空腹の二人
鳴海は日本から出たことがなかった。卒業旅行を見越して、パスポートを取っていたのは幸運だったが、まさか初めての海外がこんな旅になるとは考えてもみなかった。
「鳴海、ウミだ」
ナポリタンがタコのように丸い窓に張りついた。彼はシートベルトができないので、触手を機内の壁にくっつかせて自由気ままに移動していた。
鳴海はナポリタンをひざの上に置いて外を眺めた。青い水面がきらきら光っている。季節を超えて夏に戻ってきたのだ。
機内が大きく揺れた。添乗員があと三十分ほどで着陸すると告げた。パイロットも添乗員もユウキの仕事仲間なのだろうが、鳴海がいかなる人間なのか聞きもしなかった。
やがて脱水機の中のように揺れながら、コナ国際空港の発着場に到着した。
窓から絵画のような空とコンクリートの地面が見えたが、鳴海はここが本当に海外なのか疑わしく思った。
ナポリタンを連れて家に帰り、大慌てでリュックに荷物をつめた。三時間ほど眠って、翌朝六時に家を出た。
ねぼけまなこの母親にどこに行くのかとたずねられたので「ハワイ」と答えると、彼女は冗談だと思ったのか「わたし、マカダミアンナッツはいらないわよ」と笑った。
外はカラっと晴れていた。整備士やスチュワーデスとすれ違うたびに、脇に汗をかいた。空港は信じがたいほど開放的で、案内板に英語がびっしりと書かれていた。
彼はようやく悟った。海外にいる。
「ハワイなのか」
「そうだぞ」とナポリタンが言った。
「オマエ、英語ダイジョウブなのか」
12月31日、ハワイの現地時刻は11時だった。
鳴海はへとへとだったが、太陽がまだ高い位置にあることに感動した。
彼らはユウキが予約していた送迎タクシーに乗った。成田空港で借りたワイファイルーターの電源を入れ、メッセージアプリを見る。
既読はついていなかった。鳴海は唇を軽くかんだ。
日本語のうまい運転手が「あれがカイルア湾です」と窓を指さした。エメラルドグリーンの海が白浜の彼方に広がっていた。
彼の知る海と違う色だった。
暗くてどんよりして、泳ぐのに適していない海が恋しく思えた。だがビーチ沿いのホテルに到着して車から降りると、波の音が聞こえた。
「旭いるぞ」とナポリタンが触手をのばした。
「モットモット高い場所」
彼らはチェックインを終えると、すぐに外に出た。ユウキにマウナケア山頂のサンセットツアーを予約してもらったのだ。予約は満杯だったそうだが、なんとか一名分とれたと今朝連絡があった。
バスの中はセレブな家族でいっぱいだった。景色はめまぐるしく変化した。溶岩の黒い大地を横目に、マウナケア山がのぞいた。
鳴海は途中で眠りにおちた。
夢をみた。青い鳥が地球を食べていた。
地球は鳥の腹のなかで破裂した。羽が銀河に粉雪のように散らばって、その粉雪はだんだんと粉チーズに変化した。鳴海は粉チーズはいらないと言って、ナポリタンを皿に盛った。
その皿を、だれかが受けとった。
16時、バスはオニヅカ・ビジター・センターに停まった。高山病防止のために休憩をはさむらしい。
寒かったのでセンターに入ろうと思ったが、ツアー客で混雑していたため、西の丘へ散策に向かった。ガイドからもらったコーンスープを飲みながら、ベンチコートのポケットに片手を突っこむ。雲が山の裾野でたなびいていた。
鳴海は夕暮れの気配の先に人影を発見した。乾いた山肌の上に座りこんでいた。
影はじっと空を見つめていた。星を待ちわびているのだった。
ざりざりと足音が鳴った。影はふりかえって、夢から覚めたような表情を浮かべた。
どうして、と唇が動いた。
鳴海はがばりと旭の首元に抱きついた。彼は驚いて身を引こうとしたが、すぐにおとなしくなった。空っぽの紙コップを握りつぶして、両手でしっかりと抱きしめる。
マウナケア山は寒かった。そして彼は確実に温かかった。生きているぬくもりだった。
「探しにきた」と鳴海は言った。
「年越すんのに、ひとりでいる必要ないだろ」
旭は呆然としていた。身体から力が抜けて、まるで人形のようだった。
「ぼく、幸福じゃない」耳元で枯れた声がした。
「ぼくが幸福でないと地球はなくなる」
「そんなのどうでもいいよ」
「どうでもよくない。決めた。ぼくは」
両手で彼の頬を包む。びくりと肩がはねて、黒い瞳が怯えの色を宿した。明るい空の下に宇宙があるようだった。
まだこの深い宇宙のなにもかもを知らないと、彼は心から思った。
「幸福になんかなるなよ」
