4-25 神の庭に理は咲く
極東の島国、麗葉国。
近代化の波が押し寄せる中にあって、季節を司る四神が人を守り、未だ頂点に君臨する神々の御代。名家の一人娘として生まれた白川朔夜は、代々娘を「神嫁」として神に捧げる一族の掟のために、春の神に嫁入りさせられる運命にあった。契りの夜、春を司る神・栞宮に相まみえた時――白無垢を纏った少女はゆっくりと顔を上げて断定した。
「私は神を信じない。神の理不尽も不合理も、すべて人の理で説明してみせよう」
神を恐れず理論で解析しようとする少女と、忘れてしまった自身の過去を探す神。互いの目的を抱えた両者は、婚姻を機に契約を結ぶ。しかし、形式にすぎなかったはずの夫婦関係は、やがて祈りと理の狭間で揺らぎ出す。
信仰と学問が交差する、和風契約結婚ファンタジー。
季節外れの薄紅色が、はらりはらりと舞っていた。
白雪を思わせる装いに桜の花びらが落ち、僅かに色を載せてゆく。白木張りの社殿は静謐に沈み、歩みを進めるごとに鳴る鈴だけが、しゃらりと音を響かせる。
灯篭のゆららかな光の中、少女はゆっくりと顔を上げた。
綿帽子の下から、結われぬままに下ろされた黒髪が滑り落ちる。白無垢の裾からちらりと覗く深紅だけが、色の無い少女を引き立てるように妙に目を惹いた。
白川朔夜――春の神に捧げられた娘。
西洋諸国の学問文化が流入し、瓦斯灯が街路に灯りを投げかける時代にあって、この国はなお神と共にある。神は季節の律を保って人を守り、人は神に祈りと供物を捧げる。白川家は麗葉国随一の名家であり、代々一族の娘を「神嫁」として神に差し出してきた家だった。白川の一人娘として生まれた朔夜も例外ではなく、幼い頃からいずれ神に嫁ぐのだと教えられてきた。
「神嫁」は神に捧げられる誉であり、贄でもある。
神が人へ向ける寵は、人の愛とは異なる。無垢な幼子が玩具で戯れるように、一時も離さず愛でていたかと思えば、次の瞬間には気紛れに捨て去る。
「嫁いだが最後、永久に囲われる」
「一たび興を削げば、喰らわれてしまう」
神に嫁いだ者の末路は様々に噂されているが、所詮人の世を離れた神域のことなど誰にも分からない。
いずれにしろ、後に引くことができないのは確かだ。
袋状に広がった袖の中で、朔夜の白い指先が扇子の骨を握りしめる。
その時、風が一度呼吸を忘れた。際限なく降りしきる桜花が人の輪郭を象るように、その中心に神の姿が現れる。
神々の頂点に立つ四神の一柱、春を司る神・栞宮。
亜麻色の髪は薄暗がりの中で金にも銀にも揺らぎ、長く真っ直ぐに肩へと落ちる。琥珀色の瞳は深く静けさに満ち、飴を溶かしたように甘やかな温度を帯びていた。
「……ようこそ、朔夜様」
春の慈雨のような眼差しが朔夜へと向けられる。声は静かに丁寧に、神としての傲りを微塵も見せず、人に寄り添うようにそっと響く。長身を覆う白い衣は纏うだけで周囲の空気を柔らかく染め、性を超越したようなその姿は憧れと恐れを同時に呼び起こす。
誰しもが平伏したくなるような柔らかな姿を前に、しかし朔夜は微動だにしなかった。跪くこともなく、花びらよりもなお白い面が栞宮へと向けられる。
「私は神を信じない」
言葉は短く、氷刃のように乾いていた。
瞬間、栞宮の微笑は崩れなかった。しかし、静かに凪いだ水面に僅かに笹葉が触れたように、瞳だけが淡く驚きと困惑を映し出す。
「そうおっしゃる方は、初めてにございます」
「そう。無理もない。誰もが妄信に安住している」
言葉は断片だけを並べ、説明を拒む。それ故に、針で刺すような鋭さがあった。
栞宮は一拍だけ沈黙し、ふ、と息を吐くよりも軽く微笑んだ。
「朔夜様、なぜそこまで神を信じぬと」
「信じない、という言葉は曖昧だったな。神が存在することは信じる信じないの次元ではない。事実として、神はここに在る。だが、それを信用、或いは信頼するかは別の話だ」
返す言葉は冷たく、そして途切れることない奔流として続いた。
「『神隠し』という言説がある。子供が姿を消した時、人はせめて神の元にあれと祈る。或いは、神に奪われたのだから仕方がないと納得する。そうやって、子どもを失くしたという理不尽な現実を受け入れようとする。私たちは、理で説明できないものに、神という不条理を持ち出す。それがこの国を停滞させた。三百年だ。三百年も、この国の学問は遅れている。誰も理を解き明かそうとしなかったから。祈りに逃げたから。だから私は、神というものを信じない。構造を知らずに、神秘に閉じ込めて、分かった気になるのは欺瞞だ。私は、何も知らずに死にたくはない」
