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おざなり


 料理のコツを聞かれると答えに困る。身体に染みついた行為の説明は難しい。なにがどこにあるのか、どれほど進行しているのか、きちんと把握しておくこと。それが大事だと話せば、それはコツではないと反発される。


 鳴海はフライがえしでハンバーグをひっくり返した。鉄板から油がはね、香ばしいかおりと煙がひとすじ立つ。

『まんじょく』の看板メニューであるハンバーグが焼けるようになったのは10才の時だった。父親の仕事場に幼いころから出入りしていたため、特別教わることもなく習得した。

 

「なるちゃんは、お父さんに似て料理が上手だわ」


 母親の敏江が喜んだ。


 鳴海は自分がこのレストランを継ぐと思っていた。

 しかし、ある日から違う世界を夢見だした。

 それは灰色の夢だ。巨大な怪物のようなビルの群れ。地下鉄から吐きだされるサラリーマン。そして彼らが帰っていく清潔なマンションの存在だった。

 鳴海はロボットの瞳をもった社会人にあこがれた。いつかそうやって暮らすべきなのだと思った。


 物思いにふけっていると、無機質な青山旭の顔がフライパンに映りこんだ気がした。

 鉄板にハンバーグを乗せ、つけあわせを盛りあわせる。「三番」と言って加奈子に渡すと、不思議そうにこちらを見ている。


「アンタ、最近変ね」


「なにが?」


「ぼーっとして火傷とかしないでよ」


「しねえよ」


 追いやるように手を振ると、加奈子は舌を出した。一息ついて時計をふりかえる。そろそろ父親と交代する時間だ。

 やがて買い物に出ていた哲夫が帰宅したので、鳴海はエプロンを脱いで、のれんをくぐった。


「鳴海」哲夫が声をかけた。

「明日から合宿なんだってな」


「そうだけど」


「なにか要るものはないのか」


「自分で用意したから大丈夫」


 ふいと顔を背ける。「気をつけてな」と不器用な声が聞こえた。


 頭をかきむしりながら自室の扉を開け、空気を入れかえるために窓を開ける。アルバイトまで1時間以上ある。明日の荷物を点検しがてら携帯をのぞく。

 ゼミのグループメッセージが動いていた。まだ荷造りを終えていない者が大半のようだ。

 肩をすくめて、理央からのメッセージに目を通す。


――楽しみ。こんなに長く一緒にいるのはじめてだね。


 理央と交際をはじめて、もうすぐ1年がたつ。3年生の後期、人文総合基礎1の講義で初めて言葉を交わした。3回目の講義で「前回の資料を忘れちゃったの」と話しかけてきた彼女は、その次の回で筆記用具を忘れ、そしてさらに次の回では、生徒の半分しか持参していない教授の著書を忘れたと言いはった。

 さすがに気がついた。彼女はいつも恥ずかしそうにしていたが、必ず目を見て話をする人間だった。講義後に駅まで歩くのが習慣となり、食堂で昼食を共にするのが楽しく感じられるようになった頃、告白された。

 彼女は緊張で半泣きになりながら「佐々木くんのいろんなところが好きなの」と言った。

 鳴海はあのときの気持ちを思い描こうとしたが、うまくいかなかった。ため息をついたとたんに携帯が鳴る。画面をのぞいて目をぱちくりさせる。


「もしもし」


「……もしもし」


 声はくぐもった暗いテノールだった。


「旭か?」


「そう」


「どうしたんだ」


 彼から電話をかけてくるのは初めてだった。


「明日から合宿」と旭が言った。


「そうだけど」


「1週間」


「うん」


「……」


 旭の表情筋は基本的に役割を果たさないが、それでも顔が見えないと会話がしづらい。


「大丈夫か」と問うと、

「なにか、やっておくことあるかな」とようやく話しだした。


「やっておくこと?」


「このあいだの練習。ぼーりんぐ、からおけ、ごうこん。練習は可能」


 鳴海はにやけた。


「アンタ練習するつもりなのか? 合コンを」


「必要なことなら。できればしたくない」と旭はきっぱり告げた。


「アンタがしたいことがあるなら、してみたらどうだ。無理ならしなくてもいいし」


「そう」


「それより卒論とか単位は大丈夫なんだよな」


「卒論は必修じゃない。単位も卒業要件分はとっている」


「そっか」


 来週の月曜日から後期の授業が始まるが、それなら問題ないだろう。


「こんなときに合宿なんて行って悪いな。ナポリタンも怒ってんだろ」


「怒っていない。ひまだと言っている」


「ん、そっか」と笑う。


「急に電話をかけて申し訳なかった」


「いや大丈夫」


「いってらっしゃい」


 一瞬、頭が真っ白になった。反射的に「行ってくる」と言う。電話越しにうなずいた気配がした。通話音だけが残った。

 携帯を置いた手が微妙に震えていた。部屋がやたらと暑かったので、エアコンをつけた。


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