146、音楽祭
ずっと顔が熱かった。
向かいの座席に腰掛けて電車に揺られる弓奈と、ふとした拍子に視線が合う度に紫乃の体は湯船に浸かった時のようにぴりぴりとしびれ、燃えるように熱くなった。まもなく音楽堂ホール前の駅に到着するのだが、早く着いてくれないと紫乃は倒れてしまいそうである。
緊張しているのは弓奈ももちろん同じで、今日フラれるとだけ思っている紫乃に比べて彼女のほうは告白をするという大きな仕事を背負っているのでもしかしたら紫乃以上のドキドキを味わっていると言えるかもしれない。
ちょっと震えてきた弓奈の左手を隣りの席のあかりがそっと握ってきた。
「おねえさま! 手相みてあげます!」
「え、あ、ありがとう」
あかりは騒ぎながら弓奈の手をくすぐってくれた。これは彼女なりのさりげないエールであり、こういう気遣いができる辺りはやはり生徒会長になるだけある。
「おねえさまの手、真っ直ぐ横向きの線が入ってるんですね」
「あ、うん右手も真っ直ぐだからこうすると繋がるの」
「ホントですね! すごいですぅ!」
「この線どういう意味があるの?」
「さあ」
手相は分からないらしい。
向かい側の座席で紫乃は弓奈たちの様子を指をくわえて見つめていた。紫乃もあかりのように弓奈の手を触りたいのである。
「なに鈴原、手相みて欲しいの?」
「ちがいます・・・」
「みてやるよ」
隣りの席の舞が強引に紫乃の手相を見始めた。これはおそらく気遣いや応援ではなく素である。
「うわ、お前生命線なくね?」
「あります・・・」
「ていうか手ぇ小せえなー」
「うるさいです・・・」
すっかり都会めいた車窓がゆるやかに速度を落とし始めると、車内アナウンスが目的地到着を告げた。彼女たちは一時間余りも温かい電車の座席に揺られていたので電車を降りるというだけでなんだか緊張してしまう。弓奈、紫乃、あかり、美紗、雪乃、舞、舞の友達、そして香山先生の8人はアヒルの親子のように連なってホームに降り立った。
駅の地下道は21世紀音楽祭のポスターと案内標識で埋め尽くされており、迷いようがないというのに香山先生は真逆にどんどん進んでいく。弓奈はそっと先生にささやいた。
「せ、先生・・・あっちの階段から出ないとだめみたいですよ」
「おぉ、その手があったかぁ♪」
わざとやっているのではないかと思うくらいの天然ぶりである。
改札を出るとそこはクリスマス一色の大都会であったが、同時に海風が感じられた。実は東京国際音楽堂ホール周辺は東京湾に面しており、今日はあいにく曇っているが晴れた日は高台から太平洋を望むことができるなかなか洒落た街なのだ。
「もう16時!? みんなぁ、早く行こう」
香山先生はどんどん先に行ってしまう。今度は道を間違えていないようなので結構なことが、そもそも今日はもっと時間に余裕を持って来るはずだったのにこの香山ちゃんが「なに着ていけばいいか迷っちゃって♪」などという理由で集合場所に一時間も遅れてきたせいで少々予定が押している。彼女がそのあたりに責任を感じているかどうかは謎だ。
随分と人通りが多いので弓奈は雪乃ちゃんと手をつなぐことにした。今日の雪乃もやはりバニウオを背負っているのだが、このバニウオは今、学園前の駅でサンタの格好をした女の子が配っていた三角帽子を被ってお洒落している。
「美紗」
「は、はい!?」
「手」
弓奈と手をつなげてご機嫌な雪乃は、もう片方の手を美紗とつなぐことにした。雪乃は昨夜の一件ですっかり美紗を信頼している。
「じゃあ美紗ちゃんは私とも手を繋ごう! これは命令である!」
あかりはお気に入りの美紗ちゃんの半分を確保した。美紗は割とモテる女である。
今なら弓奈さんの片手が空いている・・・紫乃は後ろのほうでまた指をくわえていた。
「どうしたの鈴原。手ぇつないであげようか?」
「・・・あなたはいいです」
「そう言うなって」
「い、痛いです・・・」
「お前手ぇ小せえなー」
「それはさっきも聴きました・・・」
元テニス部に思い切り手をつながれてしまった。
「舞の馬鹿力は健在だね。ラケットだけじゃなくて筆記用具も握ってないんだから衰えてると思ってたんだけど」
舞の友達はそう言いながら紫乃のもう片方の手を握ってくれた。元運動部員のサンドイッチの出来上がりである。紫乃はなんだか恥ずかしかったが、ほんのちょっとだけ嬉しかった。
音楽堂ホールの駐車場を抜けていると、あかりが香山先生を呼び止めた。
「先生!」
「なになに?」
「私調べて来たんですけど、ホールの正面口は毎年混雑してて入るのに時間がかかるんですって。そこで風邪引いちゃう人もいるみたいですよ」
「ふああ」
「それでおススメが、ホールの南口です! こっちも普通にチケットで入れます! 人が少ない裏口みたいですよ」
「なるほどぉ♪ そっちに行こう」
その会話を弓奈は聞き逃さなかった。
