『ラスボラ視点』王都より嵐、襲来(後篇)
「何をしているんだ、ベラ! 団長に手をあげるなど不敬だぞ!」
左の頬に受けた衝撃と同時に、キンッと高くなる耳鳴り。 その音の奥に、わずかに聞こえるアミアの声に、何があったのかを理解はした。
いや、正しくは彼女の言動と行動で、何が起こるかは予期していた。
だから、女性とはいえ騎士である彼女の渾身の拳をまえにも吹き飛ぶという事はなかったが、やはり多少は足元がふらつき、2、3歩とよろめいた。
「大丈夫か、ラスボラ。」
そんな私を支えるために差し出されたアミアの伸ばした腕を咄嗟に払った私は、ジン……ッと遅れてやってきた右の頬の痛みと、口の端に感じたぬめりに左手を添えた。
「あ、あぁ、大丈夫だ。 すまない。」
「……いや。」
返事をするために口を開くと、張り付いた歯が動いたことで出来た傷口が大きく開いたのか、口の中いっぱいに鉄の味が広がり、おさまりきらなかった血液が、端からぼたぼたと床に落ちたため、胸のポケットに入っていた手布にそれを吐き出した。
予備動作や発言はあったものの、突然のことに少々面喰ったが、この程度の事で辺境の騎士団長たる私が冷静さを欠くことはあってはならない。
逆立つ心を押さえ、彼女を見た。
「……ベラ。」
名を呼んだ瞬間、鼻の奥まで鉄臭いにおいが広がり不快に眉が歪む。
止まらない血液が、ぼたぼたと、音を立てて床に落ちる。
慌てて手布を差し出したアミアからそれを受け取り、口の中に溜まった唾液交じりの血液をもう一度吐き出した私は、殴った当人であるベラを見る。
「上官に対し、感情のままに暴力をふるうのが王宮騎士か?」
その言葉に、片眉を上げ、ベラは口の端を上げた。
「上官?」
拳を振り切った体勢からすっと背筋を伸ばした彼女は、俺を見て涼しい顔をして、しかし嘲笑うように言った。
「あぁ、そう言えば上官だったわね? しかし申し訳ないけれど、先ほどの態度や発言から、私には目の前の男が、『遠い昔に心に大きく深い傷を負った、けれど無責任に甘やかすだけ甘やかし諫めることをしなかった駄目な大人達のお陰で、見てくれだけは立派に成長しただけの甘ちゃんの幼馴染』にしか見えなかったわ。 あ、ちなみに殴った理由はそんな些細なことからじゃないわよ。」
笑みを消した彼女は、鋭い視線を私に向けて来た。
「『政略という死の覚悟をもって嫁いできた貴族の令嬢の全てを否定し侮蔑した』からよ。」
「死の覚悟? 存在の否定……それに侮辱だと? たかが結婚にそんなものあるはずがないだろう。」
その言葉に笑った私に、ベラの冷たい目はさらに温度を下げた。
「呆れたわ。一辺境伯家の当主ともあろう男が、本当に、何も分かっていないのね。」
その時、扉が叩かれる音がした。
騒ぎを聞きつけた騎士たちが心配して声をかけてきたようだが、私やベラが声を出す前に、私たちの間に入ったアミアが『気にしなくてもいいから下がれ』と指示を出したようで、了承の言葉と共に、足音は遠ざかる。
「それで?」
「……それで、とは?」
言い訳なりなんなり、言いたいことでもあるなら聞いてやろうと思い、ベラへ声をかけるが、彼女は私を冷たい目で睨めつけたままだ。
「わざわざこんな事までして、お前は私に言いたいことがあるのだろう。」
ここまで言ってやらねばわからないとは察しが悪い。
呆れながらもそう言うと、彼女は銅貨色の目をさらに細めた。
「言いたいこと? 吃驚するわ。ここまで言ってなお、理解できないなんて。1を聞いて10を知る、ではないけれど、貴方は1から10まで、いいえ、それ以上に懇切丁寧に教えてもらわないと理解できないのね? 察しが悪いにもほどがあるわ。」
