4-16 火星人の医者
転校生の安積晃一郎は、歩き方と笑い方が変な少年だった。そんな安積の唯一の友人である薄井は、ある日、安積から将来の夢を聞く。
「火星人が病気になったとき、医者か獣医か、どちらが診察すべきだろう。答えはない。僕はそんな火星人の医者になりたい」
「なれるといいね」
なったらしい。安積は、火星人の医者に。
十年後、安積の元を、警察官となった薄井が訪れた。
「バラバラ殺人事件が起きた。困ったことに、死体には右足の骨が二本あった」
「僕が犯人だとでも?」
「いや、解決に協力してほしい。犯人は分かったけど証拠はない。被害者が火星人だと、犯人はそう証言しているんだ。このままでは無差別殺人が起きる。必ず捕まえたい」
火星人の定義も曖昧で、先行きは不透明。それでも、安積は手を貸すと言った。
「君には、恩があるからね」
生まれて初めての出席番号一番をあっさり奪ったのは、中二の二学期に転校してきた安積晃一郎だった。一番を奪われた薄井には一瞥もくれない、品のある少年だった。
背が高く、線が細くて、運動がまるでダメだった。そして歩き方と笑い方が変なうえ、やたら鼻につく喋り方をするので、いかにもモテそうなのに友達はいなかった。
しかし喋り方と歩き方が変なだけで、根の悪い男ではない。安積と同じ高校に進んだ後も、薄井は彼とよく喋っていた。親友と言ってよかった。
「安積はさぁ、将来何になるの?」
高三の文化祭の前日、遅くまで教室の装飾作業をしていた。文化祭実行委員の薄井と、帰宅部の安積の二人きりだった。
「君は?」
「柔道のスポーツ推薦がもう決まってる。安積は?」
「君は火星人を見たことがあるかい?」
「ないよ」
薄井は明瞭に答えた。安積は奇妙なことを、極めて自然に言う癖があった。
「僕は火星人の医者になりたい」
「どうやってなるの?」
「薄井、君は火星人が病気になったとき、獣医か医者か、どちらが診察すべきだと思う?」
薄井は絵筆を止める。
言われてみればどちらだろう。お腹を押さえて転げ回っていたら、普通の病院に連れていく。でもタコみたいな火星人だったら動物病院かも。薄井は素直にそう答えた。
「未知の生物を診るという観点なら獣医が望ましいが、人型で意思疎通も良好ならば、獣医は躊躇われる。かつてアメリカでは、奴隷を獣医が診察していたそうだがね。さて、火星人は果たして、獣医行きか、医者行きか。人魚やケンタウロスでもいい。その場合は病変が上半身か下半身かによるかな」
安積は不気味に笑う。何が面白いのか、薄井には分からなかった。
「で、安積はどこに進むの?」
「僕の進路は、未来の僕にしか分からない」
意外と手先の器用な安積のおかげで、洒落た装飾の教室になった。しかし安積自身は教室の装飾にはまるで興味がなさそうだった。
「じゃ、帰ろう」
安積は鞄を背負うと、惜しげもなく電気を消した。
安積は翌日の文化祭には来なかった。そういう奴だった。それっきり、安積の口から火星人という文言は出なかった。安積が精神科医になったと薄井が聞いたのは十年後である。正直、ははん結論を出せずに逃げたな、と思った。
◆
安積医師のアポは簡単に取れた。約束の時間に大学病院に向かうと、小さなソファに通された。左足を上に組んで座る安積は、医者らしくワイシャツにネクタイを締めて白衣を着ていた。
「久し振りだね、安積」
薄井は汗を拭き、安積に名刺を渡す。向こうからも立派な名刺が返ってきた。
「なんだ、メールをくれたのは薄井だったのか。警察官か、素晴らしい職業だね」
今更褒められたとて、薄井が警察官になったのはかなり前である。
「警察官には愛煙家の印象があるが、あいにく院内は禁煙でね。灰皿はないよ」
「ひどい偏見だね、禁煙中だよ」
「おいおい、喫煙者じゃないか」
二人で笑った時、病院の秘書がアイスコーヒーを机に置いた。薄井は丁寧に頭を下げる。足元のスニーカーがキュッと鳴った。
「今日は警察官としての仕事でさ。墨田区バラバラ殺人事件の話、知ってる?」
安積に思い当たる節はないらしく、不思議そうに首を捻った。
「日中は働いて、夜は寝るようにしているものでね」
誰だってそうだろう。
「簡単に言うと、墨田区でバラバラ死体が見つかった。全身は揃っていない」
安積の目が大きく見開かれる。ニュースに疎いのは本当なのだろう。
河川敷に転がっていた大きなバッグの中の死体は、殆ど白骨化していた。遺留品から身元を特定したは良いが――。
死体には右足の骨が二本あった。
一人の死体ではありえない。複数の死体を一人に見せかけたとか、何らかの儀式とか、巷では決め手に欠ける憶測が流れている。
「安積の意見は?」
「全てにDNA鑑定が先立つ。僕の意見が介入する余地はない」
「これは未公開情報だけど、二本の右足のDNAは一致したよ」
「じゃ、一卵性双生児の死体だね」
安積は即答した。ここまでは科捜研と同意見だった。
当然、その辺りも調べはついている。薄井は被害者の産まれた産院、さらに当時の産科医の自宅さえも訪れた。
「杉尾健太。被害者の名を出したら、産科医は即答してくれたよ。多胎ではないと」
