98・リ・アクアウムへ(前篇)
★本日のお話は、小学生の男の子のお母さんのトラウマをつつきます(昆虫話)
苦手な方は、孤児院に入り院長先生が「ただ……」といったあたりから、10行くらい位飛ばしてくださいませ。
得ることはあったものの、美味しい菓子の味もしなかった茶会の翌日。
この日も騎士団から休日を貰っていた私は、休日だからとだらだら……することはなく、朝早くから外出のため侍女に支度を手伝ってもらっていた。
昨日の貴族淑女の完全武装とは全く異なり、今日は少し裕福な商家の娘が着るようなワンピースに身を包んだ私は、いつもは邪魔にならないようシニョンにしている長い髪を、ゆるめの三つ編みにして肩から前に流す。
用意された服に合わせペタンコの布製の靴を履いた後は、引き出しにしまってあった、旦那様にお借りしている『色変わり』の魔法具である眼鏡と耳飾りを取り出した。
魔法具をつけると、すぐにするすると頭の先から毛先にかけて色が変わっていくのだが、どうやら変化する色合いはランダムのようだ。今日は前世を思い出させるパキッとした漆黒に、瞳は淡い緑色に変化している。
「不思議な物ね。」
どういう仕組みなのかしら? と首をかしげながら姿見の前から離れた私は、外側と紐は硬めの革、内側は柔らかい綿の巾着を縫い付けてもらったポシェットの中に、銀貨と銅貨を入れた財布を入れると、肩から斜め掛けにかけ、その上から侍女に渡された薄手のショールを羽織り、部屋を出た。
今日はリ・アクアウムへ、お忍びでのお出かけだ。
しかしそれが本館の使用人にばれると、あれよあれよと旦那様が付いてくるように画策されてしまうため、今日の予定は絶対にばれないように大変な茶会の翌日に設定し、出かけるのも玄関から正門、ではなく裏玄関から使用人の使用する裏門から屋敷を出るのだ。
途中、厨房で焼き菓子をたくさん詰め込んだ大きめのバスケットをメイドから受け取ると、同じく商家の衣類を身に着けたデルモと共に、裏口から外に出た。
そこには、モリマ爺が乗る庭師たちが買い付けに使用する2頭立ての幌が付いた荷馬車がすでに待っていて、私はデルモに手を借り、後ろから乗り込んだ。
「隊ちょ……いえ、お嬢様、お待ちしておりました。」
そう声をかけてくれたのは、先に乗り込んでいた、騎士団がお休みで可愛らしい私服姿のアルジと、今日のお忍びをするに際し、デルモに護衛だけはどうしても! と言われてついてもらう事になった看護班隊員で一番腕っぷしが強く、そしてお休みだったレンペスだ。
「お休みなのにごめんなさいね。 今日はどうぞよろしくね、アルジ、レンペス。 それに、モリマもわがままを言ってごめんなさい。」
衣類が汚れないようにとアルジが用意してくれていた敷物とクッションの置かれた場所に座りながら、手綱を握るモリマに声をかけると、にっこり笑って頷いた。
「お任せくださいませ、嬢ちゃま。ただ、お屋敷の立派な馬車と比べるとこれは大変に揺れますんで、気を付けてくださいましよ。」
「荷馬車は昔よく乗っていたから平気よ。それではお願いね。」
「はい。では、参りましょうか。」
するとパチン、と、乾いた音を当てて手綱を引き、馬車を走らせたモリマに連れられて、私は久しぶりにリ・アクアウムへ向かった。
「では、午後の鐘が鳴る頃にお迎えに参ります。気を付けてお過ごしくださいよ。」
「えぇ、ありがとう、モリマも気を付けて行ってきて頂戴ね。」
リ・アクアウムの中央・噴水公園の端にある馬車の停留地につくと、アルジの手を借りて幌馬車を降りた私は、これから市場に向かうモリマにそう声をかけると、噴水公園のシンボルでもある噴水に近づき、大きな女神像を見上げた。
先月行われた鈴蘭祭の時には色とりどりの紐や花で飾られていた美しい女神は、今日はいつもの清楚な姿で微笑み、キラキラと澄んだ水が溢れる小さな水甕を傾けている。
足元の注がれる水を穏やかな表情で見つめているこの女神は、この世界の創造神の妻で、水と恵みを与えてくれるという言い伝えがある。
そして辺境伯領は、はるか昔に領内全ての水源が干上がってしまい、雑草の生えぬほど大地は乾いて多くの犠牲を出してしまったという過去があるそうだ。 そのため、こうして主要な街の広場には女神像を置き、豊かな水と豊穣とを願っているらしい。毎年行われる鈴蘭祭の起源もどうやら其処から来ていると、辺境伯家の資料の中で読んだのを思い出す。
絶えず水の中にその身を置くというのに、苔どころかくすみひとつない女神像を見ていると、本当に領民から愛されているのだなと感じる。
