22、アンドロメダ
「晩ご飯は私が作ります」
紫乃はそう言ってキッチンに籠ってしまった。紫乃は自分の料理の腕を披露したくて仕方がないだけなのだが、二人一緒に仲良く作るという選択肢を思いつかなかった彼女には恋愛運が無いと言える。「リビングで待機するのがあなたの仕事です」と強く言われてしまった弓奈はちょっぴり淋しく思ったがお言葉に甘えて夕食を待つことにした。
家の内装は外観と同様白を基調とした洒落たものだった。とても風通しのいい邸宅で、レースのカーテンの向こうの夕闇で鳴く虫の音も心地よく聞こえる。しかし待機するよう指示されたリビングがあまりに広いため弓奈は妙に落ち着かない。教室ほどの広さがあるのに真ん中に二人掛けの白いソファが置かれているだけで、あとはテーブルもテレビも何もないのだ。弓奈はこっそり立ち上がると紫乃に怒られない程度に家の中を散歩することにした。
リビングのから抜け出した弓奈はエントランス横のウッドデッキにやってきた。レンガ道を挟んだすぐ向こう側はサンキスト女学園の敷地なので学舎や図書館が見えた。
「わぁ・・・」
弓奈は知らなかったのだが、それらは歴史的価値のある建造物ばかりなので夏休みは観光客向けにライトアップがされているのだ。暖色系はもちろん、青や紫といった珍しい色のライトも使用されているのでなんとも幻想的である。弓奈はすっかりその姿に魅了されてしまった。
どのくらい時間が経っただろうか。ふと弓奈が目線を下にやると、レンガ道の青銅のフェンスに少女が一人腰掛けているのが見えた。弓奈たちよりずっと年下に見える少女で、特に親が一緒にいるといった様子もなくひとりで空をぼーっと見上げている。確かに学園周辺は異常に治安が良く、道行く人も女性ばかりなので悪い男性にさらわれる心配はないのかもしれないが、「悪い女性」によくさらわれていた弓奈はどうしても少女のことが気に掛かった。
「こんばんは。天体観測かな」
弓奈は紫乃に気づかれないように家を出て少女の元へやってきた。
「お星様もいいけど、お嬢ちゃんのママやパパが心配しちゃうから、そろそろお家に帰ったほうがいいんじゃないかな」
少女は何も言わずにじっと弓奈を見つめた。フレンドリーな空気は無いが、お節介な弓奈に腹を立てているという訳でもなさそうである。
「んー、私も一緒にお星様見ようかな」
弓奈は少女の隣りに腰掛けた。少女を置いていけないので時間が許す限り彼女に付き合おうと思ったのだ。おしゃべりしているうちに彼女の両親が探しにくるかもしれない。
「お嬢ちゃんは小学生かな。何年生なの?」
相変わらず少女は返事をすることもなく弓奈の瞳を覗き込んでいる。どうやら無口な子らしいので弓奈は少女自身について尋ねるのは控えることにした。
「お星様って言えば、私はね、これが好きなの」
弓奈はポケットから桃色の毛糸を取り出すと得意のあやとりを始めた。少女の視線はようやく弓奈の顔から離れ弓奈の手元に注がれる。
「はいこれ、アンドロメダ。星座だよ。お空に見えるはずなんだけど、一緒に探してくれる?」
少女は弓奈の作った桃色のアンドロメダを見て目を丸くした。弓奈は子どもが好きなのでこういった些細な表情の変化が可愛く思えて仕方がない。少女は弓奈の作ったアンドロメダ座を指でちょんちょん触ってから夜空を見上げた。弓奈はその横顔にどこか見覚えがある気がしたが、かつてこの少女に会ったことがあるのかどうかは思い出せなかった。
「あれ」
しばらくすると少女はそう言って空を指差した。弓奈がどれどれと言って少女の指先を追うと、そこには確かにケフェウスの向こう側で澄んだ輝きを放つアンドロメダ座が浮かんでいた。
「そうそうあれ! ありがとう。私あれ好きなの」
紫乃の家の裏には草原が広がっている。弓奈はこの草原を越えてずっと歩いていけばあの星空へたどり着けるような気がした。
「アンドロメダはお姫様の星座なの」
弓奈は空を見上げながら独り言のようにぽつりぽつりと語り出した。
「そのお姫様はお母さんが海の神様を怒らせちゃったせいで、大きなクジラに食べられちゃう運命だったんだけど、王子様が助けに来てくれたの。翼の生えた白い馬に乗った王子様がね。素敵でしょ。そんなロマンチックな物語を生きたお姫様が夜空で輝いてるんだって気づいた日から、ひとりでも夜中に化粧室へ行けるようになったんだぁ。いやぁ、小さい頃の私にとってアンドロメダ様は救世主だったよ」
いい話の仮面を被ったくだらない話である。ふと見れば隣りに腰掛けていたはずの少女も居なくなっていた。あぶない女子高生に出会ってしまったと判断して去ったに違いない。だがそうして無事に家に帰ってくれたのならそれでいいと弓奈は思った。弓奈のほうも紫乃が自分を探している可能性があるので彼女の家へ帰ることにした。紫乃の作ってくれた晩ご飯はきっと美味しいに違いないのだ。
「・・・残したりしたら承知しませんから」
テーブルにはたくさんのお皿が並んでいる。そのお皿の上には色とりどりのサラダやサラダ、サラダ、そしてサラダが盛られていた。
「す、すごいね。紫乃ちゃんはベジタリアンだったのかな」
「文句があるなら・・・食べなくてもいいです」
「全然! すごく美味しそうだよ。ありがとう紫乃ちゃん」
紫乃は失敗した。弓奈の前でかっこいいところを見せたくて晩ご飯作りを引き受けたのだが、自分にはサラダしか上手く作れないことをすっかり忘れていたのだ。そんな事情を知らない弓奈は、紫乃は普段野菜ばかりを食べているものだと思い込む。やっぱりクールな人は違うなぁなどと納得しているのだ。
「あれ・・・ちょっと待ってて下さいね」
紫乃が突然ダイニングから出て行く。弓奈はとりあえず野菜だらけのテーブルの下座に腰掛けて彼女の帰りを待った。座ってみて気がついたのだが、弓奈の正面にもうひとつ席が用意されている。紫乃の分も合わせると三人分の食事が用意されているのだ。これは一体どういうことなのか推理する間もなく紫乃が戻って来た。
「・・・どこ行ったのでしょう。いつも部屋にいるのに」
「誰の話?」
「妹です」
紫乃に妹がいたなんて話弓奈は一度も聴いていない。しかし弓奈はその子について猛烈に心当たりがあった。
「もしかしてその妹さんって・・・」
弓奈が言いかけたとき玄関の開く音がした。紫乃はダイニングの扉を開けて廊下に顔を出した。
「こんな時間にどこ行ってたんですか。今日はお客様が来ているんだからいい子にしなきゃだめです」
紫乃は妹に対しても敬語を使うらしい。
「もういなかった・・・」
「え、誰がいなかったんですか」
少し暗い顔をした少女がダイニングに入って来た。弓奈が思った通り先程会った少女である。彼女の顔にどこか見覚えがある気がしたのは姉である紫乃の面影があったからなのだ。
「あ」
少女は弓奈を見て立ち止まった。弓奈はどんな顔していいか少し迷ったが笑顔でひらひらと手を振ってみせた。
「また会ったねぇ」
「え・・・弓奈さん、雪乃のこと知ってるんですか」
少女は雪乃ちゃんという名前らしい。鈴原家は娘に乃という字を付けるこだわりがあるのだろう。名前の半分が適当で出来ている弓奈と違って何か素敵な意味があるに違いない。
雪乃はスリッパを床に擦りながらゆっくり弓奈に歩み寄ると細い腕に抱えた本を彼女に差し出した。
「貸してあげる」
星座の神話という本だった。




