君の心知らずして
10月、内定式も終わった。大学4年生は涼しい風のなかに学生時代が終わる足音を聞いていた。自由時間を満喫しながら、だれもがこの休息期間の意味を考えていた。
鳴海は店の外をぼんやりと眺めていた。
入口が全面ガラス張りになっており、通りを行く人が見えた。今日は朝方から雨が降っていて冷涼な日だった。
ソファに腰をしずめた理央は、ストールをひざに乗せ、しきりに指先をこすっていた。
「寒いよな」と話しかけると、彼女は当然のことを言うなとばかりに冷たい目をした。
肩をすぼめて視線をそらす。
次は旭となにをするべきだろう。そんなことを考える。
例のリストは上から半分が埋まった。
旭が幸福に近づいているのか鳴海には判断がつかなかったが、ナポリタンが方針に文句を言わないので、この方法を継続するつもりでいた。
頬杖をついて考えこむ。次の項目は、これまでどおりにいかない。鳴海以外の他者の協力が必要不可欠だ。気が向かないが、あの方法をとるしかない。
「なに考えてるの」
とがった声が彼の意識を引きもどした。理央の目つきに嫌な予感がした。姉たちが弟の落ち度を探す目と同じだ。
「いや、就職のことを考えてた」と苦笑いを浮かべてみせる。
本当ではないが嘘でもない。先週の金曜日に研修があったため、就職先に形のない不安を募らせているのは事実だ。
理央は両手を組んで「不安だよね」と言った。心のこもっていない声だった。
「あのね、鳴海」
「うん、なに」
もったいぶった間が空いた。彼女は目をふせて爪先をいじっている。急かしたい気持ちをぐっとこらえて、気まずい空気に耐えた。
多いに時間をとってから、彼女は話しだした。店員が鳴海のホットカフェラテと理央のケーキセットを運んだ直後だった。
「みおちゃんから聞いたんだけどさ」と裁判官のように神妙に告げる。
「合コン行った?」
鳴海はカップにかけた指先を停止させた。「行った」と慎重にうなずく。理央の目じりが吊り上がった。
「どうしてわたしに黙ってたの?」
「言ったら傷つくんじゃないかと思って」
「黙って行かれたら、もっと傷つくよ。やましいことがあるんじゃないかって思う」
「そうだよな」
「そうだよな、じゃないよね」
「うん。ごめん。俺の言いわけ、聞いてくれるか」
彼女は口を閉じた。まるきり聞くつもりがないと承知していたが、
「友達に彼女を作ってあげたかったんだ。うまくいかなかったけど」と話す。
彼女はラズベリーにフォークを突きさした。憎くてしかたのない相手の眼球に刺すように、すみっこを削って、次の一撃で中心をつらぬく。液だれする果実を口に放りこむ。
「それって青山旭くんって子?」鳴海はうろたえた。理央の視線はアイスピックのようだった。
「その子と一緒にいたって聞いたけど」
「ああ、まあ、そう」
「変わった子なんでしょ」
「そうかな」
「めずらしいね。鳴海がそういう子と仲良くするの」
「どういう意味?」
「だって鳴海、人脈として機能しそうな子にしか近づかないでしょ。時間の無駄とか言って」
カフェラテをすする。カップをソーサーに下ろすと不愉快な音がした。
「ごめん、なにも言わないで」われながら心のこもっていない言葉だと鳴海は思った。
理央は鼻を鳴らした。
「べつにいいけど。合コンくらい、大学生だしさ。でも今度からはちゃんと言って」
「わかった。次はちゃんと言うな」
決意表明をしてから間違いに気づく。理央は般若のような顔をしていた。
「いや、もう行かないようにする」と縮こまる。
彼女はムッとしていたが、それ以上は追及しなかった。
鳴海は胸をなでおろした。最近の彼女の不満は察知している。旭との作戦に時間を割いているため、あまり会えていないのだ。ゼミ以外にも二週間に一回、デートを設けているのだが、それでも不服のようで「就活終わったのに鳴海はいそがしいよね」との嫌味も数回言われた。
地球を救うために奔走しているのだ。なんて馬鹿げたことを話すわけにもいかない。
