4-13 野獣の鎖と小さな炎
物心つく前に領主フレインス・ダ・リヴァンに買われたアリステアは、鉄格子越しの世界しか知らずに育った。 形ばかりは豪華な部屋に閉じこめられ、何不自由もない生活だと言いきかせられながら。
気紛れに訪れるフレインスは美貌の仮面の裏に冷酷さを隠し、罪なきアリステアへ「謝罪」を強要する。心を掻き乱され泣き喚き懇願するさまを、フレインスは糧にしているのだ。
満足して立ち去るフレインスとは裏腹に、アリステアの心は削られ続けていた。
だがある日、「小さな決意」が心に灯り、アリステアは慎重に機会を伺いはじめる。
「この恩知らずが! 城から出ていけ」
「……わかった」
アリステアは機会を逃さなかった。言葉とともに鉄格子は弾け、閉ざされた日々が終わりを告げる。
外の世界を何ひとつ知らないまま、13歳の少女は未知の怪物と魔法が支配する世界へ――
鎖を断たれた炎が、初めての空気を吸い込もうとしていた。
遠くに足音が聴こえる。
アリステア・アージュは部屋の片隅で椅子に座ったまま身体を強ばらせた。
あの人――この城の主であり、わたしを「飼っている」美しき魔物。
『こんな豪華な部屋で暮らせているのだから御領主さまに感謝しなくては』
アリステアは世話をしてくれる使用人たちに、そう言い聞かされて育った。他の部屋を見たことはなかったが、それは本当だろう。使用人たちは明らかに羨ましそうな気配だった。
広々として豪華な設えの部屋。生活に必要なものは全て贅沢品で揃えられていた。使い道のない装飾過多な調度類が並ぶ。
だが、窓もなく、逃げ場はない。部屋の片側が鉄格子。それが普通でないことくらい分かっていた。
肩に触れる長さの白い髪、水色の瞳。化粧台の鏡に映る自分の姿は、あまり見たくない。アリステアは鏡を常に不似合いな布で覆い隠していた。
着せられるレース飾りやフリルたっぷりの黒系のミニドレスは、アリステアの華奢さと、ひ弱さを、際だたせる。背も低くいし、余りにか弱い。十三歳になったばかりらしいことは、使用人が教えてくれた。
レースアップ・ブーツの足音がコツコツと規則正しく強まる。雪花石膏の床の音。彼が近づいている。
物心ついたときには、この部屋に幽閉されていた。領主だという城の主フレインス・ダ・リヴァンは、ゾッとするほど美しい容姿をしている青年だ。その姿は、アリステアが暮らしはじめて十年ほど変わることなく美麗に保たれていた。短めの美しい艶の金髪。威圧と、極上の優しさを浮かべる緑の眼。
金刺繍の施された白い豪華衣装は、彼の威厳と美を引きたてた。
「私が訪ねてきたというのに、出迎えもしないとは」
低く、綺麗で甘い声。けれど、その奥には冷たい鉄の音がある。
アリステアは奥の椅子に座ったまま、わずかに顔を上げたが返事はしなかった。
「無視か?」
ちくちくと罪悪感を抱かせる言葉が続くはずだ。
アリステアは無表情のまま動かず、予想される言葉を頭のなかに廻らせた。
ずっと、身に覚えのないことで謝罪を強要させられる日々。泣き喚き、許しを乞うことを暗に求められる。何故なのか分からないまま、アリステアは従ってきた。フレインスの望みのままに。
フレインスが微笑む気配が感じられた。
その笑顔は、多くの者を魅了してきたのだろう。
だけど、もうわたしには、もう効かない。
「私がどれだけおまえを守ってきたと思っている? おまえの笑顔は、私の生きる理由だ。……それを奪うのか?」
綺麗な声音が嘆息とともに響いた。
守った? 籠に閉じこめたことを?