「お嬢様、そろそろ行きますか?」
「えぇ、そうね。ごめんなさい、久しぶりだからつい見入ってしまったわ。」
声をかけて来たアルジに私は振り返って微笑むと、彼女もにっこり笑ってから訪ねてくれた。
「お嬢様。このまま修道院へ向かわれますか? それとも、少しだけ、市場の見物に向かわれますか?」
市場の方からは、今日もいい匂いが漂い、威勢の良い声が飛んでいる。
(串焼き、美味しかったわよねぇ……。)
鈴蘭祭でアルジが買ってきてくれた串焼きの味を思い出し、そちらに気持ちが傾いたものの、ひとまず素敵な誘惑に首を振った。
「まず修道院へ行きましょう。鈴蘭祭以降来ていなかったから、医療院に孤児院、それから新設された学舎の方をしっかり見て回りたいの。その後、時間があるようなら市場に行ってもいいかしら?」
「かしこまりました。」
私の言葉に、菓子の籠を持ってくれるアルジとレンペス、デルモは笑って頷くと、私たちは人通りの多い公園から大通りに出、修道院へと向かった。
「まぁまぁ、お待ちしておりましたわ。」
先ぶれを出してあった為か、髪と瞳の色、身に着けている物の質が違っても、顔色一つ変えることなく私の事を笑顔で迎えてくださった教会責任者である神父様と、修道院と孤児院の責任者である院長先生に挨拶をすると、神父様とはここで分かれ、院長先生の案内で改築工事を終えた孤児院に向かう事になった。
実はこの教会は、リ・アクアウムのメインストリートともいえる大通りに面しているため、常に美しくあるようにと整えられている。 しかしそこに面していない孤児院・修道院は、与えられた運営資金の大半を預かる子供たちが惨めな思いをしないようにと衣食に重きを置き、さらに子供たちが元気いっぱいなため、住居である建物の内壁や外壁の塗装はところどころ剥がれ、子供たちのいたずらで大きくなった廊下や柱の小さな節穴や、柱のささくれ、大きな落書きなど、目立つ破損と汚れが多かった。
勿論、それらは老朽化のせいでもあるが、直しても直しても子供たちが壊したり汚したりする。そのこともあって、教会側も建物の補修は、雨漏りや隙間風などの必要な物以外、後回しにしていたのだ。 そこで、今回は全面的な補修・補強工事となったわけであるが、以前の見学で気になった点があり、それを改善するため大掛かりな改築も一緒に行ってもらった。
「さぁ、こちらが子供たちのお部屋になります。 ネオン様のご意見を取り入れた造りとなっておりますがいかがでしょうか?」
「まぁまぁ、これは、完璧です。」
院長先生が案内してくれた部屋に入った私は、手を合わせ、喜んだ。
「これが孤児院の子供の部屋、ですか? すごいな……俺も孤児院出身ですが、これは羨ましいです。」
後ろにいるアルジやデルモ、そして孤児院出身だというレンペスも、その造りにとても驚いている。
以前孤児院で気になったこと。 それは『大きな部屋で全員雑魚寝』という点だった。
騎士団の医療院のように、だだっぴろい部屋にたくさんのベッドが間仕切りなく雑然と並んでいるだけ。
孤児院の子供達に『私的な空間』がなかったのだ。
魔物の強襲の度、戦の度、孤児は増える。そんな子供を収容し衣食住を与えるだけの場所になっていた孤児院は、寝るときすら、男女も年齢も関係なく、常に一緒にいる状態だったのだ。ここに居れば孤独ではないし、腹は満たされ、隙間風や冷たい雨に晒されることなく安心して眠ることは出来る。
だがしかし、ふとした瞬間、彼らは1人になりたくても、そうすることが出来ない。 ベッドの上で頭から毛布をかぶって身を抱えても、一人になることは出来ないのだ。 常に人の視線と、気配に晒される環境。それは決して劣悪ではないかもしれないが、心が休まる事はない。
私は孤児ではなく、市井で家族と仲良く暮らしていたのだが、その家は本当に狭く、皆で同じ部屋で身を寄せ合って寝ていた。それは仕方がないことで、当たり前だとはわかっていても、時には一人になりたいときもあった。
親兄弟でもそうなのだから、急に親を亡くした子が、他人だらけの生活の場で、人目にさらされて暮らすのは辛いだろう。成長と共に訪れる葛藤や悲しみ、苦しみは、人がいて癒されることももちろんあるけれど、時には一人で涙し、心を整理する時間も必要だ。性格的に、引っ込み思案の子、人と話すことが苦手な子、静かな雰囲気を好む子などは、特にそういう傾向が強いだろう。
