日清戦争後 -03 台湾の独立
更新忘れてたーー
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1895年5月23日 台湾は独立を宣言した。国名は台湾民主国。その指導者唐 景崧はもともと清王朝の役人である。
すなわち清国人が台湾系住民を扇動して起こしたものである。
同月24日(翌日)
台湾政府はこの独立を各国語に翻訳。これを送付する。ここまでは史実通りだ。
だが、これにはすでに日本側のカウンターが仕込まれていた。それは清国に対して宣言したものである
内容を現代口語でいうと以下の通り
台湾割譲は平和的に割譲されるべきものだから、この独立宣言はその違反行為だよね。だからそれに伴う損害を賠償しなさい。本当は清国軍が鎮圧すべきことだけど、あんたらは役に立たないだろうから日本軍が鎮圧するからその軍費も払いなさい。
払うというまで講和条約で早急に撤兵すると定められた領域からの撤退はしないよ。払うといっても講和条約中の賠償金に上乗せされるから全額を払われるまで条約で定められた地域(威海衛) の占領は継続するよ。全占領領域の占領延長分の占領費用も上乗せするよ。
君たちが違反したのは講和条約であってその前段階で行われた休戦は維持されるから戦闘を吹っかけてきたら許さないよ。
後、清国の役人がこの独立宣言をしたのだからそっちに逃げたのであれば引き渡してね
えー見事に賠償金のお代わりルートです。ただでさえ三国干渉による遼東半島返還に対する賠償金増額もあるというのに…ま、自業自得であるが。
同時に新聞にはある社説が乗る。
『壊れた銃を売って怪我させたら誰が悪いか』
という表題だ。完全に今回の件に対して論評である。
この時、特にこの独立が清国によって故意に起こされた場合は明らかに悪質である。という表現も出る。
この宣言の返答期限は日本時間5月29日。近衛師団上陸予定日である。
5月27日 大陸から輸送されてきた近衛師団と本国からの兵站輸送船団(ここに田中が乗船)及び台湾総督樺山資紀の乗船する西京丸が合流した。ここから艦隊はこの船団に護衛の海軍艦はいない。既に海軍艦艇は全力をもって台湾の海域封鎖に打って出ている。一部の艦には出向からもどった海軍士官が主導して気球を空に揚げ、周囲の艦影を探す例もあるほどである。
噂を聞けば清国との交渉は話にならないらしい。日本は一つの選択肢を要求しているだけだ。いわゆる金払えだ。
水面下では列強への介入を要請しているようだが、積極的な介入はしてこない。指導者は清国の役人。清国に味方して介入した場合、場合によっては相当に不利になる。この反乱が清国政府の主導によって行われたものであれば非道は明らかに清国政府だ。条約を結んだそばから破るような人間は信用されないだろう。
ただし、日本も言い過ぎだ。この反乱行為が清国主動であるという証拠がそろっていない。いまだ疑いであるにもかかわらず内心では清国主導の反乱と考えていた。それはこの要求内容にも含まれている。
もしもこれが不可抗力の反乱であるならば清国は意図的に条約を反古にしたわけではないのだから。その行いに対して意図的に条約を反古にする日本の行いはやりすぎという感じだ。今回の場合、威海衛からの撤兵に関しての条件を厳しくする程度で十分だっただろう。
ただ、日本側が水面下で列強に話した内容では『担保に威海衛だけではもともと狭すぎるから懲罰的な意味合いにはならない。』というものであった。そもそも威海衛の占領自体がかなり日本側の譲歩によって占領地の減少を生んでいた。
だが、根本として清朝による台湾支配について列強は大きな不満を持っていた。清朝の統治では治安の維持すら不可能で、台湾を拠点として海賊行為すら発生していた。近代国家である点だけ見れば日本側に統治に関して一日の長があることは目に見えていた。このまま清に任せておくリスクと日本に任せるリスク。後者の方が低いと考えた。
そのような観点から列強は静観した。台湾が清朝首都である北京から離れていたことも大きい。遼東半島の『清朝の首都北京に近すぎる』という口実は台湾には適用できなかった。
さらに今後の中国分割において地理的に有利な日本を三国干渉という形で一叩き出来ただけ十分と考えた者もいたためだ。
だがそのような真っ黒な裏の有無にかかわらず、日本陸軍は台湾へ向かう。
台湾征討はある意味悲惨な戦場で、あの小さな島だけでも泥沼化して10年以上の非正規武力闘争が待っています。




