五十五話〜欲求〜
(最悪だ、鍵を掛けるのを忘れていた……)
思考が鈍り突然の事態にそこまで頭が回らなかった。
「セドリック様、お待たせ致しました。……あら、いらっしゃらないわ」
セドリックを呼ぶ声に、部屋に入ってきた人物がビアンカだと直ぐに分かる。
「セドリック様〜? どちらにいらっしゃるんですか?」
ただ単に嫌がらせかと思いきや、どうやら別の意図があったようだ。
「そろそろ媚薬の効果が出てきて、お辛いでしょう? 私が鎮めてさしあげますから、出て来て下さい」
既成事実を作り正に強行手段に出ようという事だろう。その考えにぞっとする。
ユージーンの事は友人とは思った事はないが、家柄も含め信頼は出来ると思っていた。
昔からシスコンではあったが、まさか妹の為にここまでするとは……頭がおかしいとしか思えない。
「恥ずかしがらなくても大丈夫ですわ。私はどんなセドリック様も、愛せる自信がありますもの」
ビアンカの姿はセドリックから確認をする事は出来ないがその声色だけでも分かる。今彼女は醜悪な笑みを浮かべている事だろう。
ゆっくりと部屋を徘徊するヒールの音が部屋に響く。
セドリックは必死に息が上がるのを抑え込み、タイミングを見計らう。
「セドリック様〜?」
(今だっ)
すぐ側に気配を感じた瞬間、セドリックはビアンカの前へと飛び出すと彼女のドレスの裾を勢いよく踏み付けた。そしてそのまま扉の外へと飛び出す。
後ろから転倒する音と共にビアンカの悲鳴が聞こえてくる。だがセドリックが立ち止まる事はなかった。
部屋を抜け出した後、廊下を覚束ない足取りで歩いていると意外な人物と遭遇した。
「おや、セドリック皇子ではありませんか? このような場所でお会いするとは奇遇ですね」
彼は遊び人で有名の伯爵令息のジョゼフ・ギュフロワだ。
セミロングの漆黒の髪と妖艶な緑色の瞳の彼は、セドリックとは真逆で極度の女好きだ。
社交界にほぼ顔を出さないセドリックすら知っている程、悪い噂が絶えない。それも全て女性絡みのだ。
まだ二十歳そこそこだというのに、女遊びが激しく婚約破棄を何度も繰り返しているらしい。
「君こそ……」
変な汗が出る。
思考が鈍っているせいで上手く言葉が出ない。
「顔色が宜しくないのではありませんか?」
「いや、大丈夫だ……」
一刻も早くこの場を立ち去りたいと思うが、ふと妙案が頭に浮かんだ。
「それより、実はこの先の客室に君に懸想している令嬢がいるんだ。少々照れ屋だから、是非君から積極的に仲良くしてあげてくれ」
「それはまた、素敵なお話をお伺いしました。退屈で広間を抜け出してきた所だったのですが、これで今宵は退屈せずに済みそうです」
「お役に立てて、何よりだよ……」
一度目は目を瞑ってやったが、二度はない。
昔から迷惑をしていたが、まさかこんな形で意趣返しするとは思わなかった。
どうなるかはジョゼフ次第となるが、痛い目を見るのは確実だろう。
嬉々として歩いて行くジョゼフの背中を見送ったセドリックは、どうにか馬車へと辿り着いた。
馭者に声を掛け、広間の周辺に残して来たブライス達を呼びに行かせた。
「お帰りなさいませ……セドリック様⁉︎」
屋敷に到着したセドリックを出迎えたジルやソロモンは、セドリックの様子がおかしい事に直ぐに気付き声を上げた。
「如何なさいましたか⁉︎ 体調が優れないのであれば直ぐに医師を呼びます」
「いや、いい……。一人に、して欲しい……」
「……かしこまりました」
何かを察したであろうジル達を押し退け、セドリックは一人自室へと向かう。
媚薬を盛られたなど恥ずかしくて言いたくなかった。
セドリックは部屋の前で蹲った。
後少し……目の前に扉があるのに、もどかしい。
「セドリック様⁉︎」
「っーー」
更に最悪な事に、今一番遭遇したくない彼女と会ってしまった。
「誰か人を呼んできます!」
「リズ、待って……」
慌てて踵を返そうとする彼女を引き止めた。
彼女に情けない姿は見せられないと、セドリックはどうにか立ち上がると部屋の中へと入った。
「少し顔が赤いですね。息も苦しそうです……。もしやまた、女性に触れられたのですか?」
あれこれ心配するリズに言うべきかと悩むが、結局事の経緯を簡潔に説明をした。
どうしてかリズには逆らえない。
「……心配してくれて、ありがとう。僕は、大丈夫……はぁ、はぁっ……」
「セドリック様……」
リズが側にいるせいか、先程より更に身体が熱くて疼く感覚がする。
その様子を見た彼女は心配そうに顔を歪ませた。
「ーーセドリック様、私がどうにか致します」
暫し黙り込んだリズは、意を決したようにそう言った。
「い、いや、どうにかって……」
思わず生唾を飲む。
女性に触れるのも触れられるのも気持ちが悪いだけだ。
頭ではそう考えながらも、妙な期待感を抱いている自分がいる。
「暫しお待ち下さい」
リズはそれだけ言うと部屋を出て行った。
「こちら、ソロモンさんからお借りして参りました」
彼女は程なくして戻ってきた。
そして真剣な表情で手渡されたのは所謂艶本だった。
「あ、ありがとう……」
取り敢えず礼を言ったが、想像していた展開と違った事に落胆をする。
(い、いや、僕は別に、やましい事は……。それより、そろそろ、限界かもっ……)
「では、私は扉の前で控えてますので何かありましたらお呼び下さい」
「え、いや、リズはもう下がって……だ、大丈夫、だからっ……」
「ですが」
「頼む……」
扉の前になどいられたら、羞恥心でどうにかなってしまいそうだ。そうなったら今後リズに合わせる顔がない。
「承知致しました……」
不安そうにしながら、リズは部屋から出て行った。
その姿を見届けた後、先程受け取った艶本をパラパラと捲るとベッドの上に放った。
「僕には、こんなの必要っ、ない……」
一人になった部屋で、頭に浮かぶ彼女の幻影にひたすら没頭した。




