青い鳥は家にいる
青山旭は電話を切り、本を机に置いて立ちあがった。本の山は、なだれ落ちる寸前で踏みとどまっていた。
彼は書籍に飽きていた。幸福になる方法を教える本、幸福とはなにかを宗教的もしくは倫理的に考察する本、幸福はこうであると断定する本。どれも似たりよったりだ。
なにかを求めなければいけない。
そう旭は考えていた。ユウキや鳴海が提案する作戦にも一理ある。だが肝心の彼自身は、その概念の正体をつかめないままだった。
思考に沈みながら寝室のクローゼットを開ける。中にはごくわずかな物しか入っていない。先日鳴海に見立ててもらった服を着て、財布と携帯を持って廊下に出る。
ナポリタンが出迎えに来てくれた。
「行ってきます」
「イッテラッシャイ」と触手が揺れた。旭はかすかに笑った。
――欲望の充足という観点からみると旭は幸福であるはずだ。
エレベーターの到着を待ちながら、ユウキの言葉を反復する。旭はこの言葉に同意も反対もできなかった。なぜなら幸福を知らなかった。
無言で扉が開く。狭い箱が落ちていく。彼は、今年の春を思いだした。
地球のタイムリミットが告げられたのは、ごく平凡な一日の朝だった。
旭は驚きも嘆きもしないで「そうなんだ」と言った。するとエイリアンは「そうなんだとはナンだ」と動揺した。
エイリアンに名前はなかった。その生命体と旭が同化していたからだ。
内臓が無意識下で動くように、エイリアンがもう一人の自分のごとく存在するのは、彼にとって当たり前のことだった。
それゆえに星の終焉も当然の現象だった。
事故で死ぬか、病で死ぬか、寿命をまっとうするか。その違いとは、原因が外部にあるか内部にあるかにすぎない。
そして事故も病も宇宙人の侵略も、結局は内部的原因に帰結する。それこそが真実だった。
彼はその真実を愛していた。
マンションを出て、うららかな日差しが射す駅前を通りすぎる。15時、空が真っ白な雲でおおわれている。今日は星が見えないだろうとひそかに思う。
人通りのまばらな住宅街を行き、神社の鳥居をくぐる。
旭は2カ月前の出来事を思いだした。
夏の夜空を観察していた。鳴海には言わなかったが土星は肉眼でもみられる。
――南の空の低位置、さそり座の一等星アンタレスのそば、いて座の上、クリーム色の星。
首を直角にのばして土星を探した。木々の葉で見えないだろうと思っていた。
鳴海に謝罪した日、ナポリタンが「いつもとシュコウを変えたらどうだ」と外に誘った。屋上のほうがはるかに空に近いが、たまにはいいかと思った。
空から遠く離れていた。見えないと思っていた星は樹の頂点に止まっていた。紺碧にとけかけた鳥のようだった。足音がした。鳴海は不機嫌そうな顔で頭をかいていた。
小学生6年生のとき、佐々木鳴海はクラスメイトだった。
実のところ小学1年生と4年生のときも同じクラスで、小学3年生のときには両親と彼のレストランで食事をした。
だが特別に意識するようになったのは6年生の時だった。
鳴海は休み時間にドッヂボールをしていた。学校全体で流行っていたから、彼が特別ドッヂボールを好きだったわけではない。
活発で明るく、スポーツが得意な男の子だった。たいていの優秀な者がそうであるように、おおよその人物から好かれていた。
2007年6月27日水曜日、3時間目は体育の時間だった。梅雨晴れの日、6年3組はドッヂボールの授業をした。
一部の者を除いてみんなが大喜びだった。旭は一部の者だった。
彼は最初から外野にまわされて棒立ちしていた。外野を担当する男子ふたりが役目を果たしていたので、なにもしなくてよかった。
体力を育てるために一律に動く必要があるのなら、ドッヂボールは不適格な授業内容だ。そんなふうに考えていると「おい」と声がかけられた。
敵チームの内野にいた児童が仁王立ちして「ボール」と言った。下をみると内野と外野を隔てる白線ぎりぎりにオレンジ色のボールが落ちていた。
「ひろえよ」
