置き、次のベッドに行こうとした時だった。
「……ル……シア……?」
今まで、意識がなかったはずの騎士様の目が、うっすらと開けているのが見え、私は静かに駆け寄った。
「気が、付かれましたか?」
焦点の合わない濁った瞳は、ただゆっくりと、宙を彷徨っている。
「……ルシア様は今はこちらにいらっしゃいませんが……どうかされましたか?」
そう聞けば、何度か口をパクパクと動かして、ようやく、絞り出したような声が聞こえた。
「あ……つい……喉、が。」
「わかりました。」
頷き、机の上に置いてあるコップに飲料用のハーブ水を注ぎ入れ、まず、ストロー代わりの藁筒を差して飲み水の用意をしてから、騎士様のお顔をゆっくりと横に向け、お顔の下に新しい手布を敷いた。
「お水です。 筒を咥えてゆっくりと吸い上げてみてください……。 吸えますか?」
藁筒の先をそっと唇につけて様子を見てみるが、藁筒の先を咥える様子は見えない。
「では、ゆっくりとお口に入れていきますね。 いらなくなりましたら、口を閉じてください。」
藁筒をコップから抜き、新しい綿花を入れて水分を含ませると、上になっている方の唇の端にそれを付け、ゆっくりと、綿花を絞る。
口の中に、唇に、細く流れ落ちる水分は、頬の下の布に吸い込まれて行ってしまっているが、何度か繰り返すうちに騎士様はそれに気づいたのだろう。
乾きひび割れた舌で少し舐め取ると、ゆっくりゆっくり飲み干した。
それを何度か続けると、やがて口を閉じられたため、先ほどまで使っていた綿花と、コップを、兵舎入り口に用意した、大きな木箱の『燃えるゴミ』箱と、『使用済み食器』箱に分けて入れる。
次の騎士様のもとに行く前に、もう一度、騎士様のお顔を見れば、辛そうながらも寝息を立てているため、私は少し安堵して、次のベッドへと移動した。
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