「え、裏口に行くんですか」
「うん♪ 風邪引いちゃやだから」
「そ、そうですよね・・・」
弓奈はホールに入ってしまう前に一度石津さんに会いたかった。石津さんは余程のドジをしていない限りは人がたくさんいる正面口のほうでストリートライブをやっているに違いないのだ。弓奈は自分だけ別行動をとって正面から行こうか考えたがこの大都会で一人きりはあまりに心細いし、かといって誰かを誘って巻き込んでしまいその子が風邪を引いてしまったら困る。仕方が無いから弓奈もみんなと一緒に南口へ行くことにした。
ちなみにあとで訪れることになる三日月の広場は正面口のほうにあるので、告白の瞬間はきっと石津さんのギターやヴァイオリンや歌声は聴こえていることだろう。この点は安心である。
21世紀音楽祭という名前の通りこの祭典はかなりはりきったもので、会場がどういうわけか必要以上に近未来的なデザインでできている。チケットを見せて入場する際も、離れた位置に立つスタッフのおねえさんが不思議なセンサーをかざすだけで数人のチケットの詳細を確認していた。ただし弓奈が通った時おねえさんはぶっ倒れていた。美は飛び道具なのだということをスタッフの彼女は学んだに違いない。
裏口から入ったせいで、スタッフやダンサーたちが準備をしている通路なども渡り廊下からちらっと見えた。弓奈は紫乃への告白のことで頭がいっぱいだったが、よく考えるとこの音楽祭はすごいのである。日本でもっとも有名なミュージシャンたちや今年を代表する話題の芸能人などが集結して一夜限りのライブを作り上げるのだから。
「雪乃ちゃん、楽しみだね」
「うん」
「いろんな楽器が聴けるよ」
「楽しみ」
雪乃は弓奈の腕にぎゅっと抱きついた。雪乃ちゃんはちょっと背が伸びたなと弓奈は思った。
会場はスタッフさんが開けてくれた重そうな扉の向こうにあり、一歩足を踏み入れたとたんにため息が出そうになるほど暖かかった。客席は学園の時計塔ホールとはまた違った意味の立体構造で、音響や視覚効果などを最新の視点から研究して生み出されたものに違いない。ステージは幕が下げられているわけでもなく既に堂々と構えていて、はやりこちらも複雑な形をしていて左右に客席のほうまで広がったりしている。
「すごいです! はやく席見つけましょう!」
盛り上がったあかりが赤いじゅうたんの階段をパタパタ駆け上がっていった。慌てずとも席はなくなりはしないし、人が見ているのでどうかゆっくり動いて欲しいものである。
弓奈のチケットに表記されているシート番号は2階席C3列18番である。弓奈の運によるものなのかシステム上そうなのかは分からないが今回当選したチケットは全て連なった座席のチケットだったためみんなで二階に移動である。
「うわー、高けえー」
舞が一階席を見下ろしてハイテンションになっている。三階席のほうがもっと高いのだから、上から物が降ってくる可能性だってあるのに呑気な女である。
弓奈が18番の席に腰をおろそうとした時、すぐ右隣りに紫乃ちゃんがやってきた。実は紫乃の席は19番なのだ。お互いに相手に嫌われたと思い込んでいる二人だが、一瞬目が合ったので弓奈はちょっと話しかけてみることにした。
「し、紫乃ちゃんそっちの席で大丈夫?」
「え、な、なにがですか」
「こっちのほうが通路近いけど、代わろうか?」
「い、いいです。このままで」
「そ、そっか」
案外普通にしゃべってくれたので弓奈はほっとした。紫乃のほうも全身変な汗をかきながら弓奈の隣りに座った。
「あとでさ・・・」
「はい?」
「あとで一緒にお話しようね」
「は、はい・・・約束ですから・・・」
「前半終わったタイミングで・・・三日月の広場っていうところがあるんだけど、そこでいいかな」
「わ、わかりました・・・」
どうやら告白も計画通りの場所でやれそうである。弓奈はひとまず落ち着いて髪やスカートを整えた。それにしても座席がやわらかくて気持ちいい。
「先生はここね♪」
左隣りには体育教師がやってきた。この人は途中で眠りだしそうである。
開演時刻が迫るとデパートのウグイス嬢みたいな人が非常に長い注意事項の伝達と丁寧な挨拶をしてくれた。飲食厳禁などは分かるが、調理や収穫作業の禁止まで挙げられていた。過去になにかトラブルがあったに違いない。
「いよいよ始まりますね!」
香山先生の左隣りのあかりがはしゃいでいる。高い天井の無数の照明と足元のライトが暗くなったので弓奈もドキドキしてきたが、やはり頭の中は告白のシミュレーションで忙しかったりする。
「まずは2年ぶりの出場になります、沖縄県出身のとっても元気な元祖パイナップル系アイドル識名ミライさんです! 歌って頂きますのはドラマの主題歌にもなって話題になりました『那覇と札幌は割と近い』です。どうぞー!」