「なに?」
私が彼女に対して思った言葉を、彼女はそのまま返してきた。そのことに一歩、足を踏み出した私をアミアは制すように私の前に出ると、彼女を見た。
「ベラ……。」
首を振るアミアに、ベラは小さくため息をつく。
2人のそんな様子がひどく苛ついて、私は彼女に低く問う。
「それは、どういう意味だ。」
「どうこうなく言った言葉のままよ。 そうやって聞いてくるのが何よりの証拠だわ。」
呆れたように私に視線を向け、嘲笑を含んだ溜息を一つついた彼女はそのまま言葉をつなげた。
「察するというより、人の気持ち、貴族の常識、他人への気遣い。そんな当たり前のことがわからないなんて。貴方は本当に最低よ。爵位を持ち一騎士団の団長、いいえ、一人の人間としても最低だわ。」
「失礼なのはどちらだ。 幼馴染とはいえ、私は上官で、辺境伯だぞ。」
「……そう。 呆れたわ。 今、それを言うのね。……なら。」
冷たく、温度の無くなった目で、彼女は俺を睨みつけたあと、わずかに乱れた王宮近衛騎士の隊服の裾をピッとひいて整え、しっかりと真正面に立った。
「幼馴染として、そしてモルファ辺境伯家を支える同族の一角を担うシグリット子爵家当主として。本日は、愚かにも一門を窮地に立たせる可能性のある当主殿と、それに気が付いてなお黙って支えているだけの次席の家長へ、苦言として一度だけ懇切丁寧にご忠告もうしあげます。
本日、私がここに来たのは、貴方が一門の長として、あまりにも愚かな行動をしたことへの忠告のためです。
貴方はモルファ辺境伯家の当主。己の感情を優先し、自己満足と自己犠牲と見せかけたうぬぼれで見たいものを見たい角度でしか見ず、それだけの情報で物事を考え、周囲の苦言はすべて否定し、薄っぺらくてお美しい理想的で上っ面だけ綺麗な大義名分を受け入れて、誇り高き南方騎士団に混乱を招き、辺境伯騎士団とモルファ辺境伯領のために命を捧げてくれた騎士達を粗末に扱い、傷ついたものを足蹴にし続けた行為を、どうお思いなのですか。」
「その様なことは……」
「黙って聞きなさい!」
一方的に私を侮辱する彼女に反論しようとすると、ぎりっと銅貨色の目を鋭く向けてきた。
「その上、『王命とほぼ同義の婚姻』を家長から言い渡され嫁いできた令嬢に、その初夜のベッドで『白い結婚』を言い渡し遠ざけた? 貴方はその時点で、彼女がここに来た理由である政略結婚と、彼女の存在自体を一切拒絶、否定したことになる事はお気づきで? それはこの辺境の地に嫁いできた令嬢に対して『死ね』と言ったのと同義だわ。」
それには、私は首を振る。
「何故そのような大袈裟な話になるのだ。私にその様なつもりはない。」
「ではどのようなつもりだと? 公爵家と南方辺境伯家、ひいては国家と辺境を盤石にするための橋渡しに『嫁いできた』令嬢に、その必要はないと言ったのですよね?」
「それは、彼女の身を案じたからで。」
「本当に彼女の身を案じるのなら、彼女の立場がこの辺境の地で盤石なものになるように、貴方は辺境伯一門を呼んで披露宴をして彼女を女主人として迎え入れ、正しく初夜を行い夫婦になるべきだった。 そして王都に住まうテ・トーラ公爵閣下や、国王陛下へ、『次期辺境伯となる子を産みました。』と彼女とその子を知らしめるべきだったのよ。」
それには、流石に私は反論した。
「まて。お前が言うその行為は儀礼で義務的なものだ。 そこに彼女の意志はないではないか?」
「彼女の意志がない? そんなもの当たり前よ。貴族の結婚に本人の意思など関係ないわ。」
