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4-10 心の雫はかく語りき

 ルクソリア王国宮廷に仕える心雫士(ラクリメール)、セラフィーヌ・ノエルは、鑑定する相手の涙を舌で味わうことで本心を読み取る異能を持つ。魔道具「月銀の盃」を使って秘かに涙を掬い取り、外交や裁判の場で欺瞞を暴くほか、王太子殿下に迫る令嬢たちの本心を推し量る。

 今夜の晩餐会でも、伯爵令嬢の涙を通して透けて見えた本心は虚飾に彩られたものだった。王太子がどれほど純粋に愛を求めても、差し出されるのはそうした虚飾ばかり。蜜のように甘い涙は欲望の毒に塗れ、彼女が鑑定結果を告げるたびに殿下は孤独を深め、枯れたように笑う。幾度も裏切られ、やがて殿下自身の涙さえも枯れ果てる。

 その哀しみに触れ続けたセラフィーヌは、守るはずの力が彼を傷つけていると悟り、胸の奥にひとつの決意を抱くのだった。

 涙は、人の心を映す鏡だ。悦びも、哀しみも。そして恋心も。

 涙をひと(すく)い。その(しずく)をそっと舌の上で転がせば、たちまち本心が見えてくる。巧みな言葉や仕草で、どんなに虚言を(ろう)したとて、そのヴェールを瞬く間に剝ぎ取ってしまう。それが、王国ルクソリア宮廷に仕える心雫士(ラクリメール)こと、私――セラフィーヌ・ノエルの務めだった。


 謁見の間の後方、壁際のカーテンの影で壁の滲みと同化した私を気にする者はいない。そこで私は高窓から差し込む光の輪の中に居る人々を眺めている。商業都市国家コルディーマから訪れた使節団が、我が国への経済支援を申し出ているところだった。恰幅の良いお腹を揺らしながら、使節団長の男が、かかかと高笑いをあげる。

「なにも、そう警戒されるには及びませぬ。えぇ、無償ですとも。条件はただ一つ。王都での自由な商い、これを保障していただきたい。それだけでございます」

「しかし、それでは、こちらにばかり利があるようで、何やら恐縮してしまうが……」

 我らがルクソリア王が、そう言って困惑する。


 王のそばには、リュシアン・ド・ルクソリア殿下が控えている。ルクソリア王国の第一王子であり、私の直属の上司でもある。その王太子殿下の蛙を射すくめる蛇のような視線を感じ、私は肩をすくめた。腕に下げた巾着から、小振りな盃を一つ取り出す。黒曜石を薄く削り、銀の粉を散らした逸品。黒光りする器には、長い黒髪をざっくりと後ろで束ねた憂鬱な表情の冴えない娘が映り込んでいる。その瞳には光りはなく、感情を殺し、ぼうと盃を眺めている。


 ――我ながら、生気の薄い顔だこと。


 盃の中央には、目を惹く涙滴型の青い宝玉が埋まっている。まるで、夜空に輝く月を写したよう……それが月銀の盃の由来でもある。

 私は盃の中央の青い宝玉を使節団長へと向けた。すると、宝玉が柔らかな輝きを放ち、それが元に戻った時、盃の内側にほんの一滴、水滴がころころと転がっていた。

 盃を傾け、その水滴を縁へと誘導する。あまりに小さな雫なので、盃の縁からこぼれ落ちることなく、ぶらさがる。それを口元へと運び、そっと舌で受ける。


 ――ううう……。


 月銀の盃は、盃を向けた相手の涙を掬い取る。離れたところで、しかも泣いてもいない相手からであっても一滴の涙を得ることのできる魔道具だ。もし、この道具が無ければ、頬を伝う涙をぺろぺろと舐めなければならないところ。それが避けられるというだけで素晴らしい道具には違いないのだが。


 ――なんで、うら若い乙女の私が、あんな……じいじよりも歳上のおっさんの涙を舐めなきゃ、なんないのかしら!


 特殊能力を活かした、自分にしか出来ない仕事ではあるのだが。抵抗を感じないわけではない。何度やっても、慣れるということがない。それでも、心を無にして、舌の上で滴を受けて転がす。

 途端に、舌に感じる、鉄錆の苦味。


 思わず、嘔吐(えず)きながら、私は、しかめっ面で首を横にふる。

 そんな私の様子を謁見の檀上から見下ろしていた王太子殿下は、父王陛下にそっと耳打ちをする。

 「ふむ……よくよく検討してみよう」

 「は、どうぞよしなに。よろしくお願いいたします」


 私の鑑定を踏まえ、後程、使節団には却下と伝えられることだろう。謁見が無難に終わる様子を尻目に、私はトワレへと走る。一刻も早く、口をゆすぎたい。


「なぁ、それは本当に涙、なのか?」

 ある時、王太子殿下が戯れに私に質問したことがある。

「えぇ、殿下。この盃は、仕向けた相手の()を集める物でございます」

「液体様の物には違いなかろうが、どうして涙だとわかるのだ? 汗か、鼻水か、小水……」

「それ以上は! 殿下。どうか、それ以上はおやめくださいまし」

 冗談じゃない。私はあの会話依頼、このお勤めが嫌で嫌で溜まらないのだ。


 だが、私の特殊能力は、弱小国家であるルクソリアの外交において、非常に重要であり、類似の能力を持つ者もいない。そのため私は、外交ばかりか、裁判、葬儀、芸術鑑賞など、王や王家が関わる様々な催事の場に秘かに呼ばれ、王国のために、欺瞞を見抜く役目を負わされている。実は、それらとは別に、本来の使命があるのだが、以前に比べ、その使命で呼びだされることは、かなり稀になっていた。


 ※


 一段高く作られた檀上で弦管混成の奏楽士たちによって奏でられる音楽が、静かに場を支配する。そんな晩餐会の真ん中で、クルーディア伯爵令嬢が、そっと目頭を押さえながら、切々と彼女の悲しい生い立ちについて語っている。話し相手は、リュシアン殿下。

 話し声は聞こえないが、令嬢の悲しみに耐えないという表情、王太子殿下の一言にぱっと目を輝かせ、今度は嬉しそうに微笑む表情、更には嬉し涙で塗れる瞼を抑える仕草と、感情が目まぐるしく変化する様子は壁際のカーテンの影から見守る私にも、ありありと見てとれる。


 ――これ、心雫(しんだ)の必要あるのかしら?


