五十九話〜兆し〜
舞踏会の夜、屋敷に帰ってきたセドリックは、自室の前で蹲っていた。
始めは体調が悪いのかとエヴェリーナは思ったが、如何にも様子がおかしい。
頭に過ぎるのは以前の舞踏会の事だ。
部屋に入れて貰い話を聞けば、驚いた事に媚薬を盛られたという。
苦しむセドリックにどうにかしなくてはと考えるが……。
対処法の知識はあるが、実践はした事はない。それに彼は女性に触れられない。そうなると、自力で解決して貰う他ない。
そこまで考えた時に、ある本の存在を思い出した。艶本だ。
男性が性欲を発散させる為に使用する本らしい。
これらの知識は皇子妃教育で習ったものだ。夫であるジュリアスを悦ばせる為に……。
ただ結局その機会は訪れなかった。彼は病弱であったし、快気したものの内面が幼過ぎてそんな発想もない。精々抱き締めて手を繋ぐ程度だった。
話は戻るが、エヴェリーナはソロモンに当たりをつけて彼の部屋へと向かった。
正直、確証はなかったが、ジルよりは確率は高いだろう。そんな風に思っていたら、予想は正に的中した。
艶本をセドリックへと手渡し部屋を後にしたエヴェリーナは心配ではあったが、彼からの要望通り自室へと下がった。
先程は苦しむセドリックを助けたい一心で、余計な事を考える余裕はなかった。
だが自室に戻り一人になると、一気に羞恥心が込み上げてきた。
熱を帯びた瞳に荒い息遣い。肌蹴たシャツから覗く首筋を伝う汗ーー
艶めかしい姿が脳裏に焼き付いている。
ベッドに横になっても、セドリックの事を思い出してしまい中々眠れない。
無論心配する気持ちは強いが、それだけではない気がした。
心臓がうるさく脈打ち、結局寝付くまでにかなり時間が掛かった。
その翌日、すっかり元気になったセドリックを見て安堵する。ただ、昨夜の事が脳裏に浮かび、凄く気不味い。
平静を装うエヴェリーナだったが、セドリックから声を掛けられただけで思わず身体をピクリと震わせてしまった。
気付いていないのかそのまま話を続けるセドリックに、内心安堵しため息を吐いた。
「ほ、ほら、あの本、さっきソロモンに返したけど、凄く良かったじゃなくて、役に立ったよ!」と清々しい表情のセドリックから言われ、少し反応に困った。
改めて考えると、女性嫌いのセドリックには艶本は不快でしかないのではと思ったが、意外と気に入ったみたいだ。本来なら役に立てて良かったと喜ぶべきなのに、何故か彼の反応に少しだけモヤっとする。
そんな気持ちを払拭するようにエヴェリーナはセドリックに昨夜の事柄について、今後どのように対処するのか訊ねると、意外な返答が返ってきた。
ビアンカに関してはジョセフという女誑しの令息を嗾けたので恐らく痛い目をみただろうとの事、侯爵家に関しては書面で抗議する事、以上だ。
一瞬、呆気に取られてしまった。
まさかそれだけで済ますつもりなのかと。
以前から感じてはいたがセドリックは甘いというか、本質が優しいのだろう。
ただセドリックの言い分も理解出来なくはない。
彼はお年頃だし、恥ずかしいもの分かる。
それに媚薬を盛られたなど噂が広がれば様々な憶測が生まれる。
以前の我儘皇子の振る舞いとは比にはならないくらい彼の名誉に傷がつくだろう。
何もなかったとはいえ、勘繰る人間は少なくないのが実情だ。
とはいえ、やはり納得がいかない。
正直ローエンシュタイン帝国なら、その場で首を刎ねてもおかしくない事案だ。
だが国が違えば法や価値観、慣習などまるで違う。それは仕方がない事だとも分かっている。
ルヴィエ帝国とローエンシュタイン帝国とでは、皇族のあり方が違うのだろう。
ローエンシュタイン帝国では皇族の権威は絶対だ。
帝国貴族達は裏でエヴェリーナを悪く言う者が多かったが、皇子妃であるエヴェリーナに真っ向から物申せる人間などいなかった。
本来は裏で悪態を吐くのも不敬に違いないが、どこかでガス抜きをしなければ不満が爆発するので見ないフリをする。但し、真っ向から不敬を働いた者には容赦はしない。これがローエンシュタイン帝国のあり方だった。
ただここはルヴェリエ帝国だ。
エヴェリーナは自分の価値観を押し付けるような傲慢な人間にはなりたくない。だが、自分の主人であるセドリックを侮辱されたのなら話は別だ。黙って見過ごす事は出来ない。どんな形であれ責任は取らせる。
そんな経緯からエヴェリーナはセドリックに長期休暇を求め、そして今はマイラの店に来ている。
その理由は、セドリックからマイラへの紹介状を貰ったからだ。
「まさか、リズさんが紹介状を持ってくるとはね」
そう言うと、余程可笑しかったのかマイラは暫く豪快に笑っていた。
実はマイラは表の顔は食事処を営む店主だが、裏では情報屋をやっており、セドリックはお得意様だという。今回、何かの助けになればとセドリックが打ち明けてくれた。
平民のマイラと皇子であるセドリックの繋がりが妙だとは思っていたが、まさかこんな理由だとは驚く一方で腑に落ちた。
「あの皇子様から、随分と信頼されているみたいだね。凄いじゃないか」
ひとしきり笑い終えたマイラは、エヴェリーナの頭を撫でる。
もう慣れたが、どうしてもむず痒さを感じる。
「それでコルベール家の情報だったね」
「はい」
時刻はまだ夕刻前だが、彼女は早々に店仕舞いをする。
エヴェリーナが訪れた時、昼時が過ぎた店内には客はおらず閑散としていたが、本来なら夜も営業する筈だ。
因みにロニーは今、新しく出来た友人と外で遊んでいるそうだ。
「お店を閉めてしまって、宜しいのですか?」
「ああ、こっちの方が大切な仕事だからね」
「ご迷惑でなければ、お店が終わるまで待たせて頂きます。若しくはお手伝いさせて」
「大丈夫だよ。皇子様から全力で、優先的にリズさんをサポートするようにと言われているからね。その分、報酬は惜しまないともさ」
マイラは紹介状をヒラヒラと見せながら意味深長な笑みを浮かべた。