「では彼女を踏みにじろうとしているのはお前で……「政略結婚にそんなものは必要ないと言っているのよ。」」
私の言葉を待つことなく、彼女は強い口調で言い切った。
「彼女の意志も、そして貴方の意志もそこには関係ない。必要なのは公爵家と辺境伯家の血を引き、次期辺境伯となり王家に忠誠を誓う子供。王家にゆかりの深い3公爵家と、国防を担う3辺境伯家との血縁による結びつき。そのための政略結婚なのよ。好いた相手と結婚した私が言う事ではないけれど、所詮貴族の結婚などそんなものだわ。しかも陛下のお声がかかった『婚姻』など、それ以上に何の意味があるの?」
それには、私は黙るしかなかったが、しかしそれならば、とも思った。
「ではそれは解決する。 彼女に関しては、今、関係の再構築をしているところだ。」
「関係の再構築をしている? している、ねぇ……。貴方は本当に、何を言っているのかしら?」
ふっと鼻で笑ったベラは、にやりと口元をわずかに歪めた。
「初夜のベッドで10も年下の令嬢に一方的に白い結婚を叩きつけ出けた挙句、翌日には彼女主導で『魔法契約』を結び別居されたのでしょう? それでも夫人として辺境伯騎士団本部に視察に来た令嬢に対し、貴方は愚かにも傷病者と部下が複数人いる前で『愚かな女だ』と罵詈雑言を浴びせたそうね?」
「そ……」
私は一瞬、ベラから視線をそらしてしまった。
「それは……。」
「その行為だけでも十分最低なのに、そんな貴方を説き伏せ、辺境伯夫人として貴方が足蹴にしてきた騎士たちのため、そして領民のために身を粉にして働き、この南方辺境伯領の周辺貴族を通じて北方、西方辺境伯領、そして王都にも『才女』として名が広がり始めた頃に、『自分が惚れた』からという理由で身勝手に契約破棄を申し出る男なんか、私なら御免なのだけれど?」
「……!? どういうことだ。」
「あら? 知らないの? 惚れたという割に、本当に関心がないのね。
そういえば貴方、彼女が自分に好意を持っていると勘違いしていたのですって? これだけのことを彼女にしておきながら、どうして好意を持たれているなんて思えたの? 貴方は人目のある場所で自分に罵詈雑言を吐いた相手の事を好きだと思える? 夫として寄り添えるの? 本当に、自分勝手にもほどがあるわ。その上、貴方のそんな身勝手な申し出を令嬢がはっきりと拒否したのにも関わらず、しつこく追いかけまわすなんて、騎士の風上にも置けないわ。彼女に対する貴方の行い全てが、男として、人間として、最低なことをいい加減に理解なさい!」
「何故それを、誰から……?」
彼女の言葉に、私は心底、身の内から冷え込んでいく気がした。
僅かに横を見れば、私の斜め前に立つアミアもやや青ざめた顔をして、問う。
「ベラ、先ほど言っていたことは……。」
「……本当の事よ。」
ベラはアミアを見、肩を落とすように一つ息を吐くようにして答えた後、私の方を見た。
「ラスボラ。今貴方は、それを誰からと聞いたわね? そこが問題じゃないのだとわからない? ……いえ、そこも問題ね。誰から聞いたのか。それは貴方が全幅の信頼を置く、貴方を甘やかしたい放題甘やかして責任も取れない、貴方に心地よいだけのモルファ辺境伯家の使用人』達から聞かされたのよ。『奥様との間を取り持ってあげてほしい』と事細かにね。高位貴族の家に勤めているとは思えないくらい、彼らは口が軽すぎる。……それと……」
ふぅっとため息をついたベラは、下から睨み付けるように私を見ると、くしゃりと口元を歪めると、トン、と胸に人差し指を突き立てた。