ふむ、と安積は前のめりになった。
「で、薄井はなぜ僕の元へ来たんだい? 僕が犯人だとでも言う気かい」
「……安積は、火星人の医者だから」
薄井は歯切れ悪く答えた。口のつけられていないコーヒーグラスの結露が流れ落ちる。
「確かに僕はかつてそう言ったが、結局火星人に接したことはない。火星人を名乗る地球人なら、診察の余地はあるが」
薄井は苦笑した。きついブラックジョークである。
「捜査は難航していた。だが別件で逮捕した被疑者から〝火星人〟という単語が出た」
傷害事件で逮捕した被疑者だった。【黒曜派】と名乗る、宗教だかカルトだかの団体の一員らしい。
「〝火星人〟の肉を食べると、癌を予防できるらしい。だから被疑者は町で他人を襲ったと。逃げられたため傷害罪に留まった――」
被疑者の主張をまとめるとそうなる。そして被疑者は、バラバラ殺人の被害者、杉尾健太の肉を食べたと言った。仲間が〝狩って〟きたという。
「つまり杉尾氏は、その黒曜派とやらに〝火星人〟として食われたと? 隅田川の河川敷は、いわば貝塚だったというわけか」
「そう。だけど被疑者からは、杉尾健太が火星人たる理由を聞き出せなかった。仲間が狩ったから詳細は分からない、とね。安積は火星人の治療経験はある?」
「……ない。僕は救急科に行くべきだった。外傷の火星人患者を診られるのならね」
安積は心底悔しそうだった。
「火星人の定義について、残念ながら黒曜派は一切喋らない。警察はその定義を把握し、新たな被害者を防がなきゃいけない。黒曜派の通り魔的殺人を、これ以上続けさせてはいけないんだよ! 三ヶ月以内に、証拠を掴んで一網打尽にする。これは絶対なんだ!」
薄井の声には熱が籠る。黒曜派の主張が社会に出れば、大きな混乱を呼ぶ。警察の威信にもかかわる。だが自白だけでは証拠にならない。物的証拠は、現段階では何一つない。
「それで僕のところに来たのか。当時はSF的な夢のある話をしたつもりだったが、現実の〝火星人〟はこんなにもちっぽけな存在だったとはね」
安積は肩を竦めて、コーヒーをすすった。
「だが今の話を聞く限り、君の仮定は恐らく正しい。君はそのまま捜査を続けるべきだ」
グラス越しに、安積が薄井の顔を指さした。
「火星人には右足が二本ある」
被害者の〝火星人〟の杉尾健太には、左足がなく、代わりに右足が二本あった。安積はそう推測する。
「薄井、君もそう確信しているだろう?」
「どうしてそう思うの?」
薄井は意地悪い笑みを浮かべ、一人の友人として安積に尋ねた。
「三十年近く前の分娩が多胎か否か、即答できる産科医なんていない。しかも母親の名前を出したのならともかく、被害者本人の名前だろう? 産院は新生児の名前を感知しない」
だが、その新生児が特別記憶に残れば、話は別だ。
「その産科医は、他にも何か言わなかったかい?」
「……生まれた男の子には右足が二本あった、と」
その産科医の声は震えていた。四十年弱も分娩に携わって、後にも先にもこの一例だけだったそうだ。
「火星人、か」
安積は足を組んだまま天を仰ぐ。
「アポのメールの苗字が違ったから、君が来るのは予想外だった。結婚して改姓したんだね。失礼だが妊娠中とも推察する」
安積の視線は薄井の腹部に向いていた。転校してきた時と同じ、冷静な目をしていた。
「君はコーヒーに手を付けていない。カフェインを避けているのかな。それに、君は禁煙中で、パンプスではなくスニーカーを履いている」
次に安積はコーヒーグラスを指さした。薄井は頷いた。隠したつもりだったが、安積には見抜かれていたらしい。
「薄井、健診で胎児に右足が二本あると指摘されなかったかい?」
安積の切り込んだ問いに、薄井は中々答えられなかった。
逡巡し、深く俯いて、小さく頷いた。夫にも職場にも、まだ伝えていない事実だった。
「だから、事件に熱が入っているのかな」
また、薄井は小さく頷いた。
「……このままだと、出産後、赤ちゃんが黒曜派に狙われちゃうでしょ」
自分のせいで、子供に奇形が生じたのではないかと薄井は自身を責めた。しかも子供の命さえ危険に晒されるとしたら。考えただけで気が狂いそうだった。
「だから、君は三ヶ月以内に証拠を掴むと言ったのか。産休を取らないつもりかい?」
「いくら産休に入ったって、子供が殺されたら意味ないでしょ!」
思わず薄井は叫ぶ。当たり前のことだ。
「医師として勧めるが、産休は取るべきだ。それに、自分を責めてはいけない」
この期に及んで、安積は暢気なことを言う。かっとなった薄井は、思わず立ち上がると鞄を掴んで帰ろうとした。そんな薄井の腕を、机の向こうから安積が掴む。長身の安積は手も長かった。
「僕が証拠を掴めば、君は産休を取れるね?」
安積の言葉は、真剣で力強い。
「薄井、君には大きな恩がある。歩き方が妙でも、運動が苦手でも、君は僕を決して笑わなかった。火星人の医者として、僕は患者を守る。協力させてくれ」
安積は微笑して、クロックスと靴下を脱いだ。
安積には左足がなかった。代わりに、そこには二本目の右足があった。





