80、あんぱん
「あかりさん。何をしているのですか」
紫乃が一生懸命弓奈の情報集めをしているというのに、別行動中のあかりときたらペットショップの前で道草を食っている。今日は8月16日。憧れの弓奈さんが京都にいるのも残り数十時間なのだから本気で探さなければならないというのに、呑気な後輩である。
「あ、見つかっちゃった。なんでもないですよぉ先輩。ただこういうのよもぎが好きなんですよねぇ」
「よもぎが・・・?」
「じゃあ私あっちで聞き込みしてきまーす」
あかりは気合いを入れ直した様子で大通りへ出ていった。
紫乃とポメラニアンのよもぎはすっかり仲良しになっていた。お布団にうつ伏せで寝転がったままよもぎの耳のうしろのふわふわ柔らかい毛を触るひと時はなかなかに幸せである。いつだってしっぽを振って紫乃を迎えてくれるよもぎは、過酷な弓奈さん探しの旅に放たれた一筋の癒しの光である。
「よもぎが・・・」
あかりが見ていたのはペット用品販売店のラックに並べられた、パンやお菓子をかたどったビニール製のおもちゃである。
「よもぎ・・・」
紫乃はラックの奥から魅力的なあんぱんを見つけた。しかもこいつ、手に取ってぎゅっと押してみるとピーと愛らしく鳴くではないか。紫乃は思わず店頭で妄想を始めてしまった。
夕間暮れのローズガーデンを紫乃と弓奈は仲良く散歩している。
「紫乃ちゃん」
「なんですか」
「手ぇつないでいい?」
弓奈さんは外でもおかまいなしにベタベタしてくる。恋人同士とはいえもう少し場をわきまえたイチャイチャをして欲しいものである。
「仕方ないですね・・・手をつなぐだけですよ」
「ありがとっ」
指を一本一本絡ませて、シルクのようなすべすべ素肌を腕のあたりに触れ合わせながら、紫乃は体じゅうがじんじんと燃えてとろけるのを感じた。おそらく紫乃の顔は真っ赤である。
「紫乃ちゃん。もうひとつお願いがあるんだけど」
「な、なんですか」
「・・・チュウしても、いい?」
「えっ」
いつのまにか弓奈さんは紫乃の体を赤いレンガの塀に押し付けてキスを迫っていたのだった。
「だっ! だめです! 人が見てます! せめて家に戻ってから・・・」
弓奈さんは体を密着させて耳元でささやいた。
「私もう、がまんできないよ・・・」
「なにかお探しですか?」
「わあ!」
怪しんだペット用品店のおねえさんが紫乃に話しかけてきた。このあと家に帰ってよもぎが元気に出迎えて弓奈さんと一緒にあんぱんのおもちゃで仲良く遊ぶ予定だったのに、思いがけず弓奈さんとの恋の風景に時間を費やしてしまったため、よもぎの登場シーンにたどり着かなかった。
「いえ・・・なんでもないです」
紫乃は逃げるようにお店を去った。
「よもぎ・・・」
あのあんぱんがあればもっとよもぎと親しくなれることは確かである。明日の朝には京都を去らなくてはいけない紫乃にとって、これはよもぎに恩返しできる最後の機会に違いないのだ。紫乃は歩道の日陰を辿りながら悩んだ。あんぱんのおもちゃなど400円くらいで買えるのだから、昼食のデザートを何度かガマンすれば簡単に入手できるのだが、実は紫乃には他にお金を使う予定があるのだ。
先日、あかりと行動を共にしているとき、お土産店にて紫乃はとてもかわいいストラップを見つけた。白と薄紅色の美しいグラデーションのかかった三つのキラキラ輝く花が縦に連なる乙女系ストラップだ。紫乃はこれをどうしても弓奈さんに買っていきたくなったのだ。よく考えると京都となんの関係もない品だし、携帯を持っていない弓奈さんにストラップを買っていっても付ける場所に困るし、そもそも紫乃がお土産を買うのはおかしい。けれどもう紫乃の頭の中はこのお土産計画でいっぱいだったのだ。あのストラップはかなり高級らしく生意気にも2480円もするから、帰りの新幹線代もお小遣いから出さなくてはならない紫乃に、あんぱんのおもちゃに浮気している余裕などないのである。