それに、男女混合で一部屋に収容するのが許されるのは幼子の間までだと思う。 年齢とともに体は成長し、男女の成長の上で性差も出てくる。 何らかの間違いがあれば、それは子供たちが不幸なだけだ。
そこで考えたのが、完全個室は無理でも、もう少しだけ子供の気持ちの配慮をする部屋割りの方法だ。
孤児院の増改築には問題があった。教会とそれに付属する修道院、孤児院、学舎、医療院は、辺境伯領で一番栄えている都市部であるリ・アクアウムの中心部に位置するため、その敷地周囲にはすでに古くから区画分けされて様々な建物が立っている。 そのため、新たに土地を広げ、建物を建てることは出来なかったのだ。
限られた土地で、広く使う方法を模索し、考えたのがこの部屋だ。
部屋の左右に二段ベッドを2つずつ(前世の押入れに近い形のものを作りつけ、足元には引き出しが2段、その上に小物や本を置けるスペースもある)を置き、各々のスペースにカーテンを付けるということ。これで1部屋に8人と共有部分は狭くはあるが個人空間を持たせられた。
「このように改築していただいて、皆とても喜んでおります。特に年長の子達には本当に好評で、ネオン様がお決めになった、人のカーテンは許可なく開けない、部屋の掃除は自分でやると言った約束もしっかり守っております。それに、最近では喧嘩も減り、聞き分けも良くなり、空気も穏やかになりました。 当初反対していた者達も、今はこれでよかったと感心しておりましたわ。」
「そう、本当に良かったわ。」
この改築には、子供たちに目が行き届かないのでは? という意見や批判もあったが、最終的には私に忖度する形で皆が了承てくれた。貴族という身分を利用した、私の一方的な押し付けをしてしまい反省もしたが、院長先生の話から、子供はもちろん、大人からもおおむね好評であると解って安堵した時だった。
「ただ……。」
院長先生は頬に手を当て、眉を下げて微笑まれた。
「本当にいいことだらけなのですが、つい先日、少し困ったことがあったのです。」
「まぁ、どうしたのですか?」
なにがあったのだろうかと心配になった私に、院長先生が話してくれたのはこんな話だった。
曰く。
部屋を貰ってすぐの事、一人の虫好きの子供が、宝物としてこっそり引き出しの中に昆虫の卵(カマキリを想像してもらえるといい)を仕舞い、そのままその存在を忘れてしまった、と。
その先はすぐに想像でき、私は溜息をついた。
「それは……本当に大変だったでしょうね……。」
「えぇ、えぇ。その子の部屋は、上を下への大騒ぎになりましたわ。」
忘れていた子供が引き出しを開けたところで、タンスの中で羽化した昆虫の幼体が一斉に逃げ出した。
それはもう、数え切れない数がわっさりと。
その話を聞いたアルジは小さく悲鳴をあげながら真っ青になり、レンペスとデルモは覚えがあるなぁと笑った。
もちろん、弟がいた私にも当然覚えのある話で、秋口に子供たちが拾ってくる木の実でも同じことになる可能性があるので、十分気を付けてくださいましね、と院長先生へ忠告しておいた。
部屋の見学が終わった私たちが次に向かったのは、廊下を歩き孤児院の突き当りにある、大きな鍵付きの扉を一つ隔てて増築された、学舎に向かった。
学舎と言っても、あるのは大きな部屋が2つと廊下、それに外部から集まる生徒たちが出入りする、通りに面した扉だけ。
読み書きや簡単な算術を学ぶための黒板のある教室の中には、今日は14、5人の子供たちが集まっていて、小さな黒板を使って予習をしている姿が見えた。
その隣には、細工物や刺繍を教えるための大きな机のある部屋があり、今は修道士様や修道女様に習いながら、様々な年の子供たち10人程度が、刺繍や繕い物をしていた。
どちらの部屋でも、お客様に興味を示しながらも、目の前の勉強や手仕事をやめる様子はない。
感心しながら見ていた私は、とある一角で目を留めた。
「あら、編み物も始めたのね?」
年長の子達に修道女が教えているのは、編み物のようだ。
「はい。最近こちらに赴任してきた修道女が、編み物を嗜んでいたようで、刺繍の苦手な子や針を持たせるには幼い子供たちに教えてくれているのです。奥様がお許しくださるようでしたら、次回のバザーに商品として出したいのですが、いかがでしょうか?」
こちらの品ですが、と院長先生から手渡されたのは、空気を含むように柔らかに編まれた、大判のショールと、2色の毛糸で正方形にモチーフ編みされた物をつなげたひざ掛けだった。
「まぁ、素敵な仕上がりだわ。編み目も綺麗に揃っているし、模様編みも本当に素敵よ。これなら商品として十分なレベルだわ。もちろん大賛成よ。」
