優先順位
理央が小さな声をあげた。鳴海は彼女の口から口を離してにやけると「かわいい声」とささやいた。力強く抱きしめると、ふざけて悲鳴をあげる。
部屋の扉が開く音がした。ふたりは弾けるように離れた。廊下の奥へ耳をすませると、扉の閉まる音が聞こえた。どうやらたいした用事ではなかったようだ。
安堵の息をつき、理央へ視線をもどす。彼女は顔を赤らめながら氷製造機の方へそっぽを向いていた。
「やっぱり下に行くか」
髪の毛を耳にかけてやると彼女はうなずいた。
自動販売機コーナーから出て、昭和を感じる赤いカーペットを踏みしめる。エレベーターのボタンを押して1階まで降りる。
深夜をまわったロビーには、だれもいなかった。エントランス前の給湯器から緑茶を拝借して、チェックインカウンターの横にあるソファに腰かける。
合宿4日目にして、学生御用達の安宿は自分の家のように居心地良く感じられた。
鳴海たちのゼミは比較的厳しいことで有名だったが、合宿に関しては、教授の「たまには羽を伸ばしたい」との意向に便乗して毎度慰留地に滞在することが常となっていた。地方の労働人口問題の調査をする。そんな名目の元、観光に興じている。
今日も地元の湖まで行って楽しくボートを漕いできた。最終日には各々のテーマを元に発表会があるが、それまではおおよそ自由にすごしている。
大学生の特権だと鳴海は思った。社会人はこの時期に1週間の旅行などできないだろう。
理央も同じことを考えていたのか「学生、やめたくないねえ」と苦笑した。
「そうだな。いまが良すぎる」
「好き勝手に旅行できるのも、あともう少しだもんね」
「だな。学生のあいだに、行きたい場所には行っておかないと」
理央はパッと顔を明るくして「それなんだけど」と言いだした。
「鳴海さ、京都行きたくない?」
「京都?」
「うん。紅葉を観にいきたいの。社会人になったら、こんな時期に休みはとれないでしょう?」
鳴海は「いいよ」と即答しかけたが、すんでのところで口を閉じた。旭のことが頭をよぎったのだ。
ただでさえ合宿のせいで計画が停滞しているのだ。また不在にすると聞いたらナポリタンは非常に怒るだろう。旭が怒る姿は想像がつかないが、がっかりするかもしれない。あの無表情に残念そうな色を浮かべるはずだ。
「ごめん。ちょっと無理かもしれないな」
理央は目を丸くした。断られるとは思っていなかったようだ。
「なんで?」
あからさまに残念がる彼女に胸が痛む。だが折れるわけにはいかない。
「入社までに研修があるだろ。じつはまだ日程がわからなくてさ。悪いんだけど、もし旅行の日程とかぶったらまずい」
われながら上手い嘘だと鳴海は思った。しかし理央は顔をゆがめて「じゃあ土日に行こうよ」と食い下がった。
「さすがに土日に研修やったりしないでしょ。あそこの会社なら社員もちゃんと休みとるだろうし」
「いや、まあそうなんだけど。でも万が一ってこともあるし」
彼女は不服そうに黙った。鳴海は脇に変な汗をかいたが、やむにやまれぬ事情なのだと伝えるために、目力をこめて彼女を見つめつづけた。
「わかった」
ようやく理央はつぶやいた。不納得な様子がありありと伝わってきたが、これ以上顔を合わせていると胃に穴が空きそうだ。鳴海は「ごめんな」と湯呑を手に立ちあがった。
「研修が終わったらどこにでも付きあうからさ。いろいろ考えといてな」
「うん」
お茶を入れなおすふりで理央から離れる。罪悪感が胸をちくちく刺したが、どこか安心する自分にも気付かざるを得なかった。
鳴海は玄関をふりかえった。肌ざむい風を感じたのだ。宿の玄関はゆがんだガラスがはめられていて真っ暗闇だけが映っていた。
合宿最終日の14時、穏やかな陽気がホームにふりそそいでいた。
ゼミの面々が待合室にたむろしている。鳴海は男友達と話しながら、翌日以降の計画について考えた。
旭は今頃なにをしているだろう。にわかにおかしくなった。彼は真面目なので、ひょっとすると本当に合コンの練習に行ったかもしれない。
「へえ、すごい」
少し離れた場所で、女子たちが携帯を覗きこんでいた。
「知らなかった、こんな子がいるなんて」
「法学部では有名らしいよ。記憶力が尋常じゃないんだって。まあ変人らしいけど」
ふと理央と目があったが、彼女から視線を外した。
特急電車が堂々と乗りこんでくる。秋風が吹いてTシャツの裾がパタパタと鳴った。
鳴海は軽く咳をした。もう夏が終わったのだ。