ため息をのみこんで、冷めかかったカフェラテを飲む。
その日の夜、鳴海は旭の家を訪れた。すっかり見慣れた玄関のチャイムを押してから、張り紙に気づく。ぺらぺらと風にたなびき、セロテープが今にもはがれそうだ。
『八時帰宅。鍵あいてる』。
「はあ?」
すっとんきょうな声をあげて扉を引くと、開いた。恐れいりながら入室する。電気も点けっぱなしだった。
寒々しい廊下をナポリタンが這ってきた。
「鳴海である」
あいさつ代わりに触手が上がった。
「なんでアイツ鍵を開けたまま出かけるんだ。バカじゃないのか」
「旭はバカじゃないぞ。第一、我がいる。留守番」
「ナポリタンがいても意味がないだろ」
「我を見ればビックリ。帰る」鳴海は上着を脱ぎながら首をかしげた。
「見えるやつは限られてるだろ」
すると触手の揺れが止まった。さきほどより激しく動きながら「ソウだな」と言う。
「……待て、嘘か?」リビングへ戻ろうとするナポリタンをわしづかみにする。
「え、アンタ、姿を見せることもできるのか?」
観念したのか「まあ、ソウだな」とごにょごにょ言う。心なしか触手がうなだれている。
「俺に見えているのは」
「我が見せているからだな」
「なんで嘘ついてたんだよ」
「むう、ソレはだな」ナポリタンは人間が言いよどむときのように触手をこねくりまわした。
「そのホウが都合がよかったからだな」
「俺に協力させるためにってことか」
「ソノとおりだ」
リビングへ行く。旭がいない部屋は落ちつかなかった。彼は動揺を隠すように手を口もとに当てて、チェアに座った。
「どうして」
「むう?」
「どうして、よりにもよって俺に協力を求めたんだ」
「旭がソウしたいのかと思ったのだ」
ナポリタンは開き直ったのか、チェアによじのぼって、二本の触手を前脚のようにテーブルに投げだした。
「旭は鳴海を気にかけていた。協力させる、オマエが適格」
あの日、旭が謝罪に来た際の言葉を思いだす。知り合いがいると安心する。たしかにそう言っていた。なぜ旭は、ただの知り合いをそれほど気にかけたのだろう。
「オマエがよくわかっているはず」
「俺が?」
宙を見上げて考える。白熱灯が虹色の光をまとってにじむ。体のどこかでぱちんとシャボン玉が弾けた。
ナポリタンは触手の先っぽを持ちあげて「鳴海がヨイと我も思った」と言った。
「オマエ、旭の心が分かるはず」
玄関から音がした。
鳴海が振り返ると、玄関にあらわれた旭は目を丸くした。そして珍しいことに慌てながら革靴をぬぎ、駆けよってきた。
「なぜ泣いてる」
「……泣いてねえよ。てか、なんでスーツ着てんの」
「面接」
「は?」
「就職、面接に行った。ナポリタン、鳴海くんになにかしたの」
「我、悪くないぞ。鳴海はカンキワマッテいるのだ」
ナポリタンを引っつかみ腕の中で締めあげる。「ほげえ」とタイヤがひしゃげるような声をあげた。太い息をついて旭を見る。意外とスーツが似合う。
「どうして急に就活なんてはじめたんだ」
彼は困惑していたが「幸福を志向すること、将来を志向すること、関連性があるのかと考えて」と言った。
「おじさんに相談。ヘンジンでも採用される職業」
「そっか」鳴海はうなずいて鼻をすすった。
「いいと思う。旭なりにいろいろとやってるんだな。偉い」
「ありがとう」
気まずい空気が流れた。鳴海はハッとした。旭が人の考えを読めるのか否か分からないことを思い出したのだ。頭の中身を空にしようと試みる。しかし考えないことは、考えることよりもはるかに難しかった。
旭はビジネスバッグをぎこちなく床に置き、いつもの席についた。顔色を伺われていると気づき「大丈夫だから」と苦笑する。すると彼は心配そうに小首をかしげた。
「それよりも明日のことなんだが」
調子を取り戻そうと明るくふるまう。
「うん」
「このあいだ言ってたやつ、やりに行かないか」
旭は硬直した。
「もしかして、あれ」
「あれだ。面接が行けたんだから大丈夫だ」
「面接とは違う」