抑揚に乏しく、言葉の間の切れ目すらないその口調は、自分の思考を効率的に伝達する術に慣れた者特有の話し方だった。桜と白檀の淡い甘さが燻るように香る社殿の中には、異常な熱気だけが残った。
栞宮は、なおも微笑んでいた。
「朔夜様がこの婚姻を厭うのであれば、私はあなたを逃がすこともできます。神嫁の制度は人のもの。私は強いてそれに縛られるべきではないでしょう」
「なぜ」
朔夜はきゅっと眉根を寄せて返す。
「私はお前を知りたい」
その言葉に、栞宮の笑みが僅かに揺れた。神としての仮面が崩れるように、微細な波紋がその端整な面立ちに広がる。
「私は、神の理不尽も不合理も、すべて人の理で説明してみせよう。そのためには、神を観測し、記録し、検証し、解析する必要がある。それが私の婚姻だ。お前と結ぶ契約は、その枠組みにすぎない」
「……承知いたしました。ならば、私はその枠組みを整えましょう」
穏やかに返した栞宮の言葉に朔夜は頷かない。頷かないままに、確認に移る。
「条件を詰める。研究の主導は私が取る」
「はい」
「神性の作用と季節の変容、祈祷の構文、供物と天候の相関。研究内容は私が決める」
「異存はございません」
「私の意志に反する干渉は、しない」
「お約束いたします」
「危険の説明は事前に。不可抗力の際は、その説明を言語にする」
「努めます。言葉にならぬものでも、できる限り言葉を与えましょう」
「これは実験。お前は被験者。だが尊厳は守る」
「ありがとうございます」
「事前に共有したいことは」
栞宮は静かに目を伏せ、また上げた。丁寧な所作の隙間に、僅かな逡巡が覗く。
「正直に申しましょう。私は記憶を失っております。いつ、いかにして神となったのか――その始まりを。朔夜様の研究が、その道筋を照らすのならば、これほど心強いことはございません」
「理解した。お前は記憶を取り戻す。私は神を理で記述する。互いの目的に干渉はしないが、接続はする。それで良いな、栞宮」
初めて呼び捨てにされた名の響きを受け取り、神は僅かに微笑を和らげる。
「はい、朔夜様」
口にされた名は、春の雨が屋根を打つように柔らかく空気に溶けた。朔夜は一瞬だけ呼吸の深さを変え、僅かに声を落とした。
「……最後に、私の兄を探す手伝いを」
「兄上様を?」
首を傾げた栞宮を前に、朔夜は白無垢の袖の内へと手をやった。古びた手帳が一冊。薄鼠色の表紙の角は折れ、鉛筆の跡が滲んでいる。
「民俗学者だった。私に学問を教えた。姿を消した。消え方が綺麗すぎる」
帝都の大学で民俗学者をしていた朔夜の兄は、寡黙ながら優秀な妹の嫁入りに最後まで反対していた。そしてある日を境に、痕跡だけを残して消えた。問の立て方を教え、論を組み立てる術を教えた手は、答え方を教えてくれることはなかった。
「家の神事の記録に、微細な改竄があった――お前の記憶とも、どこかで繋がるかもしれない」
「承知いたしました。私の記憶を辿ることは、朔夜様の御用の端緒ともなりましょう。探しましょう、私の始まりも、あなたの兄上様も」
社殿の外で、東風が新しい匂いを運ぶ。栞宮がゆっくりと、右の掌を差し出した。
「婚礼の式は、形式として執り行いましょう。三々九度は、祈りの均衡を示します。祈りを否定されるおつもりはございませんか」
「私はただ定義を求めるだけだ」
「ならば、祈りは定義と共にありましょう」
栞宮の細く長い指先が、祭壇の上の盃に触れた。目の前に差し出された漆塗りの盃を受け取り、朔夜は僅かに口を付けた。米の甘さ、神域の水の清らかさ、滑らかな器の肌触り。そうして一口だけ喉を湿らすと、朔夜の頬に僅かに朱が浮かんだ。栞宮も盃を受け、礼を尽くして口を付けた。
「これで、あなたは私の伴侶」
「形式上の話だ」
「ええ。けれど形式もまた、意味を持ちます」
その言葉に、朔夜は僅かに目を細めた。慈しみに満ちた笑みをどう受け取って良いのか測りかねたように、居心地が悪そうに視線が揺らぐ。白無垢の襟を指で整え、朔夜は栞宮に向き直った。
「私は神を信じない」
最初の宣言をもう一度、誓いの後に繰り返す。
「だが、お前を否定はしない」
神の顔に、僅かに人の面影が透ける。忘却は未だ深いが、その底に湛えられたものが手を伸ばす気配は確かに残されている。
「ありがとうございます、朔夜様」
「……契約は果たす」
短く答えた声音は淡々としていたが、朔夜の耳の奥にはじんわりと熱が残っていた。
灯篭の火が揺れ、鐘の音が誰にも触れられぬままに響く。夜はまだ浅く、季節は春に深まろうとしていた。





