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音楽室と体育館  作者: 多手ててと


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92.中学3年生・冬(その2)

その週も私は谷山先生の自宅を訪れてピアノのレッスンを受けた。今日が最後だと谷山先生の告げなければいけない。10年以上続けてきたレッスン。その最終日ぐらいはちゃんと集中しなければいけない。


私はピアノの鍵盤を叩く。ベートーヴェンのピアノソナタ第26番変ホ長調、ベートーヴェンの中期の作品として有名だ。音楽をやっていない人でも知っている程ではないけれど。難易度的にはピアノソナタの中ではそこそこ高めだが、自分ではなかなかうまく弾けていると思う。でもなかなか先生の合格が得られない。最後の3楽章まで弾いた後、谷山先生に訊ねてみた。


「まだだめね、この曲がどういう曲かは知っているでしょう? 心あらずで、感情がまるで籠ってこないわね。特に第3楽章。ここは再会の歓びを表すところでしょう?」


つい最近私は知ったことがある。群星高校のバレー部員は全員が寮に入らなければならないということだ。それを知って私は不安を覚える一方で安心したこともあった。だってバレーボールで進学して、寮に入らなければならないのだから、ピアノのレッスンを続けることができないのは当たり前だ。仕方がないことだ。


それなのに私はそれを先生に告げることはできなかった。だって幼稚園の頃からここに通っていた。私がまだ指がオクターブどころか完全5度すら手を思いっきり開かないと弾けなかった頃からここに通って、私に教え続けてきてくれた人だ。ツェルニーも卒業したし、ベートーヴェンのピアノソナタだって、「ハンマークラヴィーア」だって弾いたことはある。万全とは言えないかもしれないが、今弾いている曲よりはかなり難しい曲だっていくつも弾いてきた。だから技術ではなくて、表現の問題で私は今ダメ出しをされている。


私はもう一度ピアノソナタ第26番を頭から弾き始めた。でも第一楽章を弾き終えた時にはもう指が動かなくなっていた。


もう先生に、レッスンには来られませんと。バレーボールに専念しますと伝えなければならない。だって寮に入るのだからピアノレッスンなんて無理だ。


「先生。私は高校から寮に入ることになりました。バレーボールの強豪校に進学するためです。ですから、もうレッスンにも来られません」


幼稚園の頃から通い詰めた先生のこのお宅にももう来ることはできない。レッスンの途中、唐突に私が意を決して吐き出した言葉を先生は、まるで時候の挨拶を耳にしたかのように淡々と答えた。


「そう」


だだ、そう、とだけ。残念ねとも、長い間頑張ったわね、ともなにも言われなかった。


「はい。だから今日でレッスンは最後にしようと思っています」


「そう。じゃあ第一楽章からもう一度弾いてみなさい」


私は少し陰鬱な気分で第26番を第一楽章から弾き始めた。できるだけ感情をこめようと思ったがうまく考えがまとまらない。でも指は動き、曲はドンドン進んでいく。そして第一楽章を終え、第二楽章を始めようとしたところで先生が突然講評をおっしゃった。


「今は上手く弾けたと思うわよ。でももう時間だし、第2楽章と第3楽章は、いずれまたいつか縁があれば聞かせて」


こんな中途半端なところでレッスンを終えたのは初めてだ。


「これまでありがとうございました。あまり先生の期待にも応えられず申し訳ありませんでした」


私は思い切り頭を下げた。


「そう。多分私があなたにピアノを教えることはもうないでしょう。でもあなたのピアノを聞くことはまたあるような気がするの。その時はまた聴かせてね」


私がこのピアノソナタ26番「告別」を、先生が満足できるレベルで弾けるようになるかどうかはまだわからない。でもこの後、私がピアノに専念することはないだろうから多分無理だ。


レッスンが終わり、先生の家の軒先で私は深々と頭を下げて、先生にこれまでの礼を告げた。


「これまで10年以上もありがとうございました」


本当は失礼をわびた方がいいのかもしれないが、それを告げるべきではないと思った。


先生が軽くうなずかれるのを見て、私は駆け出した。そうだこれからはバレーボールに専念するんだ。そして3年間のうちにインターハイや春高に出れる選手になるんだ。私は自分に言いきかせながら全力で駆けた。


この後私は2年半近く、谷山先生とは電話ですらお話をすることが無かった。3年以上後になって、この時点ではまだ面識の無かった、咲先生に連れられてここにお訪ねするまで、顔を合わせることはなかった。

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