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4-07 香る紅の祝祭

 族長屋敷で下働きをする青年・ニコライは、冥界への使者を選ぶ儀式を準備するよう命じられる。しかし次の日、族長の息子・ディミタルが長槍に貫かれて殺される。彼は神に選ばれたのかーー?

 愛する者を守るため、ニコライは真実を暴くことを決意する。だがそれは、死を祝福する村において禁忌とされることであった。

 薔薇の香りが血塗られたのは早朝のことであった。


 祝祭のために(あつら)えられたシャツには細やかな刺繍が施されている。ニコライが僅かに頬を緩めて袖を通すと、別の使用人が部屋へ飛び込んできた。血相を変えた少年は屋敷へ買われて日が浅い。声を発さぬ彼は大仰な身振り手振りで伝えようとするが、要領を得なかった。急かす少年を(なだ)めすかし、身支度も整わぬまま黒い帽子だけを頭に(かぶ)り、外へ出る。


 山に囲まれたこの村は、辺り一面、薄紅色に染まっている。村人たちは、まだ朝露の(したた)るうちに花を摘む。甘い芳香を濃縮した神の恵みは、村を豊かにする収入源でもあった。


 日は昇り始めている。すでに花を摘み始めていてもおかしくないが、薔薇園に人の姿はない。遠く耳を澄ませると、朝の澄んだ空気に人声が溶け込んでいる。両脇から漂う(かぐわ)しい香りに胸騒ぎがして駆けるうちに、花園に似つかわしくない、淀んだ匂いが強くなった。ニコライは人をかき分けて息を呑む。


 祝祭の衣装を(まと)った男が仰向けに倒れている。見覚えのある顔は、族長の息子・ディミタルだ。


 ――なぜ、ディミタル様が?


 ディミタルがすでに冥界へ旅立ったことは一目見て明らかだった。胸を長槍に貫かれ、刺さった槍の周囲には赤黒い染みが広がっている。


 朝日が渓谷に差し込み、ざわめきは一層広がった。ニコライはその場に屈んで目を閉じる。早鐘を打つ心臓を抑えるように、強く奥歯を噛みしめる。


 ディミタルに呼び出されたのは昨日のことである。ニコライが葡萄(ぶどう)の香る酒を手に、屋敷の裏手へ回ったところ、ディミタルが女性の肩を抱いているのが見えた。ニコライは咄嗟(とっさ)に木で身を隠す。


 ディミタルに抱かれた女性――イヴァンカは、赤いジャンパースカートに刺繍の入った濃緑のエプロンを腰に巻き、長い三つ編みを肩に垂らしている。ディミタルはイヴァンカの耳元に薔薇の花を優しく挿すと、その額に口付けした。二人が交わす言葉はニコライには届かない。イヴァンカの、きりりと口紅を引いた唇が円弧を描く。ニコライは木に体を預けて目を瞑る。土を踏む音が近づいてくる。


「そこにいるのはわかっているとも」


 振り返るとディミタルが苦笑している。ニコライの逃げ場を(ふさ)いだ腕は太く、服の上からでも胸板が厚いことが見て取れる。ディミタルに邪気のない精悍な顔を向けられ、ニコライの顔は熱くなった。思わず目を伏せると、手に持っていた瓶を奪われる。


「イヴァンカとの婚約は、明日公表しようと思う」


 ディミタルの飲んだ酒は《神の火の水(ラキア)》と呼ばれている。喉が焼けるほどに強いはずだが、酩酊しているわけではないらしい。ディミタルは至極真面目な顔でさらに続ける。


「客人にお出しするためのパンと塩も準備してほしい」

「わかりました」


 気心の知れた仲のため、物言いも砕けたものになる。ニコライが目礼して辞そうとしたところ、ディミタルは一層声を潜めて「それと」と口元に手を当てた。


「そろそろ使者(・・)を選ぶ時期だ。今回は(わたし)が取り仕切るよう、父上から言い使っている。ニコライも手伝ってはくれまいか」


 ニコライは(うなず)いた。神の元へ送る使者を選ぶ(くじ)引きは五年に一度行われる。名誉ある役割を(たまわ)った村人は、槍に貫かれ冥界へ送られることになる。


 ニコライの目の前で息絶えているディミタルは、使者として神に選ばれたかのようだ。だが籤引きはこれから行われる予定であった。


 ――これが、神の思し召しなのだろうか?


 後ろから駆けてきた足音に振り返ると族長の姿があった。ニコライはその場で立ち上がり、一歩退く。

 いまだ寝巻姿の族長はニコライを一瞥もせず、息子の遺体を前に立ち尽くしている。族長と息子は目元や鼻立ちに至るまで似ているが、すでに旅立ったディミタルが父親の横に並び立つことは二度とない。目を閉じている族長は、顔に刻み込まれた皺を一層深めたように見える。沈痛な面持ちに見えたのは一瞬のことであった。目を開いた族長は村を統べる者として、堂々たる表情で告げた。


「我が息子が亡くなった。祝祭(・・)の準備にかかれ。盛大に旅立ちを祝うこととする」


 哀悼か、困惑か、それとも歓喜か。どよめきが広がり、やがてうねりは喧騒となる。

 熱に浮かされたように現実感が薄い。ニコライがふらつくように群衆から抜け出すと、足早に立ち去ろうとするイヴァンカの後ろ姿が見えた。思わず追いかけ、呼び止める。


「待ってくれ」


 イヴァンカが振り返った拍子に、薄紅の花がはらりと落ちた。ニコライが屈んで手を伸ばそうとすると、イヴァンカはそれを手で制して拾い上げる。彼女は花弁に付着した泥を手で払い、左耳に挿し直す。