聞き込みをしながら紫乃は先日のお土産店の前にやってきた。あかりが近くにいないことを確認した紫乃は売り場を覗いた。あのストラップは無事残っている。爽やかなライトグリーンや淡い紫色、透き通るブルーなど様々な種類があったが、やはり弓奈さんには桃色しかないと紫乃は思った。
「ワン」
突如紫乃の足元でよもぎと見紛うトイプードルが小さく鳴いて挨拶してきた。お隣りのお豆腐屋のわんちゃんがたまに顔を出すらしい。この瞬間、池の水面に木の葉が落ちるように、紫乃の胸の真ん中にひらひらと迷いが舞い込んで彼女の心を穏やかに揺らした。ここでストラップを買うことは、果たして正しい選択なのだろうか・・・自分は自分のことだけを考えているのではないだろうか・・・そんな疑問が蝉時雨のように降り注いで止まなくなった。弓奈さんのためといいながら、それは自分が彼女の気を引きたいだけに違いないし、そのために大切な友人であるよもぎへの恩返しの機会を手放すなど、おそらくやってはいけないことである。少なくとも、弓奈さんだったらそんな非情なことはしないだろうと紫乃は思った。
「なにかお悩み中ですか」
肩を落とした紫乃の姿をずっとレジから見ていた京都美人が彼女に声をかけてきた。
「い、いえ別に・・・」
紫乃は手に取っていたストラップを元あった場所に戻してうつむいた。しかしこのレジのおねえさんは、先日あかりと一緒にここの前を通った紫乃を見かけており、その時から紫乃がこのストラップを気にかけていたことに気づいていたのだった。
「お小遣いはいくらお持ちなんですか」
「え・・・」
値段で悩んでいることがバレているようなので紫乃は頬が熱くなった。
「いえ・・・お金は・・・あるんですけど」
おねえさんはお店の奥を覗いてから、小声でささやいてくれた。
「少しお安くいたしましょうか」
おねえさんは優しく微笑んでいる。
「お、お安く?」
「1500円くらいでどうですか」
おねえさんの肩越しに空色の風鈴がきらきら揺れていた。
「せ、せせんごひゃく・・・いいんですか!」
「はい」
「・・・いえ、やっぱりいけません!」
「いいんですよ。私、この店の娘なので結構自由なんですよ。今日は母もおりませんし、大丈夫です」
「本当にいいんですか」
「はい!」
紫乃は耳を赤くしたままレジでお金を払い、何度も何度も頭を下げた。おねえさんは「おおにきに。ありがとうございました」と言って微笑んでくれた。どの街にもいい人はいるものである。紫乃はそのままの足でペット用品店に走り、あんぱんをゲットした。
「紫乃先輩。私考えたんです」
西に傾いた陽を背負いながら、合流した二人は街を歩いていた。
「分担しても調べていても情報がないってことは探す場所がわるいんです」
「・・・そうですかね」
この日は五山送り火があるらしく、徐々に人通りが多くなってきていた。
「たぶんですけど、スーパーマーケットが怪しいんです」
「スーパー?」
名探偵あかりが語り始めた。
「はい。姉妹校が普通の学校の形をしていないなら、おそらくとても小さいんです。寮や学食があるかどうか怪しいもんじゃないですか。そんな学校で生活してて、あのお姉様が調理や買い出しを手伝わないわけがありません」
「な、なるほど」
「近所のスーパーを当たりましょう!」
およそ1キロ四方のそのエリアに、食料品を取り扱うお店はコンビニエンスストアや小さな八百屋、精肉店などを含めると14件ある。二人は時間の許す限りこれらに当たることにした。弓奈さん探しもいよいよ大詰めである。