彼はとんがった声で言った。旭は少年を見つめた。気の強そうな目だった。
「突っ立っててもおもしろくねえだろ。ほら、ひろえって」
「鳴海、さっさとひろえよ」と文句を言われても、少年は頑として動かなかった。
旭は慌ててボールをひろって投げた。彼は平然と受けとめた。
そしてぶすっとした顔で「手元をねらうと取られるからな」と言い、前線へ走ってしまった。その時間、彼は最後まで楽しそうに試合に参加していた。
2か月後、彼はドッヂボールをしなくなった。休み時間になっても外に出ず、算数のドリルや漢字練習帳と向き合っていた。
旭はときどき、その姿を盗み見た。彼は手持ちぶさたになると窓の外を眺めていた。退屈さも悲しみも怒りも、その表情にはなかった。
22才の青山旭は、早足で境内をぬける。
電話ごしに聞く声は弱々しかった。旭はドッチボールをやめてしまった少年の顔を思いだすと、居ても立ってもいられなかった。
なにかがおかしくなっていた。エイリアンの暗号を受信した宇宙飛行士の気持ちとは、こんな感じなのだろうと思った。
――地球がなくなっても困らない。でも彼はどうだろう。
変なことを考えていた。旭はもうやめようと思った。
これまで一度も実行できた試しがないが、考えていると余計なことに気付きそうだった。
近所の駅から一駅先のこの地区は、比較的古い家と畑が点在している。鳥の鳴き声をかき消すのは荷物を積んだトラックだ。
旭はトラックを避けてアパートの塀沿いを歩いた。向かいから歩いてくる女性は畑のそばを歩いていた。畑は荒れ放題だったが一応なにかが植わっているようだった。
垢抜けた服装の彼女は、この空間から浮いていた。旭に気づくと目を見開いて凝視した。
目があった。彼女はいったん視線を落としたが、もう一度旭を見ると、意を決したように道路を渡った。
「あの」
旭は立ちどまった。知らない女性だった。
「もしかして、青山旭くん?」
「そう」
「あ、えっと。わたし和田理央です。同じ大学なんだけど」
彼女はためらいがちに「その、佐々木鳴海の彼女で」と言った。
そこで旭はすべてを認識した。彼女は鳴海の家から帰る途中なのではと直感する。
「知ってる」彼はうなずいた。
「とてもお世話になっている」と頭をさげる。
「あ、こちらこそ。わたしも鳴海から話は聞いていて。それで」
言葉が止まった。混乱と不安が瞳をぐちゃぐちゃにする瞬間を旭は目撃した。
「もしかしていまから鳴海のとこ行くの?」
旭は首を縦にふった。彼女の顔が固まった。
「けっこう頻繁に行ってるの?」
「いや」
「いや?」
「はじめて」
理央は動揺の色を隠せないまま「そうなんだ」とつぶやいた。
ふたりは黙って向かいあった。
旭は会話が終了したのか否か判断ができなかったので、彼女を観察した。小柄だが、なんらかの分野での優越を感じさせる隠れた強靭さがあった。茶色い髪の毛が肩ではねていて、大きな目がせわしなく動いている。
彼女は「そうか」とつぶやいた。思いつめた表情だった。
「あの、あなたは鳴海の友達ですよね」
旭はワンテンポ遅れて「うん」と言った。友達という言葉が、ほんの少し引っかかった。
「本当にただの友達?」
彼女は旭を穴のあくほど見つめた。
「ともだち」
口のなかで単語を噛みしめる。
鳴海が「友達の家」と言った瞬間に息が詰まった。電話を切ってから、この瞬間にいたるまで、静かな混乱が突き動かしていた。
すぐに彼のもとへ行かなければいけない。それだけが、たしかな思いだった。
「わからない」
雨の気配を感じた。風が冷たく感じられ、カーディガンのポケットに手を入れた。
彼女は数回深呼吸をした。
「おねがいします」声は掠れていた。
「鳴海のこと、とらないでほしい」
旭はその発言を理解できなかった。
「ようやく時間ができたんです。就活で忙しくて、あんまり会えなくて、それでやっと普通にデートとか旅行とか行けると思ってたんです。わたし、わたしが悪いのかもしれないけど」
彼女の目からぽろっと涙がこぼれた。旭はぎょっとした。