私はその手触りにいたく感動してしまった。
実は私自身が(前世で)編み物が苦手だった。柔らかく編んでいるつもりでも編み目が固く、手袋が自立したときには、金輪際編み物はやめようと決心したほどだ。
「半年もすれば冬になるもの。今から売るにはちょうどいいわ。材料として毛糸もこちらに持ってきてもらえるように手配しておくわ。 色も、たった2色では物足りないわね、良い色を探してくるわ。」
「まぁ、ありがとうございます。」
「慈善事業の一環だもの。これくらい、当たり前よ。」
ショールを肩に巻きながら、その仕上がりを堪能した私は、前世のおもちゃを思い出した。
(そうだわ。これだけ編み物が上手なら、少し説明すれば『あみぐるみ』や手袋、耳付きの帽子も作れるかもしれないわね。庶民の子でも買えるようなものから、うんと上等な糸で貴族の子供たち向けの物も作ってもいいかもしれないわ。 一点物と聞けば、飛びつく親も多いもの。)
院長先生にショールを返しながら、後でその編み物上手の修道女にお願いしてみよう、と、該当者らしき女性を見ていると、1人、小さな子が、手に持っていた毛糸と編み針を机に置いて、とととっ……と、こちらに向かってきた。
私の前に出ようとするレンペスを制し、私は子供の視線に合わせ腰を落とすと、近くに寄ってきた子に微笑んだ。以前も私のそばに寄ってきてくれた、人懐っこい男の子だ。
「こんにちは。」
笑顔で挨拶をすると、にこっと笑ったそこの子は、不思議そうに首を傾げた。
「お姉ちゃんはお姫さまのおともだちなの?」
見知った顔の子の言う、『お姫様』とは辺境伯夫人である私の事を示しているのは知っているが、今日は髪の色が違うため、顔の形が変わらなくても別人に見えているのだろう。
ならばそのままでもいいと思い、そうよ、と笑って頭を撫でようとすると、その子はあれぇ? と、首をひねった。
「ちがう、お姫さまだ!」
「あら。」
頭を撫でる私を見、にっこりと嬉しそうにそう叫んだ子だが、何故バレたのかわからず、私はアルジの方を見た。
「どうしてそう思ったの?」
アルジが私の代わりに問うと、目の前の子はにっこりと笑って教えてくれた。
「僕たちに笑ってくれて、あったかいお手々で頭をなでてくれるお貴族さまは、お姫さまだけだからっ! お姫さま、大好き!」
そう言って笑ってくれた顔に、きゅうっと胸が熱くなりながら、さらに子供の頭を撫でた。
「ありがとう、そう言ってくれて嬉しいわ。」
そう言うと、机に座って刺繍をしていた子も、その手を止めてこちらに近づいてきた。
「僕もわかったよ! だって、お姫様が来た時は、うんと甘いお菓子の匂いもするもん、僕も好き!」
嬉しそうに破顔し、大きな声で答えてくれた小さな子の声に、別の子の声も重なった。
そんな幼い子の大きな声は廊下どころか学舎内に響き、作業に集中していた子はこちらを振り返り、隣の教室で予習をしていた子供たちが廊下に飛びだしてきた。
「本当だ、お姫様だ!」
「お姫様、こんにちは!」
「お姫様、今日はおやつもってきてくれた?」
「今日のお菓子はなぁに?」
「こら、皆、お行儀が悪いですよ?」
子供たちが一斉に声をあげるのを止める院長先生や修道士様達。
それを微笑ましく見ながら、立ち上がった私はアルジを見た。
「ねぇ、アルジ、こんなにも見た目が違うのに、バレてしまったわ。」
「お嬢様の優しさにみんな気が付いているのですよ。 お菓子が好き、というのと同じ意味かもしれませんが。」
「ふふ、そうね。じゃあ、教えてあげましょう?」
「はい!」
そんなやり取りをしながら、アルジとデルモが持っていた籠をずいっとみんなにわかりやすく前に出してくれたため、私は集まって来た子供たちにお礼と、説明する。
「みんな、いつも先生方の言う事を聞いて、お勉強もお仕事も頑張ってくれて本当にありがとう。お礼に、お菓子を持ってきたわ。私からみんなへ『ありがとう』の気持ちを込めて、今日は特別なお菓子なの。たくさん持ってきているから、おやつの時間にみんなで仲良く食べて頂戴ね。」
「はぁい!」
私の言葉に子供たちは歓声を上げると、おやつ、おやつ、と言いながら、子供たちを宥めに来た修道士様達の手を引いて、急いで自分たちがいた場所に戻っていく。
突然騒がしくなって、突然静かになった廊下で私たちは顔を見合わせくすくす笑いながら、勉強に、作業に、戻りながらも、机の下からこっそり手を振ってくれる子供達に手を振り返し、医療院の方へ向かった。