「一緒だって。そうだな、装備を整えたいな」鼻先をこすって、ぽんと拍手をうつ。
「明日一時までバイトだからさ、それくらいにうちの店来いよ」
旭は嫌そうな顔をしていたが、やがて「わかった」と諦めた。
「大失敗」
旭は腕をくんだ。
「大失敗だ」
「二回も言わなくても理解してるって」
鳴海は深いため息をついて手すりにもたれ、ロータリーに停まる車を見下ろした。
翌日、20時。彼らは繁華街の広場にいた。背後でストリートミュージシャンがギターをかきならしており、ナポリタンは観客と一緒に触手を揺らして踊っている。
「いけると思ったんだが」
ブルゾンのポケットに両手を突っこんで盛大なため息をつく。
「無料でご飯が食べられる場所。女の子には得。でもそれ以上でもそれ以下でもない」
「まあ、そうだよなあ。俺が女子だったら夕飯はあそこですませる」
あらためて今日の作戦について考える。本日こなすべきリストの項目はナンパだった。しかし彼自身、ナンパをしたことがない。同級生の武勇伝を聞きこそすれ、あまりにも無謀な行いだと考えていたのだ。
そこで相席居酒屋の存在を思いだした。結果は大失敗だった。1回目は夜の仕事に従事する女性たちと相席になり、逆に次の店に連れていかれそうになった。次に相席した女子ふたりは同年代で会話も弾んだが、場所を移さないかとさりげなく誘うとやんわり断られた。鳴海のプライドは多少傷ついていた。
「勉強になった」と旭が言った。なぐさめられていると気づき、余計に落ちこむ。
「こんど鳴海くんだけで行く。そしたら上手くいく」
「ひとりで行けるかあんなとこ。それに彼女がいるんだから、もう行かないよ」
「……彼女怒らない?」
「ん?」
「女の子と会う。鳴海くんの彼女はあまりうれしくない」
「まあ、だろうな。ばれたらまずい」
旭は真剣な表情を浮かべた。
「こういう計画は、ぼくひとりでやるべき?」
「それこそ無茶だろ。いいよ、ばれなきゃいいんだ。浮気をしているわけでもないし。たしかに理央には悪いけど、旭のほうが圧倒的に優先順位が高いんだから、しかたないだろ」
鳴海は自分の言葉で励まされた。
「だから、幸せになるまで俺のことは気にすんな」
旭はふっと遠くを見た。ビルが四方を囲んでいるために、夜空はくすんだ鉄板のように見えた。ショーウィンドウの灯りが彼の顔を照らしていた。
鳴海は明るい確信を得ていた。居酒屋へ行くまえに、旭に似合う服を見立てたのだ。普段着ている五百四十円の服よりも垢ぬけた服装だ。育ちが良いから小ぎれいな恰好が合うと思っていた。
ひとつの作品を眺めるように旭を見つめる。
彼は自分を幸福だと思うようになる。それにふさわしいだけの人間味がある。もし幸福になれないのだとすれば、自分の作戦に不備がある。だからこそ、これからも真剣に向き合わなくてはならない。そう鳴海は思った。
「あのさ、旭」
声をかけると、旭はゆっくり振り返った。
「ユウキさんも言ってたけど。青い鳥はやっぱり家にいるとして」
「青い鳥、うん」
「やっぱり今必要なのは、いろんな経験だと思うよ。自分が幸福だなあって思えるくらいの経験だ」
「うん」
「でも経験ってそんなに早く積めるものじゃないだろ。それは俺もわかってるし、べつに焦らなくていいよ。まだ時間はあるから」
「でも君には時間がない」
鳴海は目をぱちくりさせた。旭は困惑気味に「彼女、友達、もっと遊びたいはず」と続けた。
「ああ」
なるほど、と心のなかで納得する。
「べつにいいよ、そんなの」
「でも」
「俺がいいって言ってんだから、いいの」
人の流れに乗って歩きだす。旭はまだ不安げだった。彼の肩に手をまわす。
「なあカラオケして帰ろうぜ」
「え」と旭が声をあげ、それから複雑そうな顔でうなずいた。
「かまわない。でもリスト消化ずみ」
「これはそれとは関係ないって」
やはり彼は心が読めないのだと、それで気がついた。もし読めていれば、的外れな心配をするはずがない。