ちょっと派手なおねえさんが登場した。「元祖」パイナップル系ということは今は大勢いるのだろうか。というかパイナップル系アイドルとは一体何なのか、こうして歌を聴いていても弓奈はあまりピンと来ない。よく考えてみると弓奈はテレビをほとんど見ないため、有名な歌手が出て来ても全てハジメマシテなのである。
ところが、あかりたちは違う。
「キャー! 今日の識名ミライはすっごいパイナップルですねぇ!」
「んー、マジで今日はパイナップル度高いな」
音楽番組好きの舞も語り出した。パイナップル度とは一体何か。
「やっぱり全国ツアーやってからは気合いが入ってますねぇ!」
「後輩が増えると顔つきも変わるね。あ、ウインクした」
「夏に練習してたやつですね!」
「うまくなったなぁ」
詳しすぎる。生放送のテレビカメラも回っているのであまり私語をしているとスタッフに怒られそうである。
音楽を聴いてリラックスしながらの考え事はなかなかはかどるので、弓奈はステージを舞う美しい歌姫たちの面影に色んな思い出を重ねたりして紫乃のことを考えた。歌の途中にこっそり紫乃のほうを見ると、偶然彼女と目が合ってしまったためすぐに前を向いた。実は紫乃は会場が暗くなってからほとんどずっと弓奈の横顔に見とれていたのだ。
中継で各地のクリスマスライブの会場から歌手が歌ったりすることもあったのだが、長崎の夜景やクリスマスツリーが飾られている京都駅などが画面に写って弓奈は懐かしかった。あとは横浜に中継があれば学園のイベントはコンプリートだったところである。知らない歌手ばかりだったが、弓奈好みの楽曲をいくつも聴けたのでとても楽しいひと時であった。
しかし、事件は音楽祭前半のラストに起きる。
そろそろ前半が終わりそうな空気を感じて弓奈と紫乃は心臓を高鳴らせていたが、同じようにドキドキしていた少女がすぐ近くにいた。
「あー、いよいよだぁ・・・」
「舞、うるさいよ」
「いやこれはね、黙ってられないから」
舞がそわそわしている。
「曲順みた? 次Akaneなんだよ」
「安斎先輩、もしかしてAkaneのファンなんですか?」
ちなみに舞とあかりは席が4つも離れているのに会話をする猛者である。
「ファンなんてもんじゃないから。アルバムもシングルも全部持ってるし、部屋にいるときはずっとかけてるわ。ミニライブのTシャツはかっこよすぎて業者並に買っちゃったしね」
「あれ? 舞ってさ、前に私と一緒にCD買いに行った時にAkaneの他にも好きな歌手いるみたいなこと言ってたじゃん。結局誰が好きなの?」
舞の友達は記憶力が良い。
「Akaneが一番に決まってんじゃん。あんた何年うちとコンビ組んでんだよ。それくらい分かるでしょ」
「安斎先輩さすがですぅ! Akaneすっごくいいですよね! 美人ですし!」
「Akane・・・」
最後につぶやいたのは弓奈である。弓奈はこのAkaneとかいう人物と全く縁がないわけでなく、記憶が正しければおそらく一年生の時の体育祭のリレーで「Akaneファンのための同好会」とかいう団体と競争している。テレビをほとんど見ていなくても時代に完全に取り残されているわけでなくて弓奈は少し安心した。なんともレベルの低い安心である。
「なに倉木、あんたにAkaneの良さが分かんの?」
「え、いや分かんないけどね」
舞がからかってきた。ちょっとつぶやいただけなのにしっかり聴いていたらしい。
「前半の最後を締めくくって頂くのはこの方! デビュー当初から各方面の話題をさらった東京都出身のシンガーソングライターAkaneさんがいよいよ今年、満を持して21世紀音楽祭に登場です! 彼女の紡ぐ独創的な歌の世界と素晴らしい歌声、そして魅力たっぷりのルックスに日本中がとりこになっています! 歌って頂きますのは先日見事LP大賞を受賞した美しいバラード、『カントリーソング』です。どうぞー!」
聞き間違いかなと弓奈は思った。なにしろカントリーソングは石津さんが作った曲の名前だからだ。
司会の女性に紹介されてステージに出て来たギターのおねえさんは、おそらく曲の途中で弾くのであろうヴァイオリンが予め置かれている台の横に立った。彼女はヨーロッパの田舎町で流行っていそうな、三つ編みで髪を一本にまとめるステキな髪型をしており、何よりお顔がとっても奇麗である。さっきのパイナップルねえちゃんのような明るくはじけるような雰囲気ではないが、悲しみに暮れる夜の窓辺にそっと降り立った天使のような、華やかさの中に近年稀に見る上品な落ち着きを放つまさに美人であった。弓奈がもしこの会場にいなければ、おそらく場内4000余人の中でもっとも美しい女性は彼女だったことだろう。それくらいの美女だった。
だが彼女がギターを弾き始めて少し顔を上げた瞬間、弓奈は心臓が止まるかと思った。
「えええ!?」
Akaneという有名な歌手・・・それは紛れも無く、お化粧をした石津さんだったのである。