「何か言いたいことがあるんでしょう」


 イヴァンカの表情は固い。紅の引かれた唇は引き結ばれ、目には朝露のような涙が湛えられているが、毅然とした声には芯がある。

 言いたいこと。尋ねたいこと。

 明確な目的があって声をかけたわけではなかったが、イヴァンカに問われたことで明確な形となった。そう、ニコライは問わねばならぬ。


「君がディミタル様を殺したのか」


 イヴァンカは初めて目を見開いた。だがそれは一瞬のことであった。殺意を帯びたよう睨みつけられ、迫力に怯みかける。ニコライは拳を握り、繰り返し問う。


「婚約者の君が、ディミタル様を殺したのか。冥界で一緒になるために」

「えらくはっきり訊くのね。でも、違うわ」


 明確な否定であった。イヴァンカは、ニコライから距離を取るように冷然と続ける。


哀哭(あいこく)の礼のあと、冥婚の相手に選ばれるのは私よ」


 頭部を殴られたような衝撃に、ニコライは指先すら動かせない。変わり果てたディミタルと対峙したとき以上に、呼吸は浅く、速くなる。


 村のしきたりに従い、ディミタルの遺骸は三日間安置されることになるだろう。その後、哀哭の礼が執り行われ、一人の女――死んだ男の最愛の女は栄誉をもって殉死する。誉れある役割を巡って妻妾同士が競り合うことになるが、婚約者であるイヴァンカは殉死する候補者として不足はないはずだ。


「この世は仮初(かりそめ)の姿。冥界に行くことで魂は至福となる。ニコライも、知らないわけじゃないでしょう」


 イヴァンカは顔を下げようとしなかったが、腰に巻いたバックルの前で握られた手は震えている。その手の白さを直視できず、ニコライは足下に視線を逃がす。


「君に名前を呼ばれたのは久しぶりだ」

「そんなこと、ないでしょう」

「いや、そうさ」


 沈黙の重さに顔を上げると、イヴァンカは今にも泣き出しそうな表情で小さく笑う。


「黙っていてくれたのね」


 幼馴染のイヴァンカと、兄のように慕ったディミタルの婚約を知ったのは偶然のことであった。二人が人目を忍んで薔薇園で逢瀬を交わすのを目撃したからだ。ニコライは使用人としての振る舞いを優先し、口を(つぐ)み続けてきた。


 生は嘆きであり、死はあの世への旅立ちである。それゆえ葬送は祝祭である。ニコライも異存はない。ただ一点を除いては。


「文句を言うつもりはないんだ。ただ、イヴァンカのことが心配で」

「私は大丈夫。一筋縄ではいかないのだろうけれど、婚約したときから心づもりはできているわ」

「それでも、君が死ぬ必要はないじゃないか」


 口を突いて出た言葉は鋭かった。反射的に投げつけてしまった言葉に目を(つむ)る。左頬に感じた冷たく柔らかな感覚に目を開くと、イヴァンカの手が伸びていた。


「ニコライは昔から変わらないままね」


 イヴァンカは手を下ろして微笑んだ。ニコライは心臓が跳ねたことを恥じながら、かぶりを振る。


「ディミタル様が神に選ばれなければ」

「あら、随分と信心深いのね」


 冷ややかな皮肉に動きを止める。イヴァンカの瞳が静かな怒りを思わせるほど鋭く光る。

 ニコライは周囲を見回し、声を潜めて言い直す。


「ディミタル様が殺されなければ、こんなことにはならなかった。村人の都合で使者を送るなんて、冒涜がすぎると思わないか」


 イヴァンカは光る目元を指で拭い、「そうね」と震えるように首肯した。


 これは神の戯れなどではない。ニコライはそう確信していた。ディミタルが何者かの手によって殺められたのだ、と。

 被害者であるディミタルを責めるような物言いにもかかわらず、イヴァンカはそれを咎めなかった。それすなわち、イヴァンカもまた、同じ考えなのだろう。


 同時に疑念が湧き起こる。

 ディミタルが死ねば、必ず女性が選ばれる。そのために彼は殺されたのだろうか? 確証はなかった。そもそも、いったい誰がディミタルの魂を冥界へ送ったのか。


 拳を握り、深く息を吐く。イヴァンカの耳元の薔薇と、ディミタルの胸元の紅が結びつく。


 死は終わりではなく、始まりである。魂はあの世でこそ、永遠の生と幸福を享受できる。愛し合ったイヴァンカとディミタルは冥界で結ばれるべきだ。そう、信じていたはずだった。


 ――これは、裏切りだ。


 神に対し、長年仕えた青年に対し、そして、気高いイヴァンカに対する裏切りである。自分が不義理を働くことになると理解していたが、すでに心は決まっていた。


 猶予は三日間。その間に、ディミタルが何者かに殺められたのだと、白日の下に晒さねばならない。たとえこの世に固執し、道を外れることになろうとも、ニコライは密かに焦がれた相手を見送りたくはないからだ。

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