わたしの笑顔? それは魂をすり減らした残りかすだ……。
心の呟きは、言葉にはしなかった。
「また、黙りか? こんなにも贅沢な暮らしができるのは、誰のお陰だと思っている?」
予想通り。少しずつ怒りの気配が増している。
反応のないアリステアを一瞥するフレインスの表情に、小さな亀裂めいたものが混じった。
*
罪悪感に満たされ、覚えのないことでも反射的に謝罪し、許しを得るために泣き叫んできた。『フレインスさまが護ってくださらなければ、わたしは生きていられません』懇願の末に、数え切れないほど繰りかえした言葉。心にもない謝罪だったのに、いつのまにか本心と区別がつかなくなった。
誘導されるままに謝罪し、懇願し、感謝し、賛美し続ける。
なにもかも、わたしが悪いのだ、とアリステアは思いこんでいた。
『言われたとおりにしなければ、嫌われる』『わたしの判断では危ない』『従わなければ生きていくことができない』心のなかで常に繰り返される言葉たち。『わたしには価値がない』『わたしは何もできない』『なにもかも、わたしが悪い』……
胸の圧迫感が強くなり、呼吸は浅く、何かから必死で視線をそらす。
生き残らなくては。
アリステアをずっと支えていたのは、その思いだけだった。だが、最近は、それすら手放して壊れてしまいたくなっている。
消耗が激しすぎる。『何かおかしい』という違和感すら芽生える隙がない。
失望を示すフレインスの気配は、何よりもアリステアの心を切り裂く刃だ。
生きる……ため。
『御領主さまに嫌われてしまったら生きていかれない』
そう吹きこみながら世話をしてくれる使用人たちは、貴族の令嬢に接するような丁寧さ。だがフレインスの傀儡なのだ。
味方はいない。
交わした言葉は逐一報告され、フレインスがアリステアを責めたてる口実にされる。アリステアは寡黙になった。以前は会話を交わした親切な使用人とも、もう喋ることはない。
何が逆鱗という名のフレインスの思惑に合致してしまうのか、見当もつかなかった。
それなのに、フレインスに尽くしたいという思い。それはアリステアの深くに存在していた。
フレインスが満足そうな笑みを浮かべる。その瞬間だけは自分に価値があるように思えた。生きるための儚いよすが。
けれど、もう疲れ果ててしまった。なんのために従い続けているのか。生きていられないほうが、マシなのではないか。そんな思いが廻り続けた。
そして、ある夜。自分の存在が消えてしまう、そんな極限状態に朦朧とした刹那――。
ふと、心の奥底に小さな光が灯ったのだ。いや、何かが小さく甦った。淡く曖昧な思念のような、小さな希望。
それ以来、内心で膨らむ思いはおくびにも出さずアリステアはずっと待ちつづけていた。
*
「何不自由ない生活」といわれる自由なき鳥籠。ここに住めなくなったら生きていられない、と厳重に植えつけられた恐怖。生存本能に突き動かされ、心底からの奉仕として真心を差しだし続けた日々。
ようやく、少しずつ気づきはじめた。
フレインスは直接の接触はしないのに、魔力ではなく恐らく精神力を奪っていく。昨今では、アリステアの精神力はすっかり枯渇し、なけなしの魔力で補っていた。それも、もう限界。
尽きたら……壊れる。
アリステアは相変わらず椅子に座ったまま動かず、応えず、敬わず、フレインスが激怒するのを待った。
激昂は、油断を誘うはずだ。
「黙っていれば許されると思うのか? おまえは私がいなければ、生きられないんだぞ」
「……そう……?」
猫なで声に、アリステアは無愛想に訊く。怒りに火を注ぐように。
フレインスの美麗な顔が、ピクッと、反応した。
ほんの微かな罅が空間に刻まれたような感覚――。
その歪みが、アリステアに潜む小さな光に点火する。
それは、遠かった声を甦らせた。
もっとも古い記憶のどこかで、耳元に、そっと囁かれた言葉。
『耐えなくていい日がくる。そのときまで、自分の心だけは手放さないで』
誰の声なのかも分からない。だが声とともに小さな光は心のなかで炎と化していった。そしてフレインスの言葉を焼き尽くすほどに強くなっている。
――時がきたのだ。
「……もう、あなたの中には入らない」
アリステアがそう告げると、フレインスの緑の瞳が一瞬だけ不安そうに揺らいだ。それは初めて見る表情だった。
「何を言っている?」
声に焦りが混じっている。フレインスは怒りにまかせたように鉄格子を掴むと揺さぶった。狂気めいた表情が美貌に透けてみえる。
「おまえは私を必要としているはずだ。外には、おまえを傷つける者しかいない。おまえは弱い。だから――」
「弱いままでいい。でも、あなたの鎖は要らない」
言葉が、彼の胸の奥に突き刺さっていくのが分かる。
わたしから……奪えていない。
支配が効かないと、気づいたのか。それだけで淡く暴露されはじめるフレインスの脆さ。今のアリステアには手にとるように鮮明に感じられていた。
野獣が牙を失った瞬間のよう……だ。
「この恩知らずが! 城から出ていけ」
そう、この言葉を待っていた――!
「……わかった」
静かに呟いてアリステアは立ちあがる。フレインスが求める懇願をしない。ただそれだけで支配が外れている。
重い錠は弾け、光と化して消滅した。
アリステアは鉄格子の扉に近づき、どきどきを隠しながら潜る。慣れたような自然さで。
フレインスは理解できないのだろう。本来なら『お願いです。ここに居させてください。フレインスさまに見捨てられては生きていかれません』と泣き崩れる。少なくとも、フレインスはそれを期待していたはず。
辛うじて美麗さを保持し立ちつくすフレインスは、必死で考えている表情だ。
牢からでることができた――
鉄格子越しに見慣れていたはずの景色なのに、広大な世界が開いている。
「おまえがいなくなったら、私は……」
ようやく絞りだすようなフレインスの声が響いた。アリステアは無視して歩きだす。憐憫と同情を誘う声で引き戻すつもり。いつもの手だ。
「それは、あなたの責任」
微かな声ですれ違いざまに応える。『これは、わたしの罪じゃない』。心に何度も言いきかせた。
罪悪感を抱かせ操るフレインスの手管。もう、その手にはのらない。千載一遇、この機会を逃したらもう助からない。
「恩知らずが……!」
「恩?」
――わたしは、もう泣かない。二度と餌には戻らない。