「幼馴染として、そして、貴方には結婚の件で恩のある者として。一つ、正しく忠告するわ。南方辺境伯一門は貴方がそれを継いでから盤石ではなくなったの。なぜそうなったのか、これからどうするべきか。貴方は自分が被害者だと甘え切っていること、都合のいいくだらない妄想を捨てて、考えなさい。
いい? 一年のうち数日しかこちらに帰ってこない私が、本家の内情を短時間でここまで知り、直々に忠告に来るくらいには、南方辺境伯家は危ういのよ。 このままじゃフィデラ様が浮かばれないわ、しっかりなさい。」
最後は、低く重く、言い聞かせるような声でそう言った彼女のその言葉に、背筋に冷たいものが走った気がして口を閉ざした。
そんな私の様子を見た彼女は、静かに居住まいを正すと、隊服のポケットから綺麗な布を取り出した。
「我が一門の当主様には、大変お目汚し、失礼いたしました。一隊長、一分家の者である私が団長に進言したことに対し、お詫び申し上げます。失礼ながら、口元を汚してしまいましたので、こちらをお使いくださいませ。そちらは捨ててくださって結構です。お時間を取っていただきありがとうございました。私、これから騎士団内に新設されたという医療院の見学を申し込もうと思っておりますので、これで失礼いたします。」
彼女の言葉が脳内を駆け巡り私が返答も行動も出来ないでいると、隣にいたアミアにそれを押し付けた彼女は、騎士が上官に行うように、きっちりと腰を曲げ頭を下げた後、踵を返し、部屋を出ようとした。
「ベラ。 ……いや、シグリット隊長。」
その背中に、声をかけたのは私ではなく、アミアだった。
「はい?」
その言葉に、微笑みを浮かべた彼女が振り返る。
「医療班の見学と言ったか。 しかし今日は、医療院の隊長は……。」
それには、彼女は笑みを深めた。
「存じ上げております。医療院を預かっておられるネオン隊長は、本日は休暇を取られていらっしゃるとか。 こちらに滞在する期間も限られておりますので、明日以降の早いうちの面会と見学を補佐官を通してお願いしてみるつもりです。傷病者に対し、かなり画期的な治療方法を取り入れ始めたと聞き及んでおりますので是非お話を、と。」
そこまで言った彼女は、思い出したかのようにポンと手を叩いた。
「あぁ、それから。今回はカルヴァ侯爵夫人にご招待いただき、カルヴァ侯爵家の邸宅に滞在させていただく事になっております。 閣下にそう伝えてほしいと侯爵夫人からの伝言でした。」
「そうか……。幼い頃暮らした土地とはいえ、夜道を単騎で駆けるのはこの時期は勧めない。 夕方の鐘が鳴る頃に、馬車乗り場で待っていてくれ。」
「ありがたく存じます。 それでは。」
静かに部屋を出て行ったベラに対し何も言う事が出来ずただ見送り、パタン、と扉が閉まった。力が抜けソファに座り込んだ私は、自分の膝の上に力なく腕を下ろすと、そのまま項垂れるように頭を下げた。
静かに呼吸をする。
足元が揺らぐ感覚。
生まれて初めてそんな感覚に襲われたのだ。
「……団長。 こちらを。」
名を呼ぶ声に顔をあげれば、視界の隅に差し出された布。
今出て行ったベラのものだろう。
自分でも驚くほど力なく、のろのろとした手でそれを受け取った私は、彼女に言われた通り口の端を拭い、その布を強く握りしめると、もう一つ、息を吐いた。
そうして、静かに傍に立ったままこちらを見ているアミアを見る。
「……私は、どうすればいいのだ。」
「それは……ご自身で考えるべきことかと。」
そんな私の呟きに、彼は目を伏せ、静かに首を振った。




