90.日置華菜(その3)
少しざわめきが残ったまま、また腕章をしたカメラ小僧どもが舞台の上で写真を撮り始めるのをきにせず、吹雪先輩がマイクで話始める。
「ここ1時間ぐらい、音楽ばかりやっているので、疲れてしまった人もいると思いますので、遠慮なく寝てください」
体育館に少し笑いが起きる。
「英語の曲ばかり続いてすいませんが、1曲目は『Can't Take My Eyes Off Of You』、邦題は『君の瞳に恋してる』です。2曲目はピアノで、パッハベルの『カノン』を弾きます。どちらもとても有名な曲なので、みなさんご存じではないでしょうか。3曲目は私のオリジナルで『おやすみなさい』です。人前で弾くのは初めての曲です。文字通り子守唄なので、皆さんおやすみになっていただければと思います。時間もないので3曲続けて演奏します」
拍手がおきるが、それを無視するかのようにゆっくりと、だが澄んだ音色を響かせる。聞き覚えのあるイントロをピアノが奏でる。先ほどまで弾いていた子もすごく上手だと思ったけど、出だしの数秒間を聴いただけで吹雪先輩のピアノが先ほどの子のものとは全然違うのがわかる。速いわけじゃない、むしろゆっくりで、いたってシンプルにメロディーを弾いているだけなのに、全然違う楽器のように澄んだ音が聞こえる。
そして吹雪先輩の歌が始まる。英語だから全然聞き取れないけど、何度か耳にした歌だ。吹雪先輩はまるで男性のような低い声を出して歌っている。低いのによく通る声だ。あれっ、よく通る? 吹雪先輩は曲が始まる前のMCではマイクを使っていたのに、歌に入ってからはマイクを使っていない。私たちは結構前の方にいるけれど、ちゃんと後ろの方まで聞こえてそうだ。ゆっくりで、低くて、声も張り上げているわけではないのに、それでいてどこか軽快な感じがするのはなぜだろう。不思議に心の中に染み入ってくる感じがする。
それが間奏に入った途端に一転して、ピアノのテンポが上がり音の数も増えてにぎやかな曲になった。ああ、この繰り返される間奏を聴いていると心がウキウキしてくる。そして再び歌が始まった。声が高くなり、テンポもさらに速くなった。でも声量はピアノに負けていない。はっきりと歌が聞こえる。ピアノだって間奏の時と同じように軽快かつ高速に連続した、たくさんの音色を響かせているのに。そしてそのまま2番に入った。2番は1番のサビで上がった音色とテンポを保っている。
テンポが速いだけじゃなくて、色んな音が1番よりも増えているのがわかる。そしてサビ前の間奏に入る時、さらに音色とテンポが上がった。サビの途中では笛みたいに高い歌声が混じる。そしてサビが終わると歌声が終わりピアノも終わった。
もちろん私は思いっきり拍手をした。流石藝大を出た人だ。ピアノも歌もめちゃくちゃ上手い。さっきまでの高校生の歌やピアノとは、バレーボールの日本代表と全国に運よく出て来れた高校生ぐらい違うのが、私にでもわかる。
私が高校生の時に、聞かせてもらえばよかった。
吹雪先輩は拍手の最中にもう次の曲を弾き始める。これは私でも知っている。「カノン」だ。これもゆっくり弾いているのに、普通の人のピアノとは全然違うのがわかる。厳かな雰囲気がこの体育館を包む。ただ、正直言うと歌が無いせいかもしれないけれど、1曲目に比べるとちょっと物足りない気がする。私がそう思っていると曲がどんどん盛り上がって行って、そしてやや唐突に終わった。いや違う。かなり低い音だけがロックのベースのように、かなりアップテンポで弾かれている。そこからも右手が入って、「カノン」だけど、ロックみたいに音が飛んだり鍵盤を滑らしたりとどんどんアレンジして、また私はいつの間にか聞き入っていた。鍵盤を叩く吹雪先輩はバレーをやっている時にも負けないぐらいカッコイイ。
そして3曲目は本当に落ち着いた曲だった。頑張った恋人を、力を尽くした子どもを、全力で戦った仲間を、ゆっくり眠らせるための優しい音色と声。ピアノも声も時に高く低く音が変わるけれど、ゆっくり優しいペースは変わらない。そして中途半端にいきなりピアノが途切れる。これでこの曲終わったの? 拍手するべきところ? 吹雪先輩は立ち上がって舞台の前に出ると最後にアカペラで「おやすみなさい」とゆっくり歌って歌を終わらせた。そして深々と礼をすると大きな拍手に包まれたが、そのまま出て行った。
吹雪先輩はピアノや歌の世界でも日本代表になれるんじゃないのかな。そういったものがあればだけど。
「すごかったわね」
椿先輩が話しかけてきた。私はただうなずくことしかできなかった。
「やっぱり吹雪がバレーに専念するのは無理やね」
早苗先輩はどことなく不機嫌そうだった。そうだもうすぐVリーグが始まる。椿先輩も、吹雪先輩も、私もみんな所属するチームはバラバラだ。早苗先輩もトルコリーグに戻るはずだ。すぐにこれまでの自主トレ中心の練習から、コンビネーション中心の練習が始まる。
私は意識をいつものように切り替えた。切り替えたつもりだった。でも吹雪先輩のピアノと歌声が頭から離れなかった。