鳴海は断言した。
「そんなもんならなくていい。それで消えちまう星なら、地球なんて滅ぶべきだ。そうだろ」
「それは違う」旭はかすかに声をうわずらせた。
「星は小さなことでなくなるもの。そのとおり。ならもっと小さな原因は消えるべきだ」
「だから自分からいなくなるのか」
ふたりは見つめあっていた。
「そう」と旭はうなずいた。髪の先が鳴海の指にふれた。
「いなくなること怖くない。ぼくにとっての青い鳥。静かにいなくなること」
旭はそっと鳴海の腕を押しやって立ちあがった。
「でも」
彼は笑った。
「君が来てくれてうれしい。もしかしたら幸せかもしれない」
鳴海は目を見開いた。
「ばいばい」
旭は丘の先へ、脱兎のごとく走りはじめた。鳴海は「ナポリタン!」と呼んだ。触手がしゅるしゅると伸びてきた。
旭は道なき道を一気に突きすすんでいく。触手がその足をつかんだ。鳴海は近くまで駆け寄り、つんのめった彼の襟首を捕らえた。
ふたり同時に尻もちをついた。
旭は触手を外そうと躍起になっていた。その胸倉を引き寄せて、
「幸福がなにかわからないなら、わからなくていいよ」と叫ぶ。
彼の動きが止めった。
「俺とアンタはまだ知り合ったばかりだろ。なんで勝手に止めようとするんだよ」
「でも」
旭の声は震えていた。
「ぼくが君にしてあげられること、これしかない」
「んなわけあるか!」
鳴海は絶叫した。
「あのなあ、青い鳥なんてそんなもん嘘だ」
「そんな」
「もしいたとしても俺が殺す。それでチキンスープにして旭に食わせる」
彼の肩に両手を置く。
「青い鳥なんてそんなもんなんだよ。でも腹が満たされるなら、それでいいだろ」
「よくない」
「いいんだよ。もっと欲しがっていいんだよ、旭は」
子供を抱きしめるように、旭の頭を胸に当てた。コートがごわごわしていたが、触れた耳の先は冷たかった。
くぐもった声が聞こえた。細い指先が鳴海のシャツにすがりついた。
ナポリタンはぺたぺたと這いずって、とんがった岩の先に登った。世界中をオレンジ色が照らしていた。
「太陽」
触手が空を示して左右に揺れた。
マウナロア山の頂点から太陽が墜落しようとしていた。
落ちる直前でひときわ輝くのは、星のさだめなのだろうかと鳴海は思った。地球の終わりもこれほど綺麗であればかまわないだろう。
ただ腕の中のぬくもりなしで、その光景を眺めたくはなかった。その一心が、彼を日本からこの場所まで運んだ。
「旭」
鳴海は腕をほどいた。顔をのぞきこむと、旭の両目の下に線ができていた。
「星をみて、そんでステーキでも食って、明日はじっくり観光しようぜ。リストの一番下、あっただろ」
人さし指を立てて提案すると、旭は微笑んだ。
「友達と旅行」
佐々木鳴海は優れた料理人だった。しかし秀才の宿命として、やや想像力に乏しかった。
だから旭が「ナポリタンはナポリタンに似ている」と言って、大皿に盛られたオレンジ色の麺にフォークを絡めても、それはそうだろうなとしか思わなかった。
『MANJYOKU』は閉店していた。
2月28日、午後11時45分。あと15分で日付が変わる。
彼らは鳴海の部屋にいた。カーテンは開けてあった。カーテンレールにかかったスーツは避けられていたので、真っ暗な東の空が見えた。
「ナポリタンは食堂のナポリタンよりも、君が作るナポリタンに似ている」
旭はそう説明した。
「ウィンナーじゃなくてベーコンってことか」
「そう」
彼はしらっと言いながら一口食べた。
「おいしい」
「そりゃあどうも」
布団にあぐらをかいて外を眺める。星などは到底見えそうになかった。
――もしあと5分でこの空が輝かしく光ったら、旭に言うべきことを言おう。
そう思うと、残りの5分が待ちどおしく思えた。
「春の大三角形」と旭が話しかけた。
「三月、春の大三角形を観測したい」
鳴海は目をぱちくりさせた。旭はフォークでナポリタンをすくった。
「うしかい座アルファ星、オレンジ色の星アークトゥルス。ナポリタンに似ている」
「オレンジ色の星なんてあんのか」
「赤色巨星。でも見た目はオレンジ」
もう一匹のナポリタンが、音もなく窓にはりついた。
「おい鳴海」
「なんだよ」
触手が楽しげに揺れた。青い鳥が死んだぞ。そう言って窓から離れる。
外はつまらないくらい暗くて、星なんて一個も見えなかった。
だから鳴海はどこかガッカリして、やはりマンションの屋上で天体観測をするべきだと考えた。旭がうれしそうに笑った。