「ぼく、鳴海くんをとってない。泣かないで」
「わたしを追いだしてあなたを家に呼んだんです」
理央は赤い目でにらみつけた。
「それを分かっていて、とってないとは言えない」
「でも、君は彼女。ぼくは違う」
「ええ、その通りです。だからもう鳴海にかまわないで」
理央は両手を握りしめて、コンクリートを強く踏みしめた。
「悪いんですけれど聞きました。あなたは就活も終えないでフラフラしているんですよね。人にかまけているひま、ないですよね」
彼女は胸に手を当てた。
「わたしたちはずっと頑張ってきて、それでようやく時間を作ったんです。それをなんにも頑張っていない人が横から奪わないでくれますか」
一息に言いきり、それから彼女は愕然とした表情で口元をおさえた。
「ごめんなさい」と小さく謝る。
「でもお願いします。鳴海をとらないでください。本当に、本当に好きなんです」
旭はぼんやりとしていた。彼女から染みだす悲しみの気配に圧倒されていた。それは冷たい湖の奥底のようだった。
「ごめんね」
彼女は顔をあげた。旭はもう一度「ごめんね」と言った。
「とるつもりなかった。でも君は悲しい。鳴海くんも悲しい」
ずっと昔の記憶がよみがえった。
それは両親の後ろ姿だった。見えないものを見る旭を、彼らは持てあました。元来、親として子を愛す種類の人間でもなかった。息子に見切りをつけたのは中学1年生の春だった。
ごめんね。最後に彼らは謝った。
以来、一度も会っていない。お金がいっぱいあって良かったと旭は考えた。金銭的に裕福であるために、彼らは大きな罪悪感を抱かずに自分を隔離できるらしかった。
動物園で飼われる変わった動物のように、少しずつ生命を終える。そんな想像をしても特段なにも思わなかった。ナポリタンがいて、自分がいて、それだけだったからだ。人生とはそれ以上にもそれ以下にもなりえなかった。動物園で産まれて死ぬ動物が、それ以上もそれ以下も知らないように。
そのはずだった。
旭は考えないようにしていた事実に目をむけた。そしてひとりうなずいた。
「解決策。相対的に発見した」
「え?」
「青い鳥は家にいる。君から鳴海くんをとらない」
旭はぎこちなくつづけた。
「泣かないで。答えを発見したから。だいじょうぶ」
あっけにとられる理央を置いて歩きはじめる。
一歩ずつ足を踏みだすたびに、彼は決意をかためた。心臓が素早く収縮する。
携帯に送信されてきた地図と照らしあわせて、鳴海の家がある通りに入る。旭は何度も何度も頭の中でシミュレーションを行った。
緊張しているのだと気づく。なぜ緊張しているのだろうと考えて、彼は少しだけ顔をゆがませた。
それは想像上の彼が必ずうれしそうにするからだ。笑顔をうかべて「よかったなあ」と言う。必ず、絶対に。
良いことのはずだ。自分でも彼を喜ばせられる。それだけで満足するべきだ。
古びた店の屋根を見上げる。
――現在の自分の境遇に十分な安らぎをや精神的な充足感を覚え、あえてそれ以上を望もうとする気持を抱くこともなく、現状が持続してほしいと思うこと。
「幸せ」
彼の口元が弧を描いた。
「僕は幸せだ」
もう十分すぎるほどに、そうつぶやく。
電話をかける。彼はすぐに家から出てきた。優しくて甘いにおいがした。笑顔をうかべていた。
店舗の内装は、以前訪れたときの様子とさして変わりなかった。汚れた壁と床、そこはかとない歴史の匂い、てきぱきと動く彼の背丈だけが変わった。
「なあ旭、ホットケーキ食うだろ」
答えを待たず、二段重ねのホットケーキが運ばれてくる。彼はケーキをさっさと切りわけ、「食わねえの」とたずねた。視線だけがあの時と変わらない。
彼は大人になった。立派な青年はボールをひろわない旭を見ていた。
「鳴海くん」
そっと口を開く。鳴海の表情が神妙なものになった。
「報告」
「なんだよ」
「ぼくは幸福になった」
鳴海は呆気にとられた。旭は微笑んだ。
ボールを投げかえせたのだ。




