53.高校3年生・冬(その3)
愛媛のマドンナカップから帰る途中、新大阪駅で早苗と別れた。インターハイ後の休みの間、早苗は私とビーチの練習をしていたから、実家に帰っていない。だから監督が珍しく早苗に実家で休むように伝えたのだ。私も早苗も互いに泣き顔を隠さなかった。2学期に教室で会うことはあっても、もう一緒にバレーをすることはないだろうと思った。
そして私はそのまま新幹線に乗って家に帰った。次の日、私は散々迷った末に、昔ピアノを教えてくれた谷山先生に、意を決して電話をかけた。
いつも無表情で怖い先生だったけど、小学生の頃の私は先生にとても期待されていたのだと思う。発表会で初めて演奏したのは小3の時だったが、流石谷山先生のお弟子さんだと、周りの人から口々に言われた。その後は朝コンとか、有名どころのコンクールにも出るようになり、私は入賞者の常連になった。
絶対に世界に飛び立てるピアニストに成れる、そう思って、老骨に鞭を打って先生は私を鍛えに鍛えてくれたのだと思う。
だが中学に入ると私はバレーボール部に誘われた。当時から体が大きかったからだ。その頃私はピアノに飽きていたのだろう。小2の時に覚えたはずの音楽の楽しさも、忘れていたのだと思う。それぐらいバレーボールは魅力的だった。どんどんバレーボールに熱中するようになり、逆にピアノはおざなりになった。先生はもっと鍵盤を叩こうと、コンクールに出ようと私を叱咤したが、私が出たのはバレーボールの大会だった。結局中3まで谷山先生の元でレッスンを続けたが、それはもう惰性になっていて、群星からバレーでスカウトされる頃には、コンクールに出るかと聞かれることすら無くなっていた。
「高校では寮に入ってバレーボールをするのでもう通えません」
私がそう谷山先生に告げた時、先生は一言、そう、とだけ口にされた。もう諦めていたのは間違いない。私は谷山先生を裏切ったのだ。
そして今度は早苗を裏切った。日本バレーボール協会も裏切った。その上で過去に裏切った谷山先生に、恥知らずな私は電話を掛けた。
「はい、谷山です」
先生の声だとすぐにわかった。でもこんなに頼りない声を出す人だっただろうか。私の記憶ではもっと厳しい声を出す、いや厳しい声しか出さない先生だった。
「大変ご無沙汰してます。長崎吹雪です」
私はすごく緊張しながらなんとか声を絞り出した。
「ああ、久しぶりね。元気でやっているようね」
先生の柔らかい言葉に私はとても驚いた。中学生の時、私がバレーボールを始めたことに先生は反対された。バスケットほどではないにせよ、指を痛める以外のなにものでもないと。でも私はバレーを選択し、ピアノを、音楽をないがしろにして、そしてレッスンを辞めた。だから、先生も私への興味を無くしたはずだと思っていた。
「今の私をご存じなのですか?」
先生は私の言葉を肯定された。
「ええ。つい最近はインターハイに、そしてつい昨日マドンナカップでも優勝したわね。おめでとう。それに去年からその年で日本代表にも選ばれているわね」
本当に私のことをよくご存じのようだ。
「私はあなたをピアノの世界で表舞台に上げることができると思っていたわ。でもそれは間違いだった。あなたは中学生からバレーボールを初めて、たった5年足らずで本当に世界に出て行ったんですもの」
しばらく私はなにも言えなかった。そして先生も無言だった。このままではだめだ。私には今先生にお願いしなければいけないことがある。
「先生。私は昨日バレーボールを一時的にですが止めました。またピアノを弾くためです。音大に入って教員免許を取りたいと考えています」
谷山先生はなにもおっしゃらなかった。
「先生、もう一度私にピアノを教えて頂けないでしょうか」
しばらく沈黙した後、先生が口を開かれた。
「ごめんなさいね。あなたが去った後、私はもう誰にも教えていないし、これからも教えるつもりはないの。あなたが来た時、私はとうの昔にピアニストとしては引退していたし、ピアノ教師としても年齢の限界を感じていたの。あなたが私のところにきた時、教えていた子はもうたったひとりしかいなかった。その子が大学に入ったらピアノを教えるのは、もう止めるつもりだったの。でもあなたに会って、私はあなたに教える気になった。でもやっぱり無理だったのよ。やはり年には勝てないの。もし私がもう少し若かったら、あなたがバレーボールをすることは無かったでしょう」
また沈黙が続いた。
「でもそうね。私の元教え子を紹介するわ。あなたは私の最後の弟子だけど、私にとって最後から二番目の子よ。今年、大学院を出たばっかりで、この世界で食べていける素質はあるんだけど、まだ実績がないの。どうかしら?」
先生は今も私を弟子だと言ってくれた。私はすぐに答えた。
「先生に教えていただけないのは残念ですが、先生にご紹介いただける兄弟子か姉弟子の方に教わりたいと思います」
谷山先生も一呼吸だけおいておっしゃった。
「わかったわ。それではあなたの姉弟子の予定を聞いておくわね」
「お願いします」
そう言って私は電話を切った。女性の先生なのは少し安心した。そして、電話ではなく直接お会いしに行ってお話すればよかったと思った。