 伯爵令嬢の仕草や表情の一つ一つが、どこか芝居がかっていて嘘くさく、鑑定するまでもないと感じてしまう。


 ――でも。これが、私の本来のお勤めだしね。仕方ない。


 私は、月銀の盃を取り出すと、中央の青い宝玉をそっと伯爵令嬢の方へと向けた。


 ――おっさんよりは、年の近い同性の方がまだましか。


 そうは、思うが、盃に映り込む私の顔は、やはり暗い。それは、他人の涙(断じて、それ以外の体液ではないわ!)を舐めねばならないことばかりが理由ではなかった。盃を傾け、雫を口元へと運び、そっと舌で受ける。舌の上で、その滴を転がす。


 ――ざらつく砂糖菓子のような甘さ。


 あぁ。これは、もう何度も味わってきた、政略と権威への欲望の味だ。私は大きくため息をついた。


 ――どうしよう。また、殿下を傷つけてしまう。


 後で私は王太子殿下にこの事実を包み隠さず、伝えねばならない。私のせいではないのだが、殿下は私の言葉に傷つき、悲しまれる。私は、芝居を続けるクルーディア伯爵令嬢を恨めしく一瞥すると、私にあてがわれた個室へと引き下がった。


「入るぞ」

 殿下が、そう一声かけて入ってきた。

 余程、伯爵令嬢のお相手をするのに疲れたのだろう。深々と椅子に座って、水差しからグラスに水を注ぐと一気に飲み干した。

 ふぅと大きくため息をつく。その一挙手一動すべてが、殿下自ら察しておいでであることを表していた。


「虚飾です」

 私は、前置きなく、そっと報告した。殿下は盃と私の能力に絶大な信を置いてくださっている。私の鑑定結果を素直に受け止めてくださる。それだけに、殿下が「そうか」と小さく微笑む様子が痛々しい。その笑みは、唇の形だけを保ったもの。蒼い瞳は揺らがず、乾いた湖面のように静まり返っている。続くねぎらいの言葉は、私に向けられたというよりも、どこか独り言のようだった。


 殿下の乾いた微笑が辛かった。あの笑みは鎧だ。幾度も裏切られ続けてきた心に、幾重にも重ねられた鉄の鎧。触れる者を寄せつけず、本人をも内側から締めつける。重みで血が滲もうとも、殿下は外そうとなさらない。裏切られる度に重ねられた、孤独な鎧。


 あぁ。眼前の利発、聡明な王太子が欲しておられるのは、ただただ純粋な愛だというのに。早くに国母様を亡くされているため、対等な異性というよりは、包み込むような母の愛を与えてくれる、そんな女性を欲しておられる、十八歳の、心に寂しさを囲う青年なのだ。


 私は真実を告げることで殿下をお守りしているはずだ。なのに、私の言葉に殿下はその孤独を深めてゆく。私の舌は、国を守る盾であると同時に、殿下を切り裂く剣なのだ。

 舌の上の、砂糖菓子のようなざらついた感触が消えない。それは、蜜のように甘いが、心を蝕む毒だ。それを飲み続けてきた私の心は、殿下を傷つけ、私を傷つけ、悲鳴をあげている。


 私は、悔しかった。

 殿下を傷つける者が許せなかった。そこには、私自身も含まれる。

 その時。舌先に爽やかな塩味を感じ、どきっとした。


「どうした。セラフィーヌ嬢、泣いてるのかい?」


 殿下のその一言に、はっとした。いつしか、私の頬が濡れていた。


「すみません……その、殿下がお可哀そうで。悔しかったものですから……」

「そうか。私のために泣いてくれていたか。ありがとう」


 私は、震える声で、そう答えるのが精一杯だった。自分の涙の中に、決して表に出してはならない感情を見出し、ただただ驚いていた。


「なぁ、そうだ。俺の涙はどんな味がするんだろうな?」

「え?」


 いつもの戯れか。殿下は私が肌身離さず持ち歩く巾着を指さし言った。月銀の盃で殿下の涙を掬い取れと、そういうことらしい。


「お戯れを……」


 私は、今しがた知ってしまった自分の中の感情を持て余し、それどころではなかった。泣き顔を見られてしまったこと以上に恥ずかしく、耳まで真っ赤になる。どうか私の動悸が殿下に聞こえていませんように。頬をぐしぐしと袖口で拭いていると、殿下がハンカチを差し出す。


「な。頼むよ」


 仕方なく、私は巾着の口を解いて、盃を取り出した。中央の青い宝玉を殿下に向ける。殿下の瞳は、その宝玉よりも澄んでいて美しい。

 が、青い宝玉は冷たく沈黙したままだった。盃の黒々とした表面に映るのは、殿下の涙ではなく、赤く腫れた私自身の目だけ。


「どう?」

「すみません。できません」


 咄嗟に、畏れ多くてできないと取り繕う。哀しみと孤独の中で、殿下の涙は枯れてしまったのだろうか。


 ――ならば。私が。私が殿下を泣かせてみせましょう。

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