147、Akane
茜は音楽室の放課後掃除当番になった。
去年までは早朝に二年生寮のエントランスを掃除をする係だったが、放課後すぐに自由になる早朝清掃係はクラブ活動に熱心な運動部員たちから人気だったので今年は彼女たちに譲ったのだ。しかし、どうも早朝に彼女たちが清掃している気配がないので結局茜が今まで通り早起きしてエントランスにもモップをかけている。
広い音楽室の清掃は決して楽ではなかったが、放課後の予定が特にない茜はその日もたった一人で全てを終えた。誰もいない音楽室の大黒板のレールを指先でなぞりながら、茜は自分の孤独な毎日について考えた。
茜は生来無口な女だったが、高校生になってからはなお一層人としゃべらなくなった。彼女の胸に哀しみの影が差すのは、一人ぼっちでいる瞬間ではなくクラスメイトと一緒にいる時なのである。
他律と自律の間にある友達律とも言うべき空っぽな社会性への自分勝手な嫌悪感が原因であることは彼女も分かっていたし、別に一匹オオカミを気取っているわけでもないのだが、とにかく茜は一人でいることの方が楽で、それが彼女の自然の姿であった。茜は心を閉ざした少女だったのである。
茜が黒板の前でぼんやりしていると不意に音楽室の後方の扉が開いた。音楽関係のクラブは第二音楽室やもっと立派な専用ホールを使用しているはずなので訪問者が現れるはずなどなかったのに、彼女はやって来たのだ。
「こんにちは」
髪をひとつに編んでヴァイオリンケースを抱えた少女が小声で茜に挨拶をした。茜は彼女に向かって軽く頭を下げると何事もないようにほうきと布巾を片付け始めた。
「あの、ここで練習してもいいですか」
茜は「どうぞ」とだけ言ってカバンを持ち、さっさと音楽室を出た。
翌日もヴァイオリンの少女は現れた。
「こんにちは。練習してもいいですか」
茜はまだ掃除を終えていなかったが「どうぞ」と返事をした。少女は窓際の長机に荷物を置くとケースから骨組みだけのような不思議なヴァイオリンを取り出し、ごくごく小さな音で練習を始めた。本来は掃除中に興味もない楽器の演奏を聴かされるなど茜には耐えられないが、小鳥のさえずりのように遠慮がちで澄んだその音色は少しも不快に感じられなかった。
次の日も少女は現れた。
「こんにちは」
少女の挨拶に茜は黙って頭を下げ、昨日同様黒板前の掃きそうじを続けた。さっさと掃除を終わらせて帰ろうとしたのだが、ふと顔をあげると、あのヴァイオリンの少女もほうきを持って掃除を始めているではないか。彼女はお手伝いをしてくれるつもりらしい。
「・・・一人で出来るから手伝わなくていい」
大抵の女はこう言えば不機嫌そうな顔をして去っていくはずで、茜にはそのほうが都合がよかった。茜の思惑通り少女は「はぁい」と言って微笑むと大人しくほうきを片付けにいった。これでよかったのだ。茜には孤独が似合いである。
ほこりを一カ所に集め終えた時、茜はちりとりを用具入れの中に忘れてきていることに気がついた。必要な用具は予め用意しておくのが茜のやり方なのだが今日は失敗したようである。茜はちりとりを取りにいこうとした。
「はい」
なんと、足下にちり取りがやってきた。少女は茜の足下で再びニッコリ笑うと大人しく窓際の席へ戻っていった。茜は急に自分が小さい人間に思われ、意地を張って自分を守る必要もこの場にはないと感じられたのだった。
この日から茜は掃除が終わってからもなんとなく音楽室に残って少女のヴァイオリンを聴いた。大抵読書をしたり宿題を進めるふりをしたりしていたが、実際は音楽鑑賞の時間である。少女はクラシックに始まり、童謡や唱歌などの有名な曲を幅広く弾いた。心を開きはしないが、少なくとも心を閉ざし隠しておく必要を感じない相手に茜は人生で初めて巡りあった。茜本人にあまり自覚はなかったが、これは彼女にとって革命的な出来事なのである。日を追う毎に二人が腰掛ける位置は少しずつ少しずつ近づいていった。
「私、さとかって言います。古里の里に歌って書いて里歌。あなたは?」
韃靼人の踊りという曲を弾き終えた少女が、遠慮がちに茜に呼びかけた。
「茜・・・石津茜」
「茜さん・・・」
里歌は茜に向き直った。
「よろしくお願いします」
毎日一緒に放課後を過ごしているのに改めて挨拶をされると茜も少し照れてしまう。
「よろしく・・・里歌」
「・・・はい」
里歌は恥ずかしそうにうつむいた。茜は里歌の様子を見てなぜか胸がキュウっと縮こまるような不思議な痛みを感じた。
「茜さん。実は私、悩みがあって」
「悩み?」
「はい・・・お手伝いして欲しいことがあるんですけど・・・」
「君はエビー、君はエビー、エビも跳ねずば浮かべまいー♪」
駅前の人々の視線が里歌たちに注がれる。
「でもエビ反りって逆だと思うのよ私ー♪」
里歌は器用にバイオリンを弾きながら大きな声で歌った。大人しそうな彼女がまさかシンガーソングライターを目指していたなんて茜には想像もつかなかったが、何より驚いたのは歌っている時の里歌の顔が今まで見た事がないほど輝いていたことだ。一人では勇気が出ないから隣りに居て欲しいなどとお願いしてきた割には随分とノリノリである。
「今日はありがとう」
「いや、私はなにもしていない」
二人は駅前のドーナツ屋に入った。
「そんなことないよ。茜ちゃんが隣りにいてくれたから私歌えたの」
里歌の澄んだ歌声に誘われたのか、それとも二人組の片方が正座しているだけのストリートライブが笑えたのかは不明だが、何十人もの通行人がその場に足を止めていた。プロとしてやっていけるかは別問題としても、里歌の音楽センスには光るものがあるようだ。
「今日はすごく楽しかったし、嬉しかった。茜さん好きなドーナツ食べていいよ。ごちそうしてあげる」
「私は別にドーナツなんて・・・」
「いいからいいから」
そんなスイートな世界の食べ物は自分に似合わないと思いながら茜は適当にドーナツを選んだ。お金を払ってくれた里歌はさりげなくおつりを全部レジの脇に据えられた募金箱に入れていた。箱を見てみるとどうやら野生動物を守るための募金らしい。
「動物が好きなのか」
「うん。小さい頃から大好き。パンダとか、ラッコとか」
「そうか・・・」
茜も募金箱に50円玉を投入した。チャリンととても心地よい音がした。
「う・・・うまい!」
席について一口ドーナツをかじった瞬間に茜の味覚はカーニバル、すっかりドーナツに心を奪われた。
「気に入ってもらえてよかった」
ドーナツに奪われたはずの茜の心は、里歌の笑顔を見たとたんにすっかり彼女のほうへ向いてしまった。茜はこの胸の痛みに戸惑いを隠せなかったが、悪い気分ではなかった。
里歌は翌日からヴァイオリンの練習だけでなく作詞作曲も音楽室で行うようになり、茜も自分のささやかな教養でそれを手伝った。そして二人は月に2度駅前でストリートライブを行った。客観的に見ればシンガーとそのマネージャーだが二人はユニットのようなものだった。だから里歌はライブ場に掲げる名前を「里歌」ではなくなにか全く新しい呼称を決めようと言ったのだが、茜はそれを断った。あくまで自分は脇役であって主人公は里歌だからというのが茜の言い分である。結局里歌はお互いの意見の間を取って「Satoka」と書いて掲げるようにした。
「茜さん、おいしい?」
「んー、これはうまい!」
「よかったぁ」
茜があまりにドーナツ屋を気に入っていたので、里歌は自分も甘いものを作れることを彼女にアピールしたくなり、パフェを作ってみたのである。音楽室の目の前にある階段を下ればすぐに家庭科室なのだが、そこで勝手に作ってしまったのだ。里歌は去年二年生寮のフォカッチャドルチェでアルバイトをしており、限りなくメイドさんに近い衣装を着てパフェを作りお客に出していたから作り方は心得ていたのだ。ただしクリームの上にサクランボを乗せるのは里歌オリジナルのアレンジである。
「ねえ茜さん」
「なんだ」
「私たちが初めてしゃべった日のこと覚えていますか」
どうでもいいが音楽室で物を食べてはいけない。
「ここで掃除中に・・・だろう」
「やっぱり、覚えてないんですね」
里歌はクスッと笑った。
三年生に上がる直前、里歌たちは修学旅行で長崎に出掛けた。クラスが違う里歌と茜が同じ部屋や班になったりすることはあり得ないのだが、里歌が班別行動で稲佐山の展望台へ上ったとき、偶然茜の班もそこにいたのだ。
「夕方で、ちょっと風が強くて」
「ああ、確かにそうだったかもしれない」
「そこで私、シーボルト記念館かなにかの券を風で飛ばしちゃって、パッて振り向いたら茜さんが落ち着いてキャッチしてた。私たちが最初に会話したのは稲佐山のてっぺんで、茜さんが『はい』で私が『ありがとうございます』だったんだよ」
「なるほど。あれは君だったのか。人としゃべる時あまり顔を見ないからな」
二人は一緒にパフェをつつきながらクスクス笑った。とても幸せで、永遠に続くのではないかと思えるほど穏やかな午後だった。
12月のある日、茜はいつになく暗い顔をした里歌に手を引かれ駅前のドーナツ屋へやってきた。
「里歌・・・どうかしたのか」
里歌はうつむいたまま自分のひとつ編みの髪を指先でいじっていた。
「私・・・お姉ちゃんがいるんだけどね・・・ケガをしたの」
「ケガ?」
里歌にはちょっと天然だが爽やかハイテンションな姉がおり、彼女はみどり中で体育の先生をしていた。里歌は姉のことが大好きであり、病弱だった小学生時代によく彼女が高校の帰りに病院にお見舞いに来てくれた話などをよく茜に話してくれていた。
「お姉さん、大丈夫だったのか」
「うん。でも脚のケガだったから・・・もう体育の先生は続けられないって」
里歌の姉が先生でいられたのはわずか一年半だった。
「私・・・私・・・」
里歌は何か重大な悩みに直面しているようだ。茜は彼女の隣りに座り直して頭を撫でてあげたが、その指先は小さく震えた。里歌はそんな茜の胸に抱きついて涙をこぼした。
「私・・・私ね・・・」
里歌の体の柔らかな感触とマフラー越しに感じる彼女の吐息が茜に不謹慎な胸の高鳴りを生んだが、茜はなんとか辛抱して彼女を優しく抱きしめ続けた。
「私・・・学校の先生になる。お姉ちゃんにね、夢の続きを見せてあげたいの」
「そうか・・・それもいいかもしれないな」
里歌の人生は里歌のものだが、それ故に彼女の選んだ家族想いな決断も尊重されるべきである。
「ごめんね」
「・・・どうして謝る」
里歌はあふれる涙を拭いもしないで顔を上げて茜を見つめ、嗚咽の合間に答えた。
「どうしても・・・」
翌日から音楽室に里歌が来なくなった。
里歌のためになにか自分ができることはないのか考え続けるうちに、卒業式の日が来てしまった。自分は何もできない・・・そんな真っ青な哀しみに苛まれた茜には卒業式なんてあっという間に終わった。
卒業生に放課後の清掃などないし、寮の荷物も今朝実家に送ったものが最後なので寮へ戻る必要もない。電車へ乗って家へ帰るだけである。茜は学園のバス停へ向かった。バスのステップに左足を乗せたところで、茜は不意に何か大事な忘れ物をしたような気がして立ち止まった。頭をよぎったのはあの人の笑顔と泣き顔である。茜は学舎へ引き返すことにした。
音楽室に人影はなく、いつも通り楽器と長机が黙って立ち並んでいるだけである。茜はせっかくだから掃き掃除くらいやっていこうと思い立ち用具入れに向かった。
ところがふと見ると、長机の上になにか置かれているではないか。茜は思わずカバンを床に落として机に駆け寄った。茜がいつも腰掛けていたその場所に置かれていたのは、里歌のヴァイオリンケースだった。
「さ、里歌・・・」
ヴァイオリンケースの上には一枚の便箋が乗っていた。
『これはほんの一年ほど前までは私の一番の親友だったヴァイオリン、マリアです。私は小心者のくせに本気で日本一のシンガーソングライターを目指していました。ヴァイオリンと歌というのはあまり相性の良いものではないけれど、幼い頃からあごや鎖骨にアザができるほど続けてきたこのクラシックヴァイオリンを個性にしてやっていけたらいいと思い立ち頑張ってきました。でも、ホントにホントに残念なことにそれは叶いませんでした。私は歌手になる夢の他にどうしてもやりたいことを見つけたのです。私は姉と同じ学校の先生になって、姉が見ようとした景色を見にいくことに決めました。その覚悟のために私は今日から姉っぽく明るく生きていきます。体も鍛えます。もううつむきがちで小心者な私とは決別です。髪も切ってしまいました。お姉ちゃんは、私の命と同じくらい大切なんです。私は自分の人生が二度あればと願うことがあります。そうすればマリアの見ようとした景色を見にいこうと汗を流したことでしょう。