「はぁぁー! 知ってます! この人ここに来ました!」
日が落ちた頃、エリアの東端、八坂神社のすぐそばにあるヤサカマートというスーパーで二人はとうとう目撃情報を得た。
「い、いつ! いつですか!」
「八月の初めです。ほんまにもう、夢みたいに奇麗で、うちあの人のお陰でこれからもバイト頑張ろうって!」
よくわからない証言である。
「うちだけじゃないんですよ。ここで働いてる先輩はもう、何度も見てはるみたいで、三日に一回くらい来てるらしいですよ」
「今までで一番の目撃情報ですぅ! ありがとうございました!」
八坂神社がある祇園地区の最も東のスーパーにのみ彼女が出没するということは、ここより西にはいないということであり、山に囲まれている京都市において、もはや探すべき場所はごくわずかであった。
しかし今日はここであえなくタイムアップ。時間が相対的であろうがなかろうが地球の自転は紫乃たちを待ってはくれない。これ以上の探索は津久田屋旅館の女将さんに心配をかけてしまうので、最後のチャンスは翌朝早朝に懸けるとして、二人は旅館に戻ることにした。
紫乃はドキドキしていた。お別れに代えて、親友のよもぎにあんぱんのおもちゃを買ってきたのだから。あかりが見ていないタイミングでこっそり渡して一緒に遊ぼうと思ったのだ。
「ただいまぁ!」
「おかえりやす」
ところが、旅館に戻ってもフロントで待っていたのは従業員のおねえさんたちだけで、よもぎは一向に姿を現さない。いつもならドッヂボールの球のようにあかりや紫乃の胸に飛び込んでくるのに、今日は声すら聞こえないのだ。
「あかりさん。よもぎは?」
「あ、ほんとですね」
あかりは従業員のおねえさんによもぎの消息を尋ねた。
「すみません。よもぎどこいきましたぁ?」
「それが先ほどからお姿が見えなくて。女将さんもいらっしゃらないんです」
「あれれ、女将さんも」
女将さんがよもぎを連れてどこかへ行ってしまったらしい。
「先輩。もしかしたら本家に帰っちゃったのかもしれません。よもぎは看板犬みたいなものなんで人気なんですよ」
「・・・帰っちゃった?」
紫乃の胸に冷たい痛みが走り、頭がぼーっとした。あかりが靴を脱いで雪駄に履き替えたりしてる横で紫乃はすっかり立ち尽くしてしまったのだ。あの丸くて柔らかくて温かいぬくもりに、もう会えないなんて・・・やさしくなぐさめてくれたあの瞳や無邪気な鳴き声が、さよならも言わずにすべて思い出になってしまうなんて・・・紫乃はあんぱんのおもちゃが入ったカバンをぎゅっと抱きしめた。熱い涙で足元が歪み、かばんにぽたぽたと涙が落ちた。
「よ、よもぎぃ・・・」
「え! 先輩! どうしたんですかぁ!?」
「よもぎぃい!」
紫乃がわんわん泣き出すと同時に、玄関の自動ドアが開いた。そこに立っていたのは他でもない、よもぎと女将さんである。
「・・・よもぎ?」
紫乃が涙を拭くよりも早く、よもぎは紫乃の胸に飛び込んできた。温かくてふわふわの、彼女の親友である。
「よもぎぃいい!」
「女将さんどこ行ってたんですかぁ?」
「お散歩ですよ。朝に行けなかったのでこの時間に。お昼は地面が熱いですからねぇ」
ただの散歩だったらしい。
「よもぎぃ・・・私、明日帰っちゃうんです。だからよもぎのために、ほら。あんぱん買ってきんです」
よもぎはピーと鳴くあんぱんを元気に三度噛んでから紫乃の頬をぺろぺろなめてしっぽを振った。よもぎにはちょっと大きかったが、どうやら気に入ってくれたようである。
「紫乃先輩! いつの間にそれ買ったんですか」
「よもぎぃーよしよしー」
足を拭く前だったため紫乃の服にはよもぎの足跡がたくさんついたが、涙の跡はすっかり消えたようである。