私のかつての夢の象徴であるこのマリアが側にあると私の弱い心は揺らぎます。ですからこの手紙を最初に読んだあなたにこのヴァイオリンを預かって欲しいのです。これはエレクトリックヴァイオリンですので電気的にスピーカーへ接続しなければ大きな音が出ませんし、音色に繊細な表情を出すことは非常に困難ですが、スイッチ一つで様々な楽器の音を出せる面白い楽器です。保管や修理も比較的簡単です。よろしければ使ってあげて下さい。
ありがとう。ありがとう。ありがとう』
手紙の裏にドーナツ屋の割引券が一枚付いていた。これは明らかに茜に向けた手紙だった。
「里歌・・・里歌・・・」
茜は泣いた。マリアを抱いたままいつまでも泣いた。そして窓からこぼれ落ちる日の光が茜色に変わる頃、彼女の胸に確固たる決心が沸き上がった。
「私が・・・君の夢を叶える。・・・日本一のシンガーソングライターになってみせる。必ず・・・」
茜はマリアを抱きしめて夕焼けの学舎を走り出した。
茜は血の滲む努力により内に秘めた音楽への才能を数年のうちに開花させた。Akaneという名で、髪をひとつに編んで活動を始めた彼女は、楽曲に込められる世界観の独自性と素直で澄んだ歌声から幅広い年齢層から支持されあっという間に大人気歌手となった。ウソみたいな話だが事実なのだから仕方がない。Akaneが開くライブはいつも小規模だったが会場は彼女の歌声を直接聴きたい、顔を見てみたいと思う客で超満員であった。Akaneは緊張を理由にあまりメディアに顔を出さない女だったが、一度端麗館というメーカーの化粧品のCMに出演したところあまりに美人だったためちょっとした社会現象になった。
また、仕事をしていない時の彼女はトレードマークとなっている髪型、つまり三つ編みを一本作って髪をまとめるやり方をしていないだけじゃなく、化粧も全くしておらず死神みたいな顔をしているため誰もAkaneと気づかない。極めつけはライブやCD、楽曲ダウンロードの売り上げの全額をWAF世界野生動物保護基金に募金しているため、とてつもない貧乏生活をしているが、それも誰にも知られていない。
茜は日本一の歌手になった暁には里歌に告白したいと考えていたが、行方も分からない相手にどうやって想いを伝えればいいか、そしてどんな気持ちを伝えていいか分からず途方に暮れて、いつもの店の大好きなドーナツを抱えて歩いていたところ、倉木弓奈という少女にぶつかったのである。
一方里歌はあれ以来姉の見舞いをしながら学校の先生になるために一生懸命勉強し運動能力を磨いた。姉は激しい運動は禁じられているが里歌のために得意の鉄棒などを指導してくれた。
見事サンキスト女学園の体育教師になった彼女だったが、自分のひとつの大きな夢を封印して大好きな姉の背中を徹底して追った覚悟から職場では自分の素を出さず、まるで姉のように元気で天然な先生を演じ続けた。生徒の前で彼女の素顔が思わず出てしまった瞬間は、ある年の学園祭のステージに「シンガーソングライター石津さん」という幕を見た時と、修学旅行の引率で長崎に行った時だけである。弓奈の前で一度だけ野生動物の募金箱にお金をつっこんだことがあったが、あの程度で里歌の秘密を悟れたらただの天才である。夏休みなどの長期休暇では高校時代の髪型をしてこっそり音楽室でヴァイオリンを弾いて昔を偲んだこともあったが、それはごく稀に目撃されてもなぜか幽霊だと思われたりしていたので支障はなかったのだ。
今日里歌が21世紀音楽祭を観に来たのは、数年前から人気が爆発していたにも関わらずなかなかこの日本一の音楽の祭典に出られず、ようやく今年出場が叶った茜を祝福するためである。もちろん里歌は茜がAkaneとして音楽活動していたことをずっと前から知っており、自分のために歌手を目指してくれたことは明らかだから彼女に対してアツい想いを抱いている。
Akaneはステージの上でギターを弾きながら自分の素直な気持ちを、弓奈とともに悩み抜いた真心のあり方を歌声に乗せて全国のお茶の間に、そして里歌に伝えた。間奏ではヴァイオリンのマリアを手に取り、穏やかで包み込むような深みのある音色で切ないメロディを奏でて日本中を茜色に染めたのだった。たった数年で音楽業界の頂点に辿り着き天才と呼ばれた彼女は、実はとっても不器用で、それゆえに非常に美しい女性だったのである